アッツ島の戦い|日本兵2638人が全滅。昭和天皇が激怒した日本初の玉砕の真実【太平洋戦争】

だめだ。圧と増援計画は放棄するように祖の栄光を祈る。天皇陛下万歳。あと昭和 [音楽] 18年5月12 日米軍が島に上陸天皇は現地の守備隊の様子を気にかけ毎日のように選境を尋ねられたです。 厚の守備隊の様子はどうなっている?天皇の心配も虚しく同年 [音楽] 5月29 日に現地の守備隊から大本映へ最後の伝方が届きました。 鬼密書類全部償却。これにて無線期破壊処分す。 ついに圧島の守備隊が玉砕し、当時の陸軍大臣秀はその胸を天皇に伝えました。 [音楽] 守備 隊は見事玉砕。この伝方を最後に連絡は途えました。 [音楽] 彼らは最後まで勇敢に戦い抜いた。そのことを伝えよ。 [音楽] 恐れながら守備隊に無戦機はなく陛下のお言葉を伝える手段はございません。 構わぬ。構わないからそういう伝方を守備隊に出しなさい。 直ちにあと守備隊に向けて天皇のお言葉を 打電し続けましたが、返事が来ることは ありませんでした。 今回は犠牲者2638人。青函率はわずか 1%。息地獄と呼ばれた激戦圧島の戦いを 紹介します。 圧島と聞いてその場所をすぐに思い浮かべ られる人は少ないかもしれません。北太平 洋とベーリング会の教会にあり、日本から は約2000kmほど離れたアメリカ アラスカ州に属するアリューシャンレッド 。その中に今回の舞台であるとはあります 。この島は日本軍の最北編の守りでした。 しかしどうして本からこんなに遠く離れた古藤に数千人もの守備隊を送り込む必要があったのでしょうか?ミッドウェ線を成功させるいい案はないだろうか? [音楽] アリシャンレッドに進行して敵の兵力を分散させてみてはいかがでしょう。 つまり同作戦か。 連合艦隊司令長官の山本イと第5艦隊司令 長官の細が谷母子郎はアリシャンレッド 進行をミッドウェイ回線を成功させるため の作戦と考えていました。 昭和17年5月2日、陸軍第7次に属する 独立歩兵第301代と独立公平第301 中隊を再編成し、北海体が結成されました 。およそ1000人の兵で構成された北海 事体によってアリューシャン作戦が開始さ れたのです。しかしミッドウェイ回線の大 失敗でハリシャン作戦は意味を失いました 。そのためすでに破兵した北海主体をどう するか上層部でも意見が分かれました。 少しだけ兵を残して北海体は本土に戻らせ た方がいい。じゃあ、せっかく島を選拠 できるのだから積極的に活用してアメリカ を脅やかすための前線基地とする方がいい 。 このように連合艦隊と第後艦隊との間でも アリシャン作戦の処理について意見の統一 はなくさらに山本長官の言うように熱島に はわずかな兵を置くだけでいい。 せっかく島を占領するのにどうして海軍は 消極的なんだ。やはり島に飛行場を建設し て米軍との戦いに備えるべきだろう と海軍と陸軍の争いにまで発展したのです 。この上層部の作戦に関する争いが圧島の 玉砕の原因となりに昭和天皇の激林に 触れることになるのですがそのことについ てはもう少し後で解説します。 最終的に山本長官も大本映海軍部もあと 占領踏み切り昭和17年6月8日北約 1000人の兵により島は戦闘なしに占領 されました。 本命のミッドウェイ作戦が失敗しているの にあとキスカ島の占領に戦略的な意味は ない。戦略的には価値がない作戦でしたが 、ミッドウェイ回線の失敗を隠すために 無理に強行したのではないかという意見も あります。 日本側からすればアリシャン作戦の成功は 大したことないものでしたがアメリカ側 から見れば有々事態でした。ふざけるな。 たえ無人島であっても我が国の領土だぞ。 絶対にあとを取り戻してやる。 米軍は早速アダック島に航空基地を築づき 、あ島守備隊への爆撃を開始しました。 米軍、日本軍がアメリカ本土に迫って 恐ろしいか?守備隊はわずか。このまま じゃ持ちられない。圧倒から撤退させる べきだろう。 大本Aはただでさえ少ない兵力や物資を これ以上圧倒に置いておくのは良くないと 判断し、構築中の基地や陣地を破壊して 守備隊は島から撤退するよう命じました。 守備隊が基地や陣地を破壊したことが通コ のミスになるとは誰も夢にも思わなかった ことでしょう。 撤退後大本映内ではやはり圧島を占領して おくのが特策だと意見がまとまり同年10 月30日に再占領しました。