【秒速5センチメートル】 原作改変!松村北斗の誠実さと切実さが救ったものとは何だったのか?【徹底解説(ネタバレあり)】

つまり北斗さんが解いた呪いとは社会に適応しないそ女っていう話自分で勝手にそれを許すというかね誠実で切実な声優しさのような何者か約束なんですよ。今回の実写はどうも太郎です。はい、ということで本日はこちらの作品について語っていきたいと思うんですけども、え、 [音楽] 2025年10月10 日についに公開になりました速 5cm実写 版ですね。こちらについてちょっと今日はっつり語っていきたいと思います。よろしくお願いします。 えっとということでですね、本作、ま、 本当に色々語るべきところのある話題作で はあるんですけども、何よりも重要な ポイントとして本作では主演の松村北斗 さんが、ま、アニメ版原作の公開から18 年間誰にも救えないままそこにあり続けた とあるものを救うという、ま、解いか奇跡 を起こしていてですね、この動画ではそこ を徹底的にちょっと深掘りしていきたいと 思います。ま、第してなんですけども、 松村北斗は実写版速で何を救ったのかと いうことで、で、ちょっと長くなりそうな ので、ま、チャプターマークを用意して ますし、あと、ま、倍速再生と適義ご活用 いただければと思いますし、あと、ま、 何かしながら流し撃きするのも良いかと 思いますので、どうぞお気軽にご自由にお 楽しみいただければと思います。よろしく お願いします。ということで改めて本題な んですが、ま、今回の実写家元々あの いろんな問題や気になるポイントっていう ものをはみつつもそれを超えて18年間 愛され続けてきた普及の名作、ま、アニメ 版秒速5cmの実写化ということで、まず 第一にその問題を払んだ主人公の高きを誰 がどう演じるのかっていうのが、ま、 大きな問だったはずなんですよね。で、 なぜそれが松村北斗さんになったのか、 あるいはなぜ松村北斗さんでなければなら なかったのか。ま、実際この役を松村さん が演じることでオリジナルを作った深海誠 自身が自分で驚いたことに泣きながら見て いたと語るようなそういう原作者の想定 すら超えるような何かがこの作品では起き てるんですが、ちょっと先にある意味結論 みたいなことを言っておくと、本作では 松村北斗さんが18年分、ま、あるいは それよりちょっと古くからずっと存在して いた1つの大きな呪い、作品の外に またがっているような巨大な呪いを解い てるというところがあるんですね。で、 今作の松村北斗さんは秒速5cmという 作品、その主人公の塔の高き、あるいは その作者であった深海誠監督や引いては その作品のファンだけではなくてもっと 大きなものを救ってるような感じになって いて、で、私自身もそこに含まれる救われ た対象としてですね、松村北斗さんが解い た呪いとは何だったのか、そしてそれは なぜ松村北斗にしかできないことだったの かということをここから語っていきたいと 思います。 で、そもそもなんですけど、ま、この秒速 5cmっていう物語をその文脈とか背景も 含めて理解するためには1990年代から 2000年代という時代を知る必要がある んですよね。ちょっと退屈の話になって しまうかもしれないんですけど、この後 じゃあなぜこの実写版がとかなぜ松村北斗 さんがっていうところにちょっとガチで 絡む話なので、ちょっとお付き合い いただけると幸いです。ま、ざっくり 大きな話から入っていくと、90年代、ま 、90年代から2000年代にかけての 男子の世界っていうのがあって、そこが2 つの対立する文化権で分断されていたって いう話があるんですね。ま、互いに対局を なす価値観みたいなものがあって、で、 もちろんその間に中間のある意味干渉地帯 みたいな形での一般人みたいなのがいるの はいるんですけど、そこもある意味 グラデーションみたいになっていて、ま、 男子である以上誰しもその2つの大きな コンセプトを結んだ軸のどこかに自分の 位置を定めていかなきゃいけなかったよう な感じがあって、で、その2局構造って いうのは、ま、ざっくりシンプルに言うと こんな感じなんですが、 ま、見ていただけると分かると思うんです けど、これ単なる趣味の違いとかではなく て、生き方のスタイルとしての根本的な 対立なんですね。で、これはこの後さらに 発展していくというかね、進化していくと いうか、ヤンキー文化って書いてある方は この後マイルドヤンキーとかあとギャルと かね、あとカーストの一軍だなんだって そういうものが合流していく陽キ用のもっ ていう流れがま、出来上がっていって、 その一方のオタクの文化の方はここにその 腐女子とかサブカルみたいなものが入って きたり、あるいは地牛みたいなそういう コンセプトが色々こう寄せ集められていっ て、ま、いわゆる陰キ陰イのものみたいな そういう流れになっていくそういう風な 社会の数星を形づくっているま、根本的な 基盤だったんですけども、こういう社会的 なアイデンティティによるグループの分断 っていうのは応にしてその非対象的という かね、対等な対立にはなりにくいっていう のがやっぱり前提としてあって、いわゆる 主流派の集団による無意識の圧力とそれに 対する個人のレジスタンスみたいなそう いう様子を帯びていくんですけどそこに やっぱりまたさらに過去から繋がる背景 っていうのがあって、ま、90年代になる 直前とあるその凶悪な犯罪事件っていうの が起きていて、ま、ここでは詳細には触れ ないんですけども、その事件によって オタクという存在にはある種の社会的な 刻印が押されてしまうことになるんですね 。で、これによって90年代のオタク側の 文化グループっていうのは常にその社会的 なスティグマンみたいなものによる負の バイアスっていうのがかかった状態になっ てしまって、ま、学校でも社会でもある種 のレッテルが貼られてしまいがちになる みたいな、そういう、ま、背景というかね 、風潮みたいなものに悩まされることに なって、で、ちょっと色々はってるんで 乱暴な話の運びになってるんですけど、ま 、興味のある方はちょっとご自身で色々 調べてみていただければと思いますし、 あの、ま、ご自身その90年代、2000 年代を生きてこられた方には思い当たる ところとかね、ちょっと自分なりに思う ところとかあるんじゃないかと思うんです けども、ま、こういう大くりの話だけじゃ ない要素もいっぱいあるんですよってこと はちょっとあの正し書き的に、え、言及し ておきたいところです。で、そういうその 色々いっぱいある話の結果としてオタク的 なるものっていうのはどうしてもやっぱり 隠さなければならないものになっていくん ですよね。で、その結果どうなっていった かって言うと、みんなその自分の内面の 世界に向かっていくことになっていくと いうか、ま、社会的な関係性を諦めて しまって、自分の中にある、ま、自分の 好きなもの、自分の愛するものに対する その純粋な思いとかね、純粋性自身 あるいはその内面の特別性っていうものを 守ることを選んでいくというか、表向きは 社会に敬合しながら内心では屈してい なくって、自分だけの価値観を持ってそれ に順じる精神性っていうものがどんどん どんどん情勢されていったと思うんですよ ね。で、中にはやっぱり先化していく人も いただろうし、そういうものを加害者不在 の被害者意識みたいな、一方的な被害者 意識みたいなものがあると思うんですけど 、そういうものがどんどんそれを加速させ ていくというか、エスカレートさせていく みたいな、そういう部分があって、で、 そうした諸々ろの背景にはやっぱりその ある特定の価値観が社会的に廃斥される ことで内側にしか向かっていく先がなかっ たっていう、そういう話もあると思います し、ま、国個人のレイヤーでもね、現実 社会に適用できないっていう、そういう 社会的な中でのその自己認識から逃げる先 、避難先として内面世界に閉じ込むしか なかったみたいな話もあると思うんですね 。で、いずれにしてもその内面にある自分 だけの美しいものとか正しいもののって いうのがあって、それを覆い隠すらという か外面というかね、そういうものが90年 代のオタクの生存戦略だったみたいなそう いう話があるんじゃないかと思うんです けど、とにかくこの内面への頭皮、内面に 向かうその内光性っていうものこそが、ま 、後々大きな呪いみたいなものになって いくんですね。 で、そういう話が進んでいく中で2007 年、え、深海誠監督当時33歳だったん ですけども、秒速5cmを発表したという ことになっていて、で、深海監督って 1973年生まれで、まさにその90年代 に20代を過ごした世代なんですよね。で 、あの、ちなみに学年はあちらが1個目な んですけど、私も同世代で、ま、いわゆる そのオタク第1世代の文化的経験を直接 持っている世代なんですね。で、この作品 の中での主人公等の高きは、ま、こんな 感じで描かれているわけなんですけども、 まず社会に適用できない、社会に適用しな いっていうのがあって、で、これは彼1人 だけが、ま、他の登場人物たちと違うって いう形で際立って描かれていくんですけど も、まずそもそも高きの周りにいる人たち の中で1番最初の初恋いの相手、明りって いうのがいるんですけど、ま、同じ体験、 同じとても尊いというかね、あの美しい 初恋いっていうものを共有していながらも 明りの方は引っ越しの後新しい環境に適用 していく。ま、詳しくは描かれないんです けど最終的には別の人と結婚するっていう とこまで進んでいっている。で、高校 パート、高校時代パートの相方、ま、金 っていう女の子は、ま、高きへの恋心が 叶わないっていうことを受け入れた上で やっぱり前に進んでいくキャラクターとし て描かれていて、で、大人になってからの 恋人、ま、ちょっとしか出てこないんです けども、水のリサっていう女性は、ま、彼 との間の決して縮まらない距離感っていう ものに正しく向き合った上で、ちゃんと 自ら去っていくことを選ぶ。でも高きだけ がずっと立ち止まったままでいるんですね 。ま、ラストシーンちょっとはね、前向き に進んでいくような感じを漂わせるんです けど、それすらもそこまでの彼の延長戦上 でしかないというか、ま、ちょっと後で 話すんですけど、何かが大きく変わって いるわけではないんですよね。 で、それから、ま、内面の純粋性に固執 するっていうところ、ま、明りとの記憶、 ま、思い出を不信のある意味その傷として 誤を大事に抱えているというか、それを 守ることに全部を捧げてしまってるんです よね。で、彼のその場、その場の現実には ちゃんと今いるその場所での社会的な、ま 、社会の中での人間関係っていうのがある のに叶えのこともリサのこともどこかで 拒絶してしまう。で、結局常にその人との 関係性より自分の内面の世界を選んでいて それゆえに傷ついたまま癒されることすら も拒んでいる。むしろ傷を持ったままで いることでそのことで逆に許されようとし ているというかね。痛みによって許される 。そういう方向を選んでいる。 