今度の舞台は 北千島要塞守備隊がメインでした。あと 並びにキスカ党の防衛に全力を尽くす。 海軍としても賛成する。北海体を再編し、 より強力な北海守備隊を編成する。 数およそ2600人。 こうしての防衛を強庫にする方針が定まったのですが、本土にいる大本映の商候たちには圧島がどれだけ過酷な環境か分かっていなかったのです。 東西56km、南北24kmの小さな島の 周囲は険しい岩壁で囲まれ、ツドラ気候の ため霧と風が強く年間を通じて極貫の荒野 が広がる自然環境。ほとんどが北海道出身 者で編成された北海守備隊でしたが、あ島 の過酷な自然環境は彼らを苦しめました。 北海守備隊への物資輸送はどうなっている ?あ、当近辺の厳しい天候と米軍の猛行で うまくいかない。 昭和17年12月27日には輸送戦 チェリボン丸が翌年の1月6日には平員を 輸送していたモントリオ丸が米軍機により 激沈され831人の尊い命が失われました 。 絶対にあつキスカの輸は成果させてやる。 第5艦隊が護衛し、昭和18年3月9日に 大規模な輸送作戦を開始。キスカ党への 輸送は見事に成功しましたが、日本軍に よる大規模な輸送作戦を殺した米軍は3月 下旬に輸送先団激沈作戦を結行しました。 アップの輸送先団を沈めるのはいいがうち の感染はどれもおんぼだぞ。作戦はうまく いくのか。 同年3月27日沖置きで約4時間に及ぶ 厚沖回線が勃発。うちも相手も空母はなし か。感染同士の大砲の打ち合いで勝負は 決するな。 どうしよう。明らかに日本海軍の方が装備 は優勢だと。 遠距離からの大砲の打ち合いでは勝負はつかず両軍共に航空支援を要請しました。 おい、早く航空機を汚してくれ。 今キスカと爆撃準備中だから体感用に装備を変える時間をくれないか。 早くしてくれ。こっちはおボロ感染で戦っているのだからな。 マクモリス少々の要請に紳摯に対応しようとした米軍の一方日本軍は違いました。 [音楽] 航空支援を要請する。そんな余裕はない。まあいい。うちの艦隊の方が強く。米軍艦隊は戦闘不能となったからな。やばい。逃げよ。 [音楽] ほほほほ。逃げたいなら勝手に逃げろ。我が軍は基地へ帰還する。動き機回戦で第 5 艦隊は米軍に勝利したのですが、追撃を怠っため完全勝利を逃してしまったのです。 なぜだ?なぜ日本軍は追ってこないんだ?彼は後に回線を回送して [音楽] 奇跡だったと述べています。日本側から見ても細ヶ谷中条の行為は異常でした。完全勝利を逃しただけでなく輸送作戦も失敗に終わるという大失体を犯したせいで彼は予備に変入されることになったのです。 [音楽] 550名の増員力は来ない。 島の守備に欠かせない光景警報法も届か ない。軍事物資の補給は立たれた。 文字通りあとは古藤になった。 あと守備隊長だった陸軍大佐山崎安してい た兵も軍事物資も第艦隊の作戦の失敗に より届かなくなったことに落胆。第後艦隊 による輸送が成功することを前提にと防衛 作戦を熱っていた山崎大佐にとってこの 失敗は低たいものでした。 党と違い圧島には海岸放題がない。だから 陸軍第7手段を用いて上陸作戦を結構 しよう。 太平洋艦隊司令長官密大将は党を攻略しに 飛行場を建設することで航空戦力の前線 基地とし攻略の金めと位置づけたのです。 我が第7手団総1万000人で上陸すれば 攻略はやすいでしょう。日本軍守備体の約 5倍の兵力。それに日本軍には軍事物資が 一著しく不足している。負けに彼らには 基地も陣地もない。なぜなら北壊したいが島から撤退する際に全て破壊し尽くしたからだ。山崎大佐には東党を最初に攻略した北海に基地と陣地の破壊を命じた大本映がさぞめしく思えたことでしょう。 [音楽] 日本軍の兵力は約 3500名。しかしそのうちの鮮明以上が 海軍設営隊や通信隊といった戦闘のプロで はない者たち。戦力としては2500名と いったところか。 この絶望的な戦いを任された山崎大佐に 北法軍司令官樋口中条はこのように話した そうです。兵器が上陸するようなら万作を 尽くして増援を行う。 だから自分を信じて戦ってほしい。 樋口中将の言葉に嘘偽りがないことはよくわかります。しかし頼みのである海軍は南太平洋の戦いで泥沼かし圧と餌咲く余裕はないでしょう。守備隊は孤立無縁で島を守らなければならないのです。崎大佐は東に不認する前から覚悟を決めていました。 それでも軍人として最後まで任務を やり遂げる着替いに満ちていた彼は作戦の ポイントを一点に絞ります。我が軍は兵力 も少なく武器弾薬にも飛ぼしい。だから 戦力を一点に集中して米軍の上陸を 迎え打つべきだ。そのためには敵の上陸 地点を見極める必要がある。 山崎大佐は島の海岸に4つの上陸ポイント があり、うち2つの地点が有力と睨みまし た。しかし広い海岸線を少ない兵力で守る のは不利と判断。島の内陸にある高地の 峠道に主人地を置き、その一点に兵力を 集中させておけば米軍を有利に迎撃できる という作戦を思い立ったのです。昭和18 年5月12日、米陸軍第7手団は海軍の 支援を得てと上陸作戦を開始。おや、 どの姿が見えないぞ。恐れをなし て逃げたのか。少々君が言っていたように 数日で島を占領できそうだな。 しかしブラウン少々らの喜びもつのま、 山崎大佐が峠道に気づいた主人地へ足を 踏み入れた途端。地獄のような光景が米軍 兵士の目の前に広がったのです。上陸1日 目にして米軍側は2名の中隊長が戦死し、 多大な損害をっただけでなく峠道で足止め を食らい全身を阻まれたのです。よし、 ひらめいたぞ。教国から主人地を攻撃すれ ばいいんだ。5月14日から16日の3 日間にわって日本軍人地へ凄まじい攻撃を 加えた米軍でしたが手応えはありません でした。 使えねえなあ。もう首は 責任を問われて秘面されたブラウン少々に 変わって不妊したのがランドム少々でした が選挙は一向に好転しません。 ただ、日本軍人陣地の北側をなんとか占領できため、ハミを恐れた山崎大佐は陣地を交代。南北の港から上陸した米軍が合流するのは 36時間後の予定だった。 しかし結果的に 6日もかかった。 もしかして本軍って強いのか? とはいえ、日本軍側も苦しかったことは間違いなく、山崎大佐は仕切りに北法軍へ救援要請を求めていました。 5月16 日口中条は増援を約束し、その代わり東浦の幼地だけは絶対に支取せよと山崎大佐にじました。 今旅談の編成も終わり。厚へ救援に向かっ てもよろしいか? だめだ。厚園計画は放棄するように。なぜ ですか? 海軍にはへ向けるだけの兵力も武器戦艦も ないからだ。 あれだけ占領をプッシュしてきた大本は今 になって守備隊を見捨てようと樋口中場に 命じたのです。 すんま、山崎大佐君との約束果たせなかっ た。 台本への名を受けた樋口中は男泣きしたと 言われています。上陸から7日目の昭和 18年5月18日に大本は党守備隊を 見捨ることを決断。5月21日樋口中条は 守備隊に伝を打ちました。 の妖精に答えることず本官の力及呼ばず こと誠に遺憾に耐えず深く沈者す この伝山崎大佐は高変闘しました 聖主は元より問題にあらず撤退も消兵が 望むことにあらず圧倒を敵に渡すことは 万種に値する罪であり兵一眼となって島を 守り我らの霊コンは祖国を守ることを信ず 。 大本から守備隊に向けられたステ石とする という言葉に対するこの返答は今も私たち の心を震わせる何かがあります。5月24 日陸軍三房総長杉山はめは厚島の状況に ついて昭和天皇に報告。それを静かに聞い た天皇はあとの守備隊は過兵ながらよく やってくれている。そう伝えるように とだけ述べたと資料に書かれています。 しかし実際の昭和天皇のお言葉は違った ようで普段温厚な天皇が怒りをわにしたと 小方自住部の日記には書かれています。 日記の内容を抜粋すると現地の守備隊長や 北法軍司令官は最後まで戦い抜き玉砕する という思想な決意を定めたという。しかし 中央統水の失体を現場の第1戦部隊の犠牲 で補うとは何たることか。これが統水の 実情であり花肌いかに思うと天皇は大本を 厳しく批判したとあります。昭和天皇には 大本映がミスを取り作ろっていることなど お見通しで、しかも平気で嘘をついている ことに激しい怒りを見せられたのです。 その上で天皇は圧島の守備隊に誤称の言葉 を授けました。こうしたやり取りが本土で 繰り返される中、現場の守備隊の名運は つきようとしていました。米軍との毎日の 激しい戦闘で満足に戦える平員はごく わずか。武器弾薬もほとんどそこをつき、 食料すら満足にないといった絶望的な状況 だったのです。あ島に近い党にも守備隊が いたのですが、あとの様子は全く分から なかったと戦闘報告書にはあります。5月 29日、再び天皇は厚守備隊への5過称の 言葉を授けました。2度も5過称の言葉を 授けることは慰例中の慰例のことでどれ ほど昭和天皇が守備隊に対しお心を傾けて いたかよく分かることでしょう。その時の やり取りが冒頭で紹介したものです。あと の守備隊の様子はどうなっている? 天皇の心配も虚しく同年5月29日に現地 の守備隊から大本映へ最後の伝が届きまし た。 鬼密書類全部償却。これにて無線期破壊 処分す。ついに党の守備隊が玉砕し、当時 の陸軍大臣秀樹はその胸を天皇に伝えまし た。 守備隊は見事玉砕この伝を最後に連絡は 途唱えました。 彼らは最後まで勇敢に戦い抜いた。その ことを伝えよう。 恐れながら守備隊には無戦機はなく陛下の お言葉を伝える手段はございません。構わ ぬ。構わないからそういう伝を守備隊に 出しなさい。 直ちにあ都と守備隊に向けて天皇のお言葉 を打電し続けましたが返事が来ることは ありませんでした。 ここからは圧島守備隊の玉砕がどのような ものだったのか紹介します。 米軍翔平の回層によると何日も激戦が 繰り広げられ、日本軍側は数百人ほどに 減っていました。この翔平は機間中を構え て陣地にいたようです。 霧が深く垂れ込めて100m先すら見え ない状況で彼は異様な様子を目撃しました 。霧の向こうから数百人の日本兵がこちら へ近づき、戦頭に立った舞隊長らしき男の 右には日本、左手には日の丸の旗が 握りしめられていました。他の兵隊たちは ボロボロの軍服に身を包み、誰もが青ざめ た顔色をしていました。日本兵たちは負傷 し、足を引きずった満身総意の姿で最後の 突撃を試みようとしていたのです。米軍の 誰かが舞隊長に向けました。銃弾を受けた 舞隊長は1度は倒れるも再び立ち上がり はうようにしてこちらへと歩みを進めてき ました。幸福しろとマイクで投稿を 呼びかけるも耳をかさない日本兵たち。 ついに米軍たちは一斉に発砲を開始し、 数百人の日本兵の集団は全滅しましたが、 彼らの危機迫る要想に大混乱をきたした 米軍側は300m後方へ対却したそうです 。 さて、この回層に出てくる部隊長は誰だっ たのでしょうか?それはどうやら山崎大佐 だったことが後に判明しました。 というのも山崎大佐の最後の言葉が残っていてその内容が翔平の階層と一致するからです。その言葉とは以下のようなものでした。 [音楽] もはや思い残すことはない。使える兵力は 150 名ほどだが全員一眼となって内じにする決意である。私どもは永遠の生命に安住する。祖国の栄光を祈る。 [音楽] 天皇陛下万歳。 その他内で生き残った日本兵たちも次々に 自し散発的な戦闘は6月10日あたりまで 続いたようです。こうして厚島守備隊は 全滅し、本土のメディアはこぞって圧島の 守備隊見事に玉砕と報道しました。しかし 高生の私たちからするとメディアの報道は ふrijでしかありません。なぜなら守備 隊の玉砕の原因はアリシャン作戦当初から の意見の不一で、しかも大本衛の無作に よって引き起こされた人災だったのです から。もちろん守備隊を見殺しにした大本 の責任を問う声もありましたが大本Aは このように発表しました。 山崎大佐はただの一も援軍を求めません でした。 た口が塞がらないとはまさにこういうこと を言うのでしょう。一方でアメリカ軍は 守備隊に対して違った印象を持ったよう です。 日本軍は最後の一に至るまで激しい抵抗を 挑んでくるから油断できない。 抑という美団に仕立て上げることに薬気に なった日本側と違いアメリカ側は日本軍の 戦力を冷静に分析し、これ以上損害を出さ ないよう上陸作戦を行するために慎重に 慎重を重ねました。圧走で玉砕した日本兵 は2638 人と言われています。その後に行われた キスカと脱出作戦で救われた日本兵の数は およそ6000人。あ島の玉砕がなければ キスカ島の奇跡は起きなかったのですから 皮肉なものです。最後にあと守備隊の軍意 だった初淵信夫の衣装を紹介して終わりに したいと思います。 夜20時本部前に集合し野線病院隊も含め て最後の突撃を行います。入院患者は全員 自し、私も33歳の若さでこの世を旅立ち ますが、思い残すことはありません。天皇 陛下万歳。私が愛した。そして私を最後 まで愛してくれた妻太子よ。さよなら。 どうかまた会う日まで幸福に暮らして ください。みさ子様、まだ4つになった ばかりだが、スクと育ってくれ。ムつ子様 、あなたは今年の2月に生まれたばかりで 父の顔も知らないのが木の毒です。お大事 に。さよなら。