で、さらにそれが、ま、ある意味その 美しい歯医者としてのその自己認識になっ ていて、で、それを麻酔みたいにしてね、 いろんなことを麻痺させて生きていると いうか、社会的にはもう完全に敗北した まんまなんですよね。敗北してるというか 、ま、落語してるというか、崇高な落語者 と言ってもいいんですけど、多数派の価値 観に属することはできない。表面的に言合 することはできても混じり合うということ はできない。それを潔ぎよしとしない みたいな。で、それによって内面世界の 純粋性を保っていて、そのことを、ま、 内面的な支えにしてる。自分が1人で立つ ための、1人だけで立つための支にして いる。でもそこにはやっぱりそのな、何て 言うんですかね、順じるものとしてのある 種いびな美しさっていうものがあって、 それがやっぱり多くの人の心を捉えた要素 であるのは間違いないと思うんですよね。 ただそれでもやっぱり指摘しておかなけれ ばならないのはどこにも勝者がいないのに 勝手に歯医者になっていて、ま、そのこと で自分の全てが斜面されるというか許さ れる一方で周りを全部無意識に加害者にし てしまう一方的な暴力性みたいなものが あって、で、そこがアニメ版秒速の最大の 問題点っていうかね、ちょっとあの 引っかかるところなんだと思うんですけど も、ま、それをさておいてちょっとこの 高きの描かれ方によって立ち上がってくる 構造ってっていうのは今回の実写化に 通じる結構大きなポイントになってると 思うんですね。 ま、アニメの秒速5cmっていう作品は と角男はこんなものだとか女はこんなもの みたいな、そういう結構ね、あのザクっと した流度の洗いというかね、乱暴な議論を 引き起こしがちな作品ではあって、かつ そのさっき言ったね、男側の本当に暴力的 と言ってもいいと思うんですけども、一方 的な価値観のしつけみたいなものがあって 、それは多分その深海誠監督自身が後に 自身語っているその未熟な作品っていう話 につがるんだと思うんですけど、背景に あるのはそれだけの話ではなくって、そこ で描かれてるその真の対立軸というか、 対立構造っていうのはまずそもそも男女 っていう話ではないんですよね。で、 もちろんその美しい失恋と現実的な恋愛と かそういう話でもなくって、これは実際に はその1番最初に話した90年代の内面に 閉じたものV社会に開かれたもののって いうそういう対立だと思うんですよ。で、 これはあの90年代のオタクが世代として 直面していた社会構造そのものなんですよ ね。で、それゆえにというか、だからこそ というか、そのこれがあるがにこの作品は 2007年以降もずっと多くの人たちに 愛され続けてきたんだと思うんですね。 なぜならその作品が描いているのは多くの 人が自分自身経験していた自分の内面への 頭皮っていうものそのものであってかつ この作品はそれをものすごく美しいもの 本当に最上級に美しいものっていう形で 見事に映像化してたからなんですよね。ま 、言ってしまえばそのアニメ版秒速って いう物語は何も解決して見せないし、何も 達成しないし、何も回収しないまま、ま、 ほのかな予感だけ残して終わる作品なん ですけども、 なんて言うんですかね、そこにはその内面 に向かい続けることに対する明確な反省と か否定はなくって、むしろそれが需要され 許されてるような感覚があって、 っていうか、その自分でこうくよくよと いつまでもグダグダしてる姿を晒らしして おいて自分で勝手にそれを許すというかね 。後ろを向き続けてきた高きはそれを抱え たままずっとこの先も明りのことを思い ながら生きていても良さそうにすら見える んですよね。そのくらいイラストラストの 微笑みは結構曖昧になっていて、ま、 もちろんいろんな解釈ができるんで、 こんな皮肉な見方をする必要はないんです けども、ま、とにかくそのただひたすら 18年間大事に思い続けてきていたものが この60分の強烈なアニメーションの美し さを通じて本当にこう尊徳美しいものとし て何かの頂点みたいなところにしている。 それがアニメ版速のすごみというかね。 こう社会構造だの対立だの云々とかいう ところを全部突破してしまっているという か、本当にとんでもない作品だと思うん ですけど、 ずっと心に残り続ける美しい恋の話じゃ なくて、叶わなかった恋の思い出だけを ただひたすら見つめているっていうあまり にも非生産的で後ろ向きな姿勢を、ま、 登場人物の高きは16年間貫いていっ たっていうそのこと自体の美しさがある 意味でその90年代から2000年代に かけてのそのオタ的神の美しさの1つの 究極の到達点として、ま、マスの壁を突破 して一般層にも共感するかどうかともかく としてやっぱりとても美しくて普遍的に 通用する強烈無な微価値として認知され るっていうリアリティの歪みっていうかね 、シンギュラリティみたいなものを発生さ せていて、で、そこがまさにその深海誠 監督がアニメ版で達成した、ま、遂げた 駆け根なしの異だと思うんですけど、その 到達点っていうのは、ま、全人未当の何か とんでもないエネルギーが発散される 臨海点であったと同時にその世界、その 方向性の限界点でもあったと思うんですね 。確かにそこからものすごいものが放出さ れて、それはある意味その社会的な認知 みたいなところをすらも変えたんですけど 、その先それ以上どこにも行かないという かね。 なのでそれ自体は、ま、共感っていうもの を呼び起こしたし、現状をしっかり認識し て確認してみせてかつある意味で容認する そういうものでもあったと思うんですけど 、その構造に囚われている、もしくはその 構造の中で安住しているオタク的神が何か 良きものに変用するような救いではなくっ て、むしろその完全に閉塞した憲護な防美 をさらに強化するそういう呪いだった みたいな、そういう気がするんですね。 我々の内面の世界はこんなに美しくて、で 、この作品自体がそのそこに対する最高の 参加であったのは間違いないんですけども 、こんなに美しいその内面の世界っていう のは社会を震わせはしても本当の意味では そこで共有され得ないもの、現実を見て 生きていく本物の恋愛とは交れ合わない もっていう、そういう結論に落ち着いて しまっていて、で、そこの断っていうのは やっぱりいかんともしがくで、内面に 向き合う孤独を選ぶか、思い出は思い出と して箱にしまってそれとは違う現実の社会 を生きていくのかみたいな、そういう2択 になってるんですよね。第3の回を探すに 答えを出せないまま物語は終わっていく。 ま、もちろんその終わり方がね、また余因 含みで素晴らしいなみたいなそういう物語 としての価値っていうのはまたベッドある んですけども。で、そういう作品が、ま、 原作としてアニメ版として存在してた中で 、今回の実写化っていうところで主演の 松村さんが向き合わなきゃいけなかったの はまさにそのそれでいいんですか?そこに 答えってないんですすかっていう、そう いう話だったと思うんですね。ま、そう いう挑戦だったというか。 で、このちょっととんでもない挑戦、 恐ろしい挑戦について話をする前に、ま、 今回の実写化が乗り越えなければなら なかったもう1つの挑戦の話をちょっとし ておきたいと思うんですけども、元々の その秒速5cmっていう作品はある意味 アニメだから許されてたっていうか、その アニメだからこそ成立していたっていう 部分が結構あるんですよね。まず第1に あるのがその中小性による許容度っていう ポイントでまずその深海誠監督のある意味 最大の持ち味と言える部分でもあるんです けども背景の美術とかね舞台となる世界が どれほど美しく描かれるかっていうところ で描写がリアルっぽくはあるんだけども すごくアーティスティックで現実ではない そういう世界っていうのがまのリアリティ ラインを絶妙に定めてくれてるんですよね 。リアルっぽいっていうのがポイントで リアルではないんですよね。そこに描かれ てる景色とか条件が、ま、見ているものの 現実の記憶とすごく緊密に連携するように はなってるんだけれども、あくまでも ファンタジーでもあるっていうそういう線 を譲ってないというか。で、プラスその キャラクターの記号性の高さっていうのが またうまく聞いていて、あの、先日この 原作アニメ版同時視聴っていうことで配信 で一緒に皆さんと見たんですけども、その 同時視長の中で原作久しぶりに見返してい て改めて思ったんですけど、登場人物って すごくシンプルな記号として描かれてるん ですよね。 単に絵としてのじゃったの内面的な 造形も含めての話なんですけど、そこをしていることで、シンプルな傷っていう形にしていることで、ま、好ましいものだけを映してましくないものはミット できる ようになっていて、見る人が、ま、もし感情移入しければものを映るし、見たくないものはもそもされてくるみたいな。 [音楽] で、それによって何が達成されているかと 言うと、ここまで話してきた内面の世界の 美しさをノイズのない映像日で高準度で 再現できるんですよね。俺たちの心の中に はこんな綺麗なものがある。だから許して くれとかね。だから仕方ないだろうとか そういう話をするのに絶対条件として必要 な圧倒的な美しさってものがちゃんと担保 できてる。 あとあのもう1つ身体性の回避っていうの があって、ま、これは今言ったノイズと いう話とも絡むんですけど、アニメである ことで実在する俳優の生々しい体が存在し ないんですよね。声だけでキャラクターの 演技が成立するので恋愛であれその他の人 との関係性であれ上流されて出てくるその 決晶みたいなものだけで話を済ませられ るっていうのがすごく大きくて ま、これによってそのオタク的内面性って いうものを厳重に守ったままで物語が完結 できている。恋愛の話はするんだけれども 正愛の話はしなくていいっていうね。でも 実写化って言った時点でその瞬間にそう いういろんなプロテクションが全部 なくなってしまうんですよね。実写化 イコール当然すなわち身体化でもあるので 生身の人間が演じるとどうしても物理的な 存在感が生まれてしまってまそこに体が あって体温があって呼吸があってって話に どうしてもなってしまう。で、リアルな 人間がそこにいることでやっぱり社会性 っていうものも不可悲的に前傾化して しまうというのもあって、生身の人間たち が主人公を含めて存在していると スクリーンの中にいるとやっぱり内面世界 だけの話にはできなくなるんですよね。 我々自身が生きている世界と同じように 内面世界がなんというか圧倒的に存在 する方もなくてもそれこそ暴爆とした現実 の社会の中に浮かんだ泡の中の離れ小島 みたいな位置付けにどうしてもなって しまうというか 、ま、生地東京部隊にしてるだけにさらに そういうところがあると思うんですけども 。で、プラス当然その高きっていう存在の その内面的な敗北感というかね、そういう 座というか屈折したところもより生々しく 、より痛々しくなってしまうんですよね。 シンプルにその現実に存在する痛い人とか 空気読んでない人になってしまう恐れが あるというか。 