山本五十六と細萱戊子郎はミッドウェー海戦の陽動としてアリューシャン列島侵攻を実施。
北海守備隊がアッツ島の守備を任されますが、その後大本営は守備隊を見捨てる判断を下します。
樋口季一郎からその事実を知らされた山崎保代大佐が放った言葉とは?
昭和天皇が東條英機に命じてアッツ島の守備隊へ伝えた内容とは何だったのか?
日本軍初の玉砕として知られる悲劇的な最期、アッツ島玉砕の真相を一緒に振り返りましょう!

#日本史 #教育 #戦争

関連動画↓




15 Comments

  1. 山崎大佐の言葉は、胸を打つ。
    が、逆に、その立場ならそうとしか言えない。
    (恨み言を言っても株が下がるだけ)

  2. そもそも大東亜戦争は昭和天皇に重大な責任あり。満州併合に於いても勲章まで与えていた事実

  3. アッツ島は日本初の玉砕戦とされているが、これは大本営が初めて玉砕という言葉を使った戦いという意味にすぎない。この戦いより9か月も前のフロリダ諸島の戦い(フラギ島やガブツ島)では補給や増援が途絶えた日本軍が文字通り全滅しています。大本営が玉砕という美談に仕立てなかっただけです。

  4. 太宰治の 散華 という当時の小説に、東大出て、ここで散った友人が描かれて居ますね。高橋源一郎が1番好きな小説。もう、この時点で敗戦を予感した人も居たのでは?

  5. ちなみにアメリカではアッツ島の戦いを『忘れ去れた戦い』と呼びます

    誰も覚えてない、どうでもいいところで起きた戦い

    と言う意味だそうです

  6. コメント1:2638人の日本兵が命を落とし、天皇は司令官の失策に激怒されました。聞くのは本当に辛いことでした。戦争は残酷です。祖国のために犠牲になったのに、見捨てられたのです。

  7. 南の島のどこかで玉砕で万歳アタックをしたものの、参加しなかった?出来なかった?小隊があり、後日救援を日本に求めたら、玉砕を逃れることはあってはならぬと、生き残った小隊を日本軍が殺しに来た・・との話も聞いたな・・。1%の生存者・・25名くらい?はどうやって生き残ったのか知りたいな。たぶん、死に損なって米軍につかまり、治療を受けて捕虜になった・・とかだろうけど。

  8. 周りにまともな奴等が全然居ないのに、常にまともで居続けられる昭和天皇が凄過ぎるわ…

  9. 私の父は北海道出身で戦車隊員として戦いました
    戦闘により、破片が体内に残ったまま復員して、しばらくして母と結婚し私が生まれましたが、私が幼いときに他界しました
    私は現在還暦ですが、父が戦った場所は知りません。敵はアメリカ軍だったのかロシア軍ったのか母は知っていたのかは不明ですが、父の戦闘の状態や負傷の経緯などは教えてくれたので父から聞いていたのかなとは思います
    今も父がどこでどの敵と戦ったのかを知りたいと思いますがその方法がわかりません
    どなたかわかる方法をご存知でしたらお教えください

Pin