で、ここはちょっとあの後の結論にも つがる話なんで、少し具体的に見ていき たいと思うんですけど、まずアニメで、ま 、一応問題になってなかった描写の中で 実写にすると微妙になってくるところの 筆頭として中学生の男女が雪の夜を2人 きれで明かしていくっていうのが当然あり ますよね。で、ま、これはそのアニメ版で も問題になってないかって言ったらそんな こともないかもしれないんですけど、 少なくともアニメ版の方は、ま、記号的な 美しさで処理されていて、中学生男女の デートとしてではなくて、純粋な再開の シーンとして描写されてました。でもこれ を実写でやるとなると、ま、当然なんです けど、生身の中学生が夜を明かすシーンっ ていうことで社会的な話とか倫理的な問題 性ってのがどうしても見てる人の意識の 表面に浮上してくると思うんですよね。 しかもその中にはキスシーーンっていう ものも含まれていて、ま、アニメ版では そのタイミングで あの絵が変わるというかね、さらに記号化 された描写のっぺラボみたいな顔になって いて、ある意味純愛の象徴というかね、 ただただロマンチックな何の邪念もない シーンとして描くことができてるわけなん ですけど、実写となるとね、実在する中学 生の体でそれを演じられてしまうと暗黙的 にはあであってもやっぱり性的な意って いうものが避けられなくなってくる。そう いう恐れはある。で、問題はそこだけじゃ なくて、社会人になった高きと恋人とリサ の関係もやっぱりちょっとニュアンス みたいなものが出てきてしまうんですよね 。アニメ版は元々そのリサっていう存在の 描写自体が少ないし距離感のある関係性が 別れのメールで示唆されるっていうだけな んですけど実写版をやるにあたって60分 の作品を2時間にするって言ってる中で第 3章大人パートを膨らませてってなると やっぱり生身の男女の恋愛の検帯感とかね 少した関係性のニュアンスが本来なら出て きてしまってもおかしくないんですよね。 これ、ま、後で話すんですけど、本作は、 まもちろんそれをちゃんと回避できて るって話になるんですけど、普通なら 付き合ってる2人がいて30手前で休日に 買い物した後、女の側がこの後打ち来 るって言ったら、やっぱりそこに含まさ れるもののってのは当然あるんですよね。 で、そういう身体性が付与されることで、 ま、美しかった描写が単に美しいものって いうことにはならなくなってしまって破綻 する危険っていうのはいろんなところに あったんじゃないかと思うんですね。 で、この危機というかね、リスクについて 今回の実写版は、ま、基本的にはもう キャスティングそのもので回避している 非常にクレバーというかね、あの、非常に スマートなやり方で回避してると思うん ですよ。例えばあの少年パートの高きを 演じた上田ハルト君確か撮影時点で小学4 年生か5年生っていうことで実際の キャラクター設定よりもさらに幼くなって いていうか幼い人が演じていて実際かなり 幼く見えるんですよね。ま、ちょうど成長 期っていうタイミングなので、そのぐらい の年で2年3年違うとかなり大きく違って くるんですけど、そのせいでやっぱり4年 生とか5年生のハルト君がもうすぐ中二に なる中学1年生、ま、もうほぼ中二ですよ ね。ガスなんで、それを演じ るっていうのはやっぱりかなり大きな ギャップがあって、ただそこでその子供 っぽさ、アけなさみたいなものが強調さ れることで身体性を抑制する効果が強く出 ていて、雪の夜のシーンも子供たちの純粋 な再開として見えるようにちゃんと成立し てるんですよね。ま、ここはあの撮影に おける処理もうまいんですけど、生々しさ みたいなものが全くなくって、ま、子供が 家を抜け出して黙って栃木まで行って しまってることについても親にどう説明し たみたいなそういうセリフがあって、 ちょっとね、あの、説明的でかつただの 切和的ありバっぽい感じになってしまって はいるんですけど、そこにその本人の側に 後ろめたさみたいなものが全然なさそうに 聞こえる。そういう風に見える感じも彼の 見た目と話す口ぶりがあってこそ成立する 要素になっていたと思っていてでそこに 後ろめたさが見えてしまうとねやっぱり そういう話になっちゃうんですよね。それ が綺麗に処理されているとかフィルターさ れている。 で、もう1つのあの社会人パートの話。 これちなみにあの今日の1番大きな ポイントでもあるんですけど社会人高きを 松村北斗さんが演じているっていうのは 本当に大きいんですよね。 あの、劇中で吉岡秀さんが演じている科学 館の小川館長のセリフとして誠実で切実な 声っていう言葉があるんですけど、まさに その誠実さと切実さを帯びた佇ままいって いうのがポイントなんですよね。もうその 言葉、誠実で切実っていう言葉にそれ自体 になんかこうよく言ってくれたそれなん ですよみたいなそんな感じで膝を打った人 結構多いんじゃないかと思うんですけど 本当にそれなんですよね。これがあるから 、松村北斗さんにはそれがあるから理沙と の関係もただれた印象にならないんですよ ね。人との付き合い方としてそれはどうな んだっていう、そういうツッコみどころは 原作と共通ではあるんですけど、生身の 人間がやっているのに悪意とか邪念みたい なもの、脱みたいなものも何にも感じられ なくて、むしろその相手に答えてあげられ ないにしてもせめて誠実であろうとして 距離を置いてしまう、遠ざけてしまう みたいな、そういう繊細さがまさにその 松村北斗さんの俳優としての得意技という かね、もうめちゃめちゃはまっていてなの で作品が元々持っていた純粋性っていうの を一切既存せずに既存しないままに生身の 人間で大人の関係を描くことができてる。 そういうちょっと奇跡みたいな形になっ てるんですよね。本当なら生々しかったか もしれない。そういうところにその透明な 距離感みたいなものが代わりに入ってき てるというか。ま、ということで、その年 期パートも大人パートもキャスティング 自体が、ま、実写化における危険性を回避 する戦略だったっていうことが言えると 思うんですけども、この切実さが、ま、 松村奥斗さんが持つその切実さと誠実さが 大人になった高きが抱えている複雑な内面 と関係性をれたものではなくて、繊細で 痛ましくてそしてどこか美しいみたいな そういうものとして描く。アニメじゃない のに実写なのにちゃんとそうなっている。 ちゃんと成立できてるっていうそういう、 ま、本当にね、また言うんですけど、奇跡 みたいなことを可能にしていて、 で、これは単にその身体性によって生々し さが生まれることをどうするかって話だけ じゃなくて、先に話したそのもっと大きな 構造的な話にも絡むんですよね。今回の 実写化の最大のチャレンジっていうのは さっき言った通りその社会性内面性って いう90年代以降ずっと存在している1番 大きな対立構造に新しい回答を出せるの かっていうとこだったと思うんですけど、 まさにそこに絡む話なんですよ。おタ的 内面性だけを描いてもそれは単なる 引きこもりの回層映画になってしまうと いって現代的な現実の社会性をもっと濃厚 にして強調すると原作の確信であった内部 で繊細で美しいそういう内面性みたいな もののニュアンスが失われてしまうんです よね。 ま、この本来不可能な両立2つの対立構造 の両方を両立させるっていう不可能な話を 誰がどうやって実現するのか、それが本作 実写の最大のチャレンジであって、で、 そのチャレンジっていうのがあるがゆえり というかね、ある状態で、ま、松村さん、 松村北斗さんにオファーが行ったわけなん ですけど、その時に彼自身はこう語ってる んですよね。恐ろしいなというのが1番に 湧き上がってきた。で、これインタビュー の中で実際に語られていて、で、今作の あのパンフレットこちらにありますけれど も、その同じようなインタビューが1番 最初に載ってるんですよね。そこでも やっぱりそのオファーを受けた時の感想と して衝撃的でしたし、ものすごく恐ろしい オファーだなと思いましたって言われてい て、今日まで愛され続けてきた秒速5cm を実写化するということ。これが生身の 人間になるんだというワクワクした気持ち と得体の知れない恐怖があった。そういう 風に語られてるんですけど、この恐怖って いうのはその作品への意見の思いだけでは なくて、この作品そしてこの作品の実写化 そこにおいて存在するこの当の高きって いう役が持っている不可能性への恐怖でも あったんだと思うんですよ。多分オファー を受けた時点でこの確信を掴んでたんじゃ ないかと思うんですよね。 というわけで、ちょっと松村北斗さんの ところにとんでもない話が舞い込んでき たってとこまで来たんですけど、ここに ちょっとやっぱりね、1つ決定的な事実と いうかね、真実があるんですよね。これ ファンの方はよくご存知だと思うんです けど、松村北斗っていう俳優は2つの相 する要素を同時にナチュラルに対現できる おそらく唯一の存在だったんですよね。ま 、まず第1にそのあくまで一面的にはって いう釈はつくんですけど、当然ながら彼は アイドルっていうある意味その身体性とか 社会性の極地みたいな象徴的な存在、用の ものの極みみたいな存在なんですよね。ま 、私みたいに映画で初めて彼を見てそれ まで知らなかったっていう人はあんまり 多くないのかもしれないんですけども、 一応あのそういう方のために言っておくと 、彼はあのストーンズっていうアイドル グループの一員であって見られる存在、外 に向かって見せていく存在なんですよね。 ダンスも劣れて歌も歌えて身体的な パフォーマンスによって世界に向かって 自分を表現していく。そういうことの プロフェッショナルであって、 そこにはもちろんそのカリスマ性っていう ものもあるし、類いまれな存在感っていう ものもあるし、ま、何よりその集団の中で 人際は輝く明るい光っていうものがそこに あるんですよね。ま、冒頭に示したその 90年代の世界構造的に言えばこれは本来 明確に用のものの警付なんですよね。肉体 性に立してアピールできる魅力を備えてい て、ま、社会的な強ポジにいて、ある意味 その容キの極地とも得るそういうアイド ルっていう立場なわけなんですよね。で、 ま、これは、あの、本当にある意味、 あくまである意味なんですけども、松村 北斗っていう存在は一面的にはやっぱり 身体性、社会性の象徴そのものであって、 ま、自ら光輝いて地上を明るくする太陽の ような存在、そんな言い方もできるもんだ と思うんですよね。なのに彼にはもう1つ の側面があって、ま、個人的にここが1番 刺さってるんですけど、あの、夜明けの 全てとか桐リエの歌とかファーストキスと かね、彼のあの出演作、映画をご覧になっ てる方はご存知だと思うんですけど、彼に はそのどこか嘘をつけない透き通った 真っすぐさみたいなものがあって、その 透明さの向こうにその内面側、葛藤とか 大能とか屈みたいなものが透けて見えて くるというか伺えるんですよね。すごく内 的で内性的で自分の中に深く沈み込んで いつも何かを探してるようなそういう気配 が漂っていてでそれはまさにその90年代 の対立構造の反対側の極地でもあって孤独 で痛みとか苦しみを人と分かち合おうとせ ずにひたすら心の底の方なくした何かを 探してるみたいなそういう不勢があってま さっきも言いましたけどあの劇中にね野 さんの声は誠実で切実ですっていうセリフ があってもそれがまさに松村北斗そのもの っていう感じなんですよね。特にあの切実 の部分が で、ま、月っていう存在、ま、月というの はその自ら光を放たずに太陽の光を受けて 初めて静かに輝く天体なわけなんですけど 、松原北斗さんには、ま、さっき太陽 みたいな存在って言いましたけど明らかに そういう月みたいな一面もあるんですよね 。外側に向けて何かを放射するんじゃなく て、自分はただじっと自分の中の何かを 深く見つめていく。こちらから光を当てて 見つめていかないとなんというか何も見え ないというかね。でも外からそうやって光 を当てて見つめたら太陽とはまた違った その性質で切実でそして繊細かつ切実な 輝きを放つそういう存在感を持ったケウナ 俳優さんなんですよね。もうそれは本当に それを見ようとするものにしか見えない彼 だけの特別な魅力だと思うんですけど、 なんていうか誰もが気づくような派手さで はないんだけれども、1度気づいてしまう ともう忘れられないというかね、見なかっ たことにはできない影の中にだけ行きづい ている光のようなものを彼は持っていて、 で、松村北斗の内面性にはそういう作り物 ではない本物の質感があるんですよね。 そしてそういう松村北斗さんの因のもの的 なそういう側面が可能にしている演技の中 でも特に強力なのが人との距離感の解像度 の高さだと私はずっと思ってるんですけど 、これがまた本作では12分に発揮されて いて、で、このおかげで、ま、高きと周り の人の関係が見事に、ま、なんというか すごい精度というかね、すごい改造度で 描写されてるんですよね。今回の実写版の アレンジでは大人になったと恋人の水の 理沙との関係がかなり膨らまれているん ですけど、この2人の距離感っていうのは すごく繊細に描かれていて、で、それが ちゃんと繊細に描かれて成立して るっていうことを可能にしてるのがこの 松村北斗さんのこの演技力というか存在感 だと思うんですよね。ま、印象的なシーン いくつかあるんですけど、序盤あの休日に デートに行って本屋さんで微妙な買い物を した後、さっきも言ったそのようにその リサがこの後打ちくるって聞いてきた時、 ま、あのこの問いかけのシーンの 問いかける側のリサさん、リサ役の桐さん の微妙な呼吸の揺らぎがまたうまいんです けど、それを受ける高きの方がね、仕事 持ち帰っててって答えてで、リサがそっか 大丈夫って言ってとりあえず返すっていう その会話の中で高を演じている松村さんが すっと体の前で腕を組むんですよね。 すごく正直な距離感をさりげなく体に語ら せていて、 で、その後別のタイミングでリサの部屋に 座ってる時に、ま、リサが隣にやってきて 腰を下ろして旅行雑誌を手に取って開き 始めるんですけど、すさずテレビつけて いいって聞いてテレビつけたりする。どこ か旅行に行こうかみたいな話をしたくない からその話題になる前に先回りしてテレビ つけていいって聞いてテレビつけるみたい な。あとこれはリサトじゃないんですけど 、あの職場でね、雑談に参加したくない から、ま、特に音楽聞いてるわけでもない のにずっとイヤホンをしてたりとかね。ま 、この辺はなんかあの夜明けの全てへの めくばしではないにせよ動作の山沿い君に 通じるところを感じたりもするんですけど 、こういう細かい演技とかをさせると松田 さんはすごくはまるというかね、板につい た感じがするんですよね。で、それは多分 その彼にとっても生き方の癖みたいになっ ていて、ま、気を許している相手である 久保田部長、ま、元上司というかね、縁の あった元子久田さんっていう部長さんとの 会話でもかき氷のシロップの話で先回りし て話を止めてしまうんですよね。あと かつての恩師、ま、緑先生、叶えの姉です ね。緑先生と居酒屋で話す時も、ま、振ら れた話題に対していやいやいや、やっぱ やめましょうって言って引っ込めようとし てしまう。空気が読めないとかコミ障とか ではなくて、ちゃんと空気も読んでるし、 いろんなことを察しているんだけど、それ を会話を閉じる方向に使いながら生きて いる。 で、こういう細かい積み重ねっていうのは この作品ではその単なる距離感とかだけ じゃないものを表していて、それが松村 さん、松村北斗さんのその誠実さの上に 乗っかってきてるんですよね。嘘をつけ ない、あるいは嘘をつきたくない。だから 先回りして嘘をつかなくて済むように封じ ていく 理沙との関係においてやっぱり嘘はつき たくないんだけども本心を言うとリサを 傷つけてしまうだからその状況そのものを 回避する。会話が始まる前に先回りして 逃げておく。で、それはある意味その ねじまがったというかね、ひねくれた優し さのような何者かなんですけど、こういう 心理描写がすごく松村北斗さん的だと思う んですよね。の単に冷たい男とか感情の ない男ではなくて譲れないものとか 踏み込ませたくないものがあるんだけど そのことを人に押し付けたくない。それで 人と衝突したくはない。むしろ相手に誠実 であろうとするがゆえに距離を置いて しまうみたいな。で、これを本当に自然に さりげなく呼吸のように演じられ るっていうのは、ま、松村北斗さんのその 人との距離感の改造度の高さえだと思うん ですよね。全然わざとらしくないんですよ 。頭で演技してないというかね。理解して 再現しようとしてるんじゃなくて、本当に 自分の引き出しに入ってるそれをすっと 出してきてる。そういう感じがするという か。 相手を傷つけたくないっていう誠実さも プラスその自分の内面は守らないわけには いかないっていう切実さもそういう2つの 葛藤が2つある中でセルフではなくてその 距離の取り方とかね、ちょっとした身ぎと か呼吸とかそういうことで表現できるん ですよね。松村さんは テレビをつけるとかイヤホンをするとか そういうのはもちろんあの脚本の細やかさ でもあるんですけどそういう小さな行為に 込められた意味を本当に体でちゃんと表せ ているその体に帯びることができて るっていうのは本当にすごくて でこの距離感の改造度の高さっていうのは その松村さんの演技の引き出しの中でも 特に強い部分だと私ずっと思ってるんです けどとにかくこの強みが松村北斗さんには あるからことリサとの関係もただれたと かんだとかそういう印象にならないし、 むしろその誠実であろうとしてその分距離 を置いてしまう。そしてそれがその誠実さ も含めて相手に伝わってしまうが故えの 痛ましくて繊細でどこかしらどちらも我慢 して傷ついているっていうねイのもの同士 のちょっと不毛な優しい関係みたいなそう いうものとして成立していくんですよね。 30代間近の男女の関係性なのに透き通っ ていて綺麗に見えるというか。ま、という ことでちょっとあの私がここまでの話で何 を言おうとしてきたのかってのはもうお 分かりではないかと思うんですけどもこの 太陽のような用のものとしてのそのままい 光の一面と月のような因のものとしての影 っていうそういう松村北斗さんが備えてる 2面星がこの作品の1番大事なテーマと 構造に完全にフィットしてるんですよね。 で、この作品のスタート地点であって、 かつその後のドラマ全体に対する背景とも なってるその90年代から2000年代 っていうのはまさにその用のものと因の ものの対立構造から立ち上がってる世界で あって、 そこではやっぱりその内面性と身体性 あるいは社会性っていうのは愛入れない もっていうもう本当に世界のルールと言っ てもいいような根本的な構造としてあるん ですよね。陽キャと陰キャっていうのは、 ま、そもそも交わらないはずのもので、だ からこそそこから生まれたアニメ版秒速 5cmではその美しさを保つためにもその 断説は解消されないままにしていたわけな んですけど、それがやっぱり作品自体の 限界でもあったと思うんですよね。で、 そこが今回の実写家が挑んだ1番の チャレンジだったって、そういう話なん ですけど、主演の松村北斗さん、実写をに なった松村さんはその両方を最初から持っ てた人なんですよ。ま、ストーンズの一員 としてのその圧倒的な光と誠実で切実な因 のものだけが持つ声の質感。ま、太陽と月 両方の光と影が松村北斗っていう険な存在 の中では矛盾なく統合されていて、その彼 にしかできないことっていうのがまさに この作品で求められていた。この作品が 成功するために1番重要な条件だったん じゃないかと思うんですよね。で、もう1 つ指摘しておきたいことがあるんですけど 、この作品が成立するための必要条件は この2面をつぐ、和解させるっていう テーマの上の話だけじゃないんですよね。 を成立させるだけではなくて、作品として ちゃんと成功させるためにはもう1つ必要 な要素があったというか、ま、奥山吉之 監督と脚本の鈴木彩子さんが作っていった この物語にはもう1つ埋めなければいけ ないギャップというかね、かけている ピース、見つけてこなきゃいけないピース があったんじゃないかと思うんですね。 で、それが何かって言うとなんですけど、 この実写版の秒速5cmっていう作品は かなりプラクティカルな撃をしてるんです よね。あの、ま、原作アニメの非常に素敵 な余白とか曖昧さを残してあえて メッセージ性を不在にしてぼやけさせて いるかのようなそういう作りとは対象的に 実写版の方は物語を目的地に向かって きっちり運んでいくための機能っていうの が、ま、ちょっと目につくような形になっ ていて、ま、具体的なポイントいくつか 上げていくと、例えば、ま、高校生の高き のタバコっていうのがまず第1にあるん ですけど、 あのプロットっで、ま、というかね、後の 方であの高校時点では教師である緑が、ま 、その後再開することになるんですけども 、その再開した時のためにあらかじめ ベースの信頼関係を作っておくっていう、 そういう役割があるんですよね。プロット 装置としての機能というか、あれがある ことで後に繋がるっていうか、ま、逆に 言うとあれがないと後ろが繋がらない。 そういう形になってるわけです。 あと大人高きの、ま、御人的なポジション で出てくる久保田部長っていう キャラクターのプロットも、ま、後半の 科学館でのプラネタリウムにつげていくっ ていうストーリー展開上の大きな役割を 持っていることに加えて、最終的に高きが いろんな人に対して口を開いていく展開を 導くためのきっかけにもなっている。あと 、あの、ここはね、あの、そういう機能的 脚本っていう側面ではその咲えたる部分だ と思うんですけど、科学館の館長、ま、 吉岡秀たさんが演じてる小川館長、もう まるでなんて言うんですかね、その マジカルも格っていう不安ばかりの そのキャラクターの川をかぶった脚本装置 みたいに機能してる存在ですよね。何の 説明もない不思議な人間的魅力と信頼感の 空気を都合よく持っていて、明りと高きの それぞれの心情をトロさせる自白剤みたい な本当に物語を進めるための装置として ストーリーをグイっと展開させていて、彼 なしにはそもそもクライマックスが成列し ないっていう不思議な第3者になってるん ですよね。ただ、あの、ここは吉岡秀って いう名というかね、ま、俳優さんの優れた 演技力によって別に白じらしい歴になっ てるわけではないっていうのは逆に特筆す べきポイントっていうのはあって、あの、 ま、吉岡さんが持ってる独特の温かみと 物干しの説得力っていうのがそれがなけれ ば便利な脚本装置に見えてしまったかも しれないキャラクターに確かな人間性を 与えているっていうのはあって、で、なの でここは別にあの必ずしも批判的に言っ てる話ではなくて、むしろ吉岡さんすげえ なみたいなね。で、吉岡さんがいるから こそ成立する脚本っていうことで、作品 全体としては全然問題ないというかね。 なので、ま、さっきの話にも繋がるという か、実写版のキャスティングってのは全体 として非常に優れているっていう話でも なるんですけど、ただそれでも指摘して おかなければいけないのはこういうことの 全てがね、下手すればその説明的すぎると か作異的すぎるっていうそういう批判に なり得うるポイントだったっていうところ なんですよね。原作のアニメが持っていた 、ま、素敵な余白とか言葉にならないもの を映像日に託すことで生まれていた余因、 そういうものがね、この脚本の脚本だけの 段階だと失われてしまったかもしれない。 そういうリスクはかなり大きかったと思う んですよね。でも実際に出来上がった実写 版っていうのはそういう市場みたいなもの を失っていない。そこはなぜなんでしょう ねっていうね。 で、まず1つにはもちろんそのご自身がね 、フォトグラファーとしてあるいは ミュージックビデオの監督としてキャリア を積まれてきた奥山監督のディレクション プラス撮影の今村啓介さんの圧倒的 ビジュアル想像力っていうのがあると思う んですよね。ま、作品をご覧になった方は 覚えてらっしゃるかと思うんですけども、 単にその原作のアニメ版の構図を完全に 再現してるそういうカットっていうだけで はなくて、あの実写なのか絵なのか分から なくなってしまうようなちょっと現実離れ したような美しいトーンのカットとかが しょっちゅ入ってくるんですよね。ま、 レンジのチョイスとかフィルターワークと かポストプロセスとか全てにおいてかなり 入念に作り込んでいったと思われる絵が 随所に差し込まれていてそれによってその 実写がもたらす現実感からそのフィルター で雑みを全部腰取ってるみたいなそういう 感じがあってこれは本当に大きな要素だと 思うし、ま、作品制作においてもかなり 大変だったんじゃないかなと思うところな んですけど、個人的にはその、それに加え てもう1つすごく重大な要素があると思っ ていって やっぱり何と言ってもその松村北斗さんの 存在感がそういった機能性みたいなものを 超越してるっていうところがあると思うん ですよね。ま、機能的、作異的に物語を 操作していく、ドライブしていく脚本って いうのが骨組にあって、物語のリズムは 機械的と言ってもいいぐらい着実に カチカチと進んでいくんですけど、その リズムの上に乗っている主戦率が松村さん なんですよね。もう本当にあのこの写真何 回も出してしまうんですけど、たこ焼きの シーン見ててもそのもはや歩く市場という かねとかあのたこ焼きをもぐもぐ食べてる シーンがあんなに美しいっていうのは やっぱ何かが狂ってるとしか思えないです よね。あの、この世界にたこ焼きっていう 食べ物が生まれてからこの方、あれほど 美しい食べられ方をしたケースは未だ かつてなかったんじゃないかなと思うん ですけど、 ま、あの、 久保田部長とか緑先生とか小川館長とかが それぞれ現れては何かいって物語が進む。 ちなみにそ自体はね、あの人が出会って 言葉が発されることで人生が動いていくっ ていうこの作品のもう1つのテーマその ものでもあると思うんですけど、そういう 、ま、ご都合じゃないんですけども、 ストーリーの妖精に応じて誰かが現れて 何かを言うっていうことがあった時にそれ を受けて動くのが人の話を聞くのがとても うまい松村北斗さんであ るっていうことによってね、秒速の実写家 として必要だった市場っていうものが失わ れずに住んでるんじゃないかなという風に 思うんですよね。 彼がいなかったらもしかしたらこの機能的 な脚本はストーリー上のチェックポイント を1つずつチェックして潰して進んでいく 作業的なものになってたかもしれない。 そういう風にも思うんですよ。で、逆に彼 がいることで、ま、彼にいろんなものを 託すことで、例えばプロットがカチって 進むたびに彼の表情とか周りの空気に微妙 な波紋が広がるんですよね。そこに漂っ てる雰囲気とか余因とか、ま、あるいは そうやってスクリーンに移っているものの 向こうに何かがさらにあるようなそういう 予感とか余白みたいなものがあることで オリジナル版からのま、巨大な宿題を 背負っていろんなことを語ってかなければ いけないはずのこの作品が、ま、何も 落とすことなくちゃんと全部を拾って全部 を語っていくそういう膨大な作業ができて いてさらにその上でちゃんとリリカルな 映像作品としても成立している完成して 秒速っていうその看板にはないというかね 。秒速っていう看板を掲げる以上絶対に 達成しないといけなかったレベルの美しさ をちゃんと達成している。これ本当に何度 の高いことだったと思うんですけどもそれ が達成できてるんですよね。 ま、例えばあのプロット装置としてのタバ コっていうものがあった時に後のシーンで 大人になった高きが、ま、松村北斗さんが 1人でタバコを吸うっていう、そういう絵 が生まれることで、単なるプロット上の 古道具で終わらないとかね。久保田部長 っていうキャラクターも、ま、松村北斗 っていうなぜか可愛がられる聞き手とペア になることで、ま、ただの、ま、調子の いいことを言ってる説明的なキャラクター にならずにそこに語られてるわけではない けれども、何かこう有気的な繋がりがある ことが自然と伝わるとかね。ま、小川館長 にしても都合の良い装置にならずに温かい 空気を持った人生の先輩との血の通った 交流のシーンになってる。そういう貢献は かなり大きいと思うんですよね。 ま、脚本っていうのは元々ね、もちろん そのストーリーを展開させるっていうのが 1番大きな役割であって、大なり小なり 機能性っていう話はもちろんあるんです けど、本作ではその機能の方がかなり活躍 する作りになっているのに、それでも全体 の印象としてね、すごく指摘というか リリカルな感じの作品になってるのは やっぱり松村北斗さんが持っている切実で 誠実な存在感があるからだと思うんですよ ね。彼の演技と存在そのものの気配が削の 策意を超越してくれるというか。 ま、ということでちょっと長くなって しまったんですけども、その何が言い たかったかと言うと、この作品を成立さ せるための必要条件を持っていて、かつ この作品の脚本が、ま、2時間っていう 限られた時間の中で処理しなければいけ ないものを大量に追わされて るっていうそのスタート地点の前提条件の 上で、それを全てこなして作品をさらに 傑作って言われるにふさわしいところまで 持ち上げる。そういう十分な力、十分な 条件を満たしていたのは多分、ま、色々 俳優さんいる中でも松村北斗さんだけだっ たんじゃないかなっていう、そういう話を したかったんですよね。で、仮に彼じゃ なかったらっていうことを考えればよく 分かるんですけど、ま、例えばね、外面的 な花のある他の俳優さんを連れてきたとし たら、もちろんカリスマ性とか美しさとか 存在感とかね、そういうものを持って すごく忙しくいろんなものを処理していく 脚本の上にちゃんと美的なものを漂わせる ことはできたんだろうと思うんですけど、 でももう一方のね、誠実で切実な恋の質感 とかそういうものは演技で後から付け出す ものになってしまってたかもしれないし、 ここの作品がちゃんと保持していなければ いけない確信である内面性とかね、うちに 向かう方向性はやっぱり演じられたものに なってしまったかもしれなくて、そうなっ てしまうと今回の実写版が持っている奇跡 のような特別さは生まれなかったかもしれ ないなと思うし、 といってその内面的な部分に含みというか ね、深みを持たせられる演技派の俳優さん だったとしたら、ま、若手の個性あの 素晴らしい俳優さんも色々いらっしゃい ますけども、ま、高きの繊細で内部な内面 性の表現はこなせたかもしれないけれども 、でも、ま、圧倒的な光というかね、秒速 という作品は例え実写にしても市場に 溢れる。言ってしまえばめちゃめちゃにい 、そういう美しい作品じゃなきゃいけない 。そういう責任があるって言った時にそこ で必要となる外面的な要素はひょっとし たら物足りなかったかもしれないよね。 みたいな。ま、秒速の高きにやっぱり我々 が期待するものっていうのがあって、そこ はちょっと薄まってしまってたかもしれ ないそんな気がしますよね。 でも今回主演だった松村さんは、ま、幸運 なことにもというかね、どちらも素で持っ ていて演じるっていうだけじゃなくて必要 とされるものを存在そのものとして元々 持ってる。ま、そういうのもあって、あの 監督の奥山吉之さんがインタビューで こんなことおっしゃってるんですけど、 松村さんはとても綺麗な目をしていながら どこか寂しげな彼特有の独特な孤独感が あって、初めてあった時からまさにそこに 当た君がいるっていう印象でした。で、 これはあの演技指導とかでね、作り上げて いった挙像っていうことではなくて、松村 北斗っていう存在が、ま、まさにこの作品 に絶対的に必要な存在そのものだったって いう、そういう運命的な話を監督が言われ てるってことだと思うんですよね。 ま、ということでちょっとあの奥山監督の 話が出たのでここで監督の方にも少し触れ ておきたいんですけど、あの、ま、この 作品は松村北斗っていう唯一無理の存在が 可能にした実写かっていうだけではないん ですよね。もちろんあの監督の奥山之さん の映像作家としての細部へのこだわりが この作品をただの実写化ではなくて何度も 見たくなる。こういう深みのある作品にし てる部分っていうのがあって、そこにも ちょっと触れておきたいと思うんですけど 、 ま、ちょっと細かい話になってくんです けど、あの、秒速5cm実写版っていうの は、あの、1度見ただけでは気づかない こともある、すごく微妙な仕掛けに満ちて いる作品でもあるんですよね。2回目、3 回目を見た時に、あ、そうだったのかって 気づくみたいなところがあって、で、それ がやっぱりそのビジュアルの方から キャリアを重ねてきた奥山吉之監督が 仕込んだ資格的な物語の多少構造として この作品の至るところに埋め込まれている と思うんですよ。 あの、1番大きなところ第1のポイントと してあるのが、あの、実写版秒速5cmに は厳密な空間設計が一貫してなされてい るっていうのがあるんですよね。基本的な 法則として左が過去で右が未来っていうの が、ま、全編を通じてずっと一貫して ビジュアル設計の基本コンセプトとして 統一されていて、で、あの、ま、これは 奥山監督自身がオリジナルのその秒速 5cmだけではなくて、今コ東西の いろんな作品を分析していく中で日本の 映像設計における時間軸のマッピングが、 ま、近年編遷してきてるっていうそう地見 に基づいて作られているもので、ま、この 辺、あのYouTubeに上がっで、奥山 監督と松村北斗さんと深海監督の停団の中 でも語られてるんですけども、この時間と いうものをどう映像化するかっていう ところで、この法則が、ま、しっかりと 作品全体を貫いてるんですね。ま、例えば 思い出の中の高きと明りも不自然でない 限りは常に高きの左に明りがいるように 配置されていて、で、それ以降もずっと 高きが過去を見る時線は左を向いていて、 明りはやっぱり高きにとってのその過去の 象徴なんですよね。で、あとこれはあの、 ま、奥山監督の深海誠へのその、ま、 リスペクトみたいなところもあるのかも しれないなと思っていて、元は深海監督 自身のその新宿へのこだわりと絡むところ かもしれないんですけど、新宿駅の東口と 西口っていう話があるんですよね。あの、 ま、北に向かって考えると、北を基準に 考えると西口は左で東口は右になるわけな んですけど、高木はずっと西口にいて、ま 、ついでに自宅も新宿からさらに西の方に なるんですけども、明りの職場は新宿の 東口の木の国書店なんですね。明りは、ま 、2人を分かつ中心線から右側、未来の側 にいるんですよ。で、ついでにあの南口の ドコモタワーとかね、あと新宿魚園あたり は、ま、過去と未来の再開の交差点 もしくはすれ違いの場所として設計され てるんじゃないかと思うんですけど、そこ はちょっとあの考えすぎかもしれないす。 あのただ深海監督のね君の名とか割と南口 がフィーチャーされていて うん。ま、その辺ちょっとやっぱり繋がり というかね、奥山監督が繋げてきてるのか なみたいには思うんですよね。あと、あの 、回層シーンの動きを見ていっても、 例えば一貫して画面の左に向かって動いて いくもののっていうのがあったり、画面の 右に常にあるものとかね、観客があまり 意識しないレベルでも時間の流れを常に しっかりマッピングしてるんですね。で、 この統一された空間設計っていうのが、ま 、作品全体に一貫性を与えていて、言葉で は説明されなくても観客は無意識のうちに 高きは過去にいる、明りは未来にいる みたいに感じ取れるようになっていて、で 、その上でさらにそれぞれがどっちに 向かってってるかが分かるようになって いる。 で、最後ラストシーンで高きが動き出す時 の話なんですけど、これあの原作を投集し たこの自社版の中に何箇所かある原作完全 再現のシーンの1つなんですけど、この 踏切りのシーン、これあの実材の踏切りで 小田急線の三宮橋3号踏切りっていう場所 なんですよね。で、ここの踏切りは小田急 線が新宿から南に向かって伸びていってる 辺りで、踏切りを挟んで道は東と西に伸び てる場所なんですよ。ま、若干ずれるは、 ずれはするんですけど、大まに行って東と 西で、実写版はこれ多分後りで影消してる んじゃないかと思うんですけど、この場面 左が南で右が北なんですね。なので手前側 が東なんです。ずっと西にいた高が東に 進んでいって、最後にもう1度西を 振り返って終わる。そういう形になってい て、ま、ただま、じゃあすれ違った明りは 西に行ったのかって話になるんですけど、 明りの姿は消えてるのでセーフっていう ことで、とりあえず置いておいて、この 作品において一貫している空間設計の季決 として高きはついに東側未来に向かって 歩き出す。そういうエンディングなんです よね。 ま、あと他にもこ々もしたところちょっと さっておきたいんですけど、あの高きの 部屋のカレンダーとかね、引っ越し前の カレンダーはもう仕事の予定でびっしり 埋まっていて、ま、社会に強制的に接続さ れて、ま、責任と業務、義務に暴殺される 日々であることが示されてるんですけど、 引っ越しの後、ま、新しい部屋のシーンで は月例の表示が大きく入って何も予定の ない真っさらな新年のカレンダーが映るん ですよね。で、それは可能性に満ちた空白 っていうことでもあるし、を繰り返し ながら何度も出会っていく月と新しい 始まりの象徴でもあるみたいな。こういう 退避をセリフではなくて背景の鼓道具にも 語らせてるっていうのがこの作品の、ま、 一貫した丁寧なところというかね、特色に なってると思うんですよね。ま、あと明り の上履きとかもね、あの転候してきた明り の上履きが最初は周りと違っていてつ先が 赤いやつなんですけど高きがノートに書い てくれたアドバイスの後ちゃんとみんなと 同じ白いやつになっていて脚本の言葉だけ で済ませてないんですよね。劇中の ちょっとした言葉とか何気ないセリフ みたいなものもちゃんとその後の映画の絵 の中で繋がっている。そこをちゃんと丁寧 にやってる。で、そういう小さな変化の 積み重ねが関係性を語っていく時のその レベルを1段2段とさらに深めている みたいな話もあって、あと他にもあの大人 になった明りが読んでる本が我が輩猫で あるだったりしてね。で、それは小学生 時代に高きと交換して読んだ本が夏目創籍 の漫画だったっていうところと繋がってる んですよね。明り自身がその職場で言って た通り、それは思い出ではなくて、昔 出会って好きになったものは今でも日常と して続いてる。ま、明りのセルフそのもの なんですけど、これも言葉だけで済ませて なくって、ちゃんと絵の中にも入っている 。言葉にしなくても忘れてないし、高きの ことそのものを思い出すっていうことで なくても高きと過ごした日々がちゃんと今 に至るまで時間を超えて続いてる。そう いう風に大人になった明りっていうのが きっちりと描かれてるんですよね。 で、その大人の明りのところでもう1つ 言うと指輪の話があって、あの物語がある 程度進んだタイミングで明りの左の薬指に 指輪が見えるというか映るんですよね。で 、それが映った瞬間1回目見た時、あれ いつからしてたっけって思ったんですけど 2回目見て確認してみたら1回目に気づい たタイミングがまさに最初に指輪が出て くるシーンなんですよね。劇中ではその タイミングで、ま、裏でプロポーズされて たっていう話があるんでしょうけど、観客 に気づかせたいタイミングでちゃんと狙っ て気づかせる撮影と演出になって るってことなんですよ。演出がちゃんと 機能してるというか、狙い済ました演出が 狙い通りに効いてるっていうところで、ま 、物語の中で指輪っていうものが現れた タイミングでちゃんとそれに気づかせる カメラになっている。で、多分そのレベル のコンロルっていうのはこの指輪のとこ だけじゃないと思うんですよね。この作品 見てるとああなるほどみたいな気づきが いっぱいあるんですけど、そういうのが みんなちゃんと気づくタイミングとかね、 明白さとか微妙さとか曖昧さみたいなもの を含めて視線の誘導とかタイミングとか しっかりコントロールされてるんだろう なって思うんですよね。 あと、ま、細かいとこつがりで言うと、 あの、種ヶ島の株のナンバーとかもね、 ちゃんと原作リスペクトになっていて、 アニメ版と同じ193と202になってる とかね、適当に株用意してるっていうだけ ではなくて、ナンバープレートまで しっかり合わせてくる。ま、細部まで本当 に丁寧にやってるんですよね。ま、別に そうなってなかったからと言って文句言う 人もいないと思うんですけど、そこまで やってると分かるとやっぱりそこは安心感 になるんですよね。ま、あの、ごくまでに ね、そういうこだわりが作り手の自己満足 にしかなってないケースってのもあるには あるんですけど、この作品はやっぱり1番 太いミキのところをきっちりと抑えた上で そこから枝派まで決め細かくやってるので 大丈夫みたいな、そういう話がある気がし ます。あと映像方面では何と言っても やっぱり絶対に語っておかなければいけ ないのがたこ焼きのシーンなんですけど、 ま、本当に何度も出すんですけど、あれ、 松村北斗さんがたこ焼きを食べる姿が ただただ美しいっていうだけじゃなくて、 ま、それもあるんですけど、閉ざされてい た彼の感覚が開いていくっていうすごく 大事なシーンでもあるんですよね。 いろんな音が聞こえ始めて、いろんなもの が見え始める。ま、もしかしたらいろんな 味も口の中で感じてるのかもしれないん ですけど、風の音が聞こえてきて、虫の声 とか鳥の声が聞こえてきて、やがて遠くに 小田急の声、小田急の音も聞こえてきて、 子供の頃に明りと一緒に聞いた音が全部 蘇ってきて、で、それまで見えてなかった 飛んでいる蝶長とかも見えてきて、で、 そうやって感覚が開いていった上で改めて 、ま、彼が全てを閉ざして内面に 引きこもっていた高校時代のことを改めて 思い出す。その時に見えていなかったもの がいろんなものがね、改めてこれから見え ていく。思い出すことで見えていく。そう いう形で回層シーンに入っていくっていう 、そういう導入なんですよね。過去への扉 が開く瞬間が感覚の解放と重なり合って 描かれていて、ただ思い出すだけではなく て思い出すことで過去見えていなかった ものが見えてくる。そういうつぎになっ てるんですけども、それをやっぱりその たこ焼きもぐもぐ食べてる北斗君が見事に 表現していて、あ、この写真のね、カかに 膨らんだ方の向こう側にたこ焼きが入っ てるなんて誰も思わないと思うんですけど 、本当にすごいシだったと思いますね。 あと、あの、ビジュアルとはちょっと違う んですけど、この作品とにかくいろんな人 がいろんなことを言ってる声が何かを語っ てくるんですよね。あの、予告編でも使わ れてますけど0.003% なんだって。人と人が出会う確率みたいな そういう話もそうなんですけど、例えば あの2009年、ま、現代の約束の日、3 月26日が始まっていくタイミングで 木ノ国は書店の店員たちが、ま、何気ない かをしていて、で、小学生の衝突に絡めて 怒る時には起こるらしいよとか言ってるん ですよね。で、そういうセルフが挟まれる とね、見てる側はあれひょっとしてこれ から何かが起こるのかなみたいな偶然が 発生するのかなみたいな、そういう予感を 生じさせてくるというかね。それが、ま、 状況のトーンをセットするというかで、 これも機能的なプロット、機能的なセリフ と言ってしまえばそうなんですけど、日常 の会話が物語の予兆になっていく。その時 にはその言葉が発された時にはもう何かが 始まっているみたいな、この物語自体の 構造をなぞるようなそういうセルフでも あるなって思ったんですよね。で、そう いう細部をこの奥山義之っていう監督は 本当に大量にというかね、ずっと切々と 積み重ねていくことで物語を分厚くして るっていうところがあってダイレクトな 説明をするわけじゃないんだけれども見れ ば分かるとか聞けば伝わってくるとか 気づけば深まるとかねそういう配慮がして あってま言うと見ても最初は気づかないか もしれなかったりするものも色々秘められ ていてでそういうものもま2回目3回目見 た時に自然と、あ、そうだったのかって 気づくようになっていて、その構造自体も ある意味そのこの物語が語っている現実の 人生の姿みたいだなとも思うんですよね。 その時気づかなかった言葉とか表情とか そういうものが人間が生きていく中には 色々あって、いつか思い出した時に初めて 改めて何かに気づくことができるみたいな 。 で、こういう色々埋め込んであるその全て がある意味その先ほど指摘した プラクティカルな撃とか機能的脚本とか いう話とも繋がるんですけど、でも奥山義 っていう監督さんのね、映像作家としての 視点が、ま、その全てをある意味でその 指摘なものとしてリリカルなものとして 折り上げて1つの物語としてちゃんと まとめ上げられているっていうのがこの 実写版の秒速5cmっていう作品だなと つく思うんですよね、脚本に機能を果たさ せているだけなら説明的受け取られて しまうところを資格的なディテールとか、 ま、リリカルな演出とかそういうものが 重なっていくことで残境とか余因みたいな ものが生まれていって言葉にならないもの がちゃんと映像に宿っていく。で、その 素敵な映像の中に映像の中心に松村北斗 さんがいるわけなんですよね。 ということでね、ちょっとその松村北斗 さんが対現した物語の中での変化の構造 っていうところにちょっと話を持っていき たいと思うんですけど、 ま、今回の実写版における最大の改変 ポイントは何と言ってもその再開の約束、 そして雪の中の桜の木を高きがもう1度 訪れるっていうところだと思うんですけど も、2009年の3月26日は、ま、16 年前と同じようにやっぱり雪が降ってるん ですね。で、その雪の中を高木はあの時と 同じように、ま、新宿から両毛線で岩船を 目指すわけなんですけども、ま、大人と なった今ではあまりにもあっけなく たどり着くことのできたその先にはあの時 と同じように桜の木が立っていて、同じ ように雪が降っていて、でもその桜は満海 に鼻開いていて、雪と桜の花びが 重なり合うように振り続けているっていう 、そういう幻想的な光景が彼を待ってい たっていうことになるんですけど、ま、 ここはもちろんあの映画全体の中での クライマックスでもあるんですけど、 テーマという観点でも非常に重要な ポイントなんですよね。かつてそこにあっ たものが今もそこにあって、でもあの時 そこになかった桜の花が重なり合うように 存在している。その一方で、その今は明り はここにいなくて、でもあの時そこにいた 明りはやっぱり過去の記憶としてね、今で もわざまざとメニュー株というか 重ねり合うように存在できる人に記憶と いうものがあってそれを持って生きてくっ てのはそういうことなんですよね。存在し たもの、覚えてるものっていうのは消えも しないし打ち消されもしないしいつも ずっとそこにあってそこに今っていうもの が重なって存在していく。ま、そのことが 、ま、ある意味ビジュアルとして完璧に 表現されているこのシーンがこの物語で 高きがたどり着く1つのゴールとして設定 してあるわけなんですけども、 明りとの記憶は、ま、消えないで今でも そこにあるっていう内面性あるいは内光性 みたいなものはやっぱり肯定されるんです けど、同時に今ここに明りがいないって いう現実と明りと一緒に見ることは叶わ なかった桜が逆に今ここで咲いて るっていうもう1つの現実が合わさって 全て重なっていて、で、それはつまりその ずっと思いを抱き続けて自分の内面世界に 固定された過去にとまり続けてきた高きと そんな内面などお構いなしに存在して時間 は進み続けている。そういう外的なリアル な現実っていうものが初めて同じ時間、 同じ場所に共存して双方を共に肯定される 、そういう瞬間なんですよね。どちらも 正しくて、どちらもリアルであって、その 2つは対立するものとか配多的なもののっ てことではなくて、重なり合うことが できる。ここに至ってその90年代に発生 した対立的な世界の構造が高きという存在 の中で和えに至るというかね。で、それは その高きっていうキャラクターが16年間 その場所その瞬間から1歩も動かなかった ことによって初めて成立することでもあっ て、これはその高きがついに現実に 向き合った現実こそ彼が進まなければいけ ない場所だった。過去は捨てて進むべき だったとかそういうことではなくて、今 こうして桜と雪の下で全てが重なり合って いるのは高木の16年っていう時間全てが 肯定されるというかね。その時から今この 時に至るまでの全ての瞬間が肯定されて いる。そういうことだと思うんですよね。 内面に向かってその世界に背を向け続けて きたそういう時間が その起点となった約束をこの雪と桜の再開 に決させたみたいなそういう意味で でこの16年の時を超えてその止まってい た時と動いていた時が出会うっていうのは この実写版の1番大きな構図なわけなん ですけどもこの16年越しの再開っていう ねこの物語における出来事のレイヤーでの 1番大きな改変を支えているのが ストーリーのその心情的な面、感情的な面 の1番大きな中心点、ま、ある意味物語の 空間における全ての回転の中心がやっぱり その原作からの実写化において改変され てるポイントでもあるんですよね。 アニメ版の第3話は、ま、兄大作である 秒速5cmの冒頭部分って皆さん覚えて ますかね?あの、たき君のモノローグなん ですけども。 今振り返ればきっとあの人も振り返ると 強く感じた。 これはあのそのまま原作アニメのラスト シーンにもなっていくわけなんですけども これってあの原作のコア中心点というか 確信そのものなんですよね。原作ではま ストーリーの執着点あの時点においても まだ高きの内面の話なんですよ。今 振り返ればきっとあの人も振り返ると強く 感じたっていうその言葉は彼が抱いている 確信なんですよね。彼の内面にある16 年間ずっとそこにあった思いがそういう 確信を生み出していてでそれはある意味 その完全に彼の中で自己完結しているもの であって彼の中では世界はそうなってる そういうことなんですよね。現実を 確かめる必要もないし、実際にその すれ違った女性が明りであったかどうかも 定かではないし、仮に明りだったとしても 電車が通り過ぎた後その姿は消えていて いつは振り返ったのかそれとも振り返らず にそのまま行ってしまったのかも分から ない。でも現実に追任してもらう必要は なくて、彼の中には確信があって、で、 それはあの瞬間何か別のものに変わったの かもしれないんですけども、ま、それは他 の誰でもないやっぱり高きの中だけの話と して終わる。その先、あのエンディングの 先っていうのどうなるか分からないんです けども、それはもうそもそも書く必要が なくて、物語はあそこまででいいと深海 監督は思っていたのだろうし、90年代 から2000年代にかけてのその世界の、 ま、こっち側っていうかね、我々側って いうのはそういう確信が現実の世界を両画 する時代なんですよね。で、そこがまさに そのアニメ版の美しさそのものだったわけ なんですけども、美しさはありながらも、 美しくはありながらも、やっぱり弱さを はんでるというかね、物語自体はその現実 とか社会とかと切り離されたとこで閉じて しまってるんですよね。その後現実に 向き合って社会に溶け込んでいく高きって いうのが描かれるわけではないし、むしろ 描いてはいけない形になってるというかね 。歯者は美しく敗北したままリベンジ マッチを必要としていなくって、お前は 間違っていたっていうジャッジを受ける その覚悟も準備もないというか、そういう の必要ないんですよね。この確信こそが アニメ版秒速5cmの宇宙の中心だった みたいなそういうことなんですけども、 それに対してその今回の実写版の宇宙の 中心っていうのは約束なんですよ。ま、 約束っていうのはその当たり前のことなん ですけども、1人ではできないもので誰 かしら相手があって初めて成立する社会と いう口座の最小単位なんですよね。原作の 中にはその、ま、例えばたった1つの生素 原子にさえ滅多に出会うことがないって いう言葉があったりもするんですけど、 原子と原子が出会って強く結びついて1つ の分子になる。そういう構造に似たものが 実写版の中心にはあると思うんですね。 アニメ版のも実写版のきも自分の内面に ある記憶をずっと大事にしてきたわけです けども、アニメ版の高きのそれが自分以外 の誰にも確かめてもらうことができない 孤独な光であったのに対して実写版の高き はその記憶っていうものが約束という形で 自分の外にも接続されていて自分だけの 世界に閉じた思いとか光みたいなものを 社会的な行為ま現実社会というか、ま、 現実世界の中での行動としてそういうもと しての約束っていうものになっている部分 が彼自身をその世界の外までつなげている 約束の言葉が彼をもう1度外に連れ出すっ ていう形になっている。それが実写版の 最大の美しさだと思うんですよね。で、 そういう意味でなんですけども、本作の 高っていうのはいろんな人の言葉によって 自然と外の世界へ導かれていくような形に なっているんですよね。彼の周りの いろんな大人が彼を助けている構造になっ ている。で、ここがその90年代にその 精神的な基盤を持っているアニメ版とは また大きく違うところなんじゃないかと 思うんですよ。大人たちの世界に対して 基本的な信頼感とか安心感みたいなものが あって誰も孤独ではないんですよね。え、 ここもまた大きなポイント、大事な ポイントなんですけど、実写版の高きが 住んでる世界っていうのは周りの大人たち が一貫して言葉によるコミュニケーション の大切さを対現してくれている優しい世界 なんですよ。会社の上司の久保田部長は もう明治的に雑談が大事だ。雑談には意味 があるっていうことを言っていてったに 会社をやめてしまうところまで行った高き に文字通り道を示してくれる存在になって いてで高校時代の王子である緑先生も自分 の大事なことを話す時に笑ったりしなくて いい落ちもいらないみたいなことを言って たきが心の中に持ってるものを自分1人 だけで守ってなくていいってことを教えて くれるんですよね。で、それは外に出して も否定されない。こ壊されもしない。そう いう話。その思いはちゃんと出しても 大丈夫。 誰もそれを壊しはしないっていうことを 教えてくれている。それもとても誠実にね 、紳摯に正面から伝えてくれるんですよね 。で、それがあったことで科学館の小川 館長が何かありましたか?お顔が変わった ように見えますっていう相手をさりげなく 気遣う言葉をかけてきた瞬間に、ま、ある 意味その業務上は必要ない、完全に個人的 な雑談のタイミングなんですけども、そこ で初めて高きはついに心を開くことが できるんですよね。言葉をもらうことで 自分もまた言葉を開いていくことができる ようになる。ま、言葉をかわすこと、相手 に問いかけること、思っていることを内面 にとめず声として外に出すこと。これが 実写版が一貫して語っている社会との接続 の方法であって、そうやって高きがついに たどり着くのが全ての原点になっていた 約束の向こう側なんですよね。きが、ま、 ある意味その内面でずっと回り続けていた その16年間の中でその回転回り続けて いるその高きの中心にいたものが約束な わけなんですけど、その約束のさらに 向こう側始まるタイミング始まりの タイミングのさらに前に彼が帰っていける ようになる。あの日、その明りが最後に かけてくれた言葉、ま、たき君は大丈夫だ からっていう言葉。その言葉をなくして しまっていたがために彼はずっと自分の中 から出ることができないまま回り続けてい たわけなんですよね。で、この物語が本当 にいいなって思うのはこっからなんですよ ね。彼がなくしていた言葉大丈夫っていう 言葉。そこにたどり着いておしまいって いう話しではなくって、明りがかけてくれ たこの大丈夫っていう言葉に、ま、彼は ある意味救われるんですけど、この物語は 高きがそうやってね、明りと出会ったこと で明りがくれた言葉を取り戻して救われ るっていう話ではなくって、この大丈夫 っていう言葉はそもそも高きが1番最初に 明りにかけた言葉なんですよね。明りが 最後に高きに送った言葉はまさに高きが 1番最初に明りに送った言葉だった。高き が明りに救われたって話ではなくて高きが 見知らぬ天校生であった明りをたった1つ の言葉で救ったことから始まっているのが この物語なんですよね。そしてその自分の 内面の中の無限ループが始まる前、全ての 始まりの前、本当の始まりに戻ることが できた高きはやっと口を開くことができる ようになる。それがこの物語のたどり着く 場所なんですよね。ま、ラスト直前高きが もう1度水の理沙とあって自分の気持ちを 告げるシーンっていうのがあるわけです けどそこで彼はその誠実にね飾らずに落ち もなく言葉の裏に何の思惑とか期待とか みたいなものを持つこともなくまそれこそ 雑談じゃないんですけども意味とか意図で はなくてただ告げる相手に対して思うこと を告げる でこれこそはまさにその今回の松村が 演じ上げた当の高きの到達点なんですよね 。言葉が蘇ってそして新たな一方を 踏み出す。実写版のエンディングは実際に はそのアニメ版のエンディングを投集して はいますけどもでもむしろその実写版での あの真の位置付けはエピログなんだと思う んですよね。アニメ版は、ま、かかに微縁 で歩き出す高きのこれからが未だ描かれ ない状態で物語の結果として暗黙的に提示 される、そういうエンディングだと思うん ですけど、実写版の、ま、あのシーン、 同じシーンは、ま、エピローグとして最後 までこうやって語りきられた物語の結果 そのものとして提示されているような気が していて、で、ここにあるもう1つ大きな ポイントというかね、すごく重要な ポイントの話もしておきたいんですけど、 この物語で、高きの周りで起きていく 出来事っていうのは全てその人はきっかけ をもらって動き出すっていうそういう話な んですよね。ま、自分1人の足で立って 自分の足で歩き出すっていうのはもちろん 素晴らしいことで、アニメ版の高きが最後 にたどり着くのはまさにそこだと思うん ですけど、人の言葉にきっかけをもらって 歩き始めるっていうのは別に自分の至らな さとか弱さとかではなくって世界というの はそもそもそういうものだっていうことを 改めて言っている。それがこの作品じゃ ないかっていう気がするんですね。この 物語ではその高きがいろんな人に助けられ てきっかけをもらってやっと大事なことに 気づくっていうそういう構造になってるん ですけどそれは高きが未熟だからとか高き が弱いからとか高きが間違ってたからとか そういうことじゃないんですよね。世界 っていうのはそもそもそういうもので、 それを認めることは諦めとか甘えじゃない ですよっていう、そういうメッセージが そこに込められていて、 人は誰かに言葉をかけることで、誰かに 言葉をかけられることで初めて前に進んで いける何かを生み出せる。で、そのことを さらに強力に示してるこの作品の最後の ポイント、とても重要なモチーフがもう1 つあるんですね。 それがこのボイジャー探査機なんですけど も、ま、このボイジャー探索ってあの原作 にも実写にも登場する共通のモチーフなん ですよね。ま、厳密にはあの原作の方は ボイジャーじゃなくてエリシュっていう 核空の探査機なんですけど、太陽系の外に 向かって進む新宇宙探査機っていうことで 、ま、基本的には同じものと考えていいと 思うんですけど、この探索機の位置付けと 描かれ方に決定的な違いがあるんですよね 。 原作のエルシュ探査機は、ま、孤独にどこ までも旅していく存在。太陽系を離れて 暗黒の宇宙を永遠に漂って自分が信じる もののためにどこまでも誰にも届かない 場所へ向かっていく。探査機はもう本当に 永遠に無限に遠ざかっていくんですが、 これはもう本当に原作の高きそのものです よね。あの、これ言葉の不思議なところな んですけど、太陽頸外っていう外側に 向かっていくと太陽系を出た時点で新宇宙 ディープスペースっていう言葉に変わるん ですよね。外に向かって離れていってた ものが深く潜っていく話になっていく。 内側に向かっていくメテファーに変わると いうかね。で、それに対してこの実写版の ボイジャーでハイライトされてるのは ゴールデンレコードなんですよね。ま、 高きたちの小学生時代から一貫して登場し てくるそのレコードに刻まれているのは、 ま、声であって、そして出会いのための 言葉なんですよね。このレコードの音声 っていろんなとこで挿入されるんですけど 、物語の第3幕、ま、全てが大きく開けた 後でついに日本語が流れるんですけど、 こんにちは。お元気ですかって言うんです よね。ま、ボイジャーの旅っていうもの 自体はそれはもちろん当然孤独な旅であっ て、2度と会えないであろう大事なもの からどこまでも離れていく。そのことは 変わらないんですけど、でもその度は誰か に出会うための旅なんですよね。いつか誰 かに届くことを信じてゴールデンレコード を抱いて進んでいく。お元気ですかって いう言葉を届けるために。そこがアニメ版 と実写版の最大の違いなんですよね。なん かあの全部最大の違いって言ってる気がし ますけど本当にここは重要な違いでその 新しいボイジャーのビジョンが重ねられて いるま北斗の高きはま、孤独にどこまでも 遠ざかっていく存在だった実写版の高き からこのラストシーンで鮮やかに塗り換え られるというかね。いろんな人の言葉を 受けてどうしても思い出せなかった大事な 言葉を思い出してそしてそれは元々自分が 持っていた言葉だったっていうことに 気づいて彼は最終的にその出会いのための 言葉を抱いて新しい出会い新たな出会いに 向かって進んでいくそういう存在に 生まれ直すんだと思うんですよね。 ゴールデンレコードにはその大事な記憶 っていうものが刻まれていて、風の音とか 海の音とかね、地球に存在する、この世界 に存在するいろんな大事な音があって、 そして何よりその自分にとって1番大切な 言葉と出会いへの希望が込められていて、 それを持って彼は、ま、不確実なリアルの 世界へ改めて一歩踏み出していく、そう いう話になってるんだと思うんですよね。 これが松村北斗さんが対現した今作の塔の 高きの最も美しい変化というかね、大変だ と思うんですよね。アニメ版で孝志が持っ ていた確信っていうものは約束っていう ものに置き換えられて、内面世界に閉じて いた美しい座説の物語は社会に接続し直さ れる開かれた希望として語り直されて そして誰もが1人だけで歩いていく孤独な 旅っていうものは出会いの度っていうもの に書き換えられていくでラストシーンま 高きは踏切りで立ち止まって実写版と同じ ように1度だけ振り返って歩き出すんです けどその方向はさっきも言った通り画面の 手前側、東側、この世界が物語の空間設計 上を一貫して描いてきた未来の方向って いうことでね、ま、アニメ版と全く同じ シーンでありながらそこまでに重ねてきた 空間設計の一貫性とこうやって積み重ね られてきたその言葉のドラマが新しい意味 を与えているという風に私は思っていて、 で、ちょっともういい加減長くなって しまってるんですけど、最後にもう1つ 小さいけれどもちょっと決定的なポイント について、個人的に重要なポイントについ て語っておきたいと思うんですが、あの、 ちなみに今から話す話、今回の実写版の ノベライズにだけある話を含んでるんです けど、ラストであの、高きはタバコを やめることにするんですよね。これ、あの 、結局映画の方には取り込まれなかった 要素なんですけど、この映画に取り込まれ なかったポイントから逆方向に線を 引っ張っていくと、また大きな構造が 見える補助線になる。そんな気がするん ですよね。 ま、冒頭にその90年代の2つの文化の 攻め合いの話をしましたけども、その構図 の中で言うと青少年の喫煙っていうのは その対立を象徴する最も分かりやすい行為 なんですよね。 の文化における用のものの文化における 喫煙っていうのは、ま、ルールに対する 反抗であって、ま、身体性とか男性性の 個事みたいなものでもあって、社会から 逸脱していくことを、ま、自らと周りに 対して確認する行為なんですよね。で、 それに対して因のものの世界ではタバコを 吸わないっていうことがむしろ能動的な 行為なんですよね。ルールからの逸脱って いうものに対して反発して精神的な純粋性 を最優先にして俗っぽさみたいなものを 拒絶してプラスま面的には社会に言合する ルールに従っていくことでその内心の反発 を隠すまちょっと屈折した逆説的な姿勢 表明行為だと思うんですよ。喫煙するかし ないかっていうのは別にその単なる健康分 の問題とか態度の問題不良だなんだって話 ではなくてどっちに属するんだっていう 文化的なアイデンティティの問題でもあっ てそれを踏まえた上でなんですけど今回 実写版では高校生の高きが喫煙してるん ですよね。これ原作アニメにはない要素で あってで私も含めて多分ある一部の層には ものすごい大きな違和感というかね裏切り として映ったと思うんですよね。我々はっ てあえてこう守護広げていますけど、原作 版においてその高きを純粋なオタとして ある程度自分を同一化していた部分がある と思うんですよ。 高きは自分の側だと感じていて、ま、自分 は高きの側だと感じていて、美しい内面性 をこそ重視しているんで、俗っぽいタバコ なんかには絶対手を出さない。そういう 存在だと信じていたというかね。でも実写 版の高きはさらっと喫煙してくるんですよ ね。より高きはこっち側じゃなかったのか みたいな、そういう同様が走るというか、 美しい内面性だけの存在として、ま、ある 意味理想化していたというかね、美かして いた高像っていうのがあって、 そのこと自体を、ま、自分自身一方でね、 なるシズム的なものとしてやしつつもそこ にこっそり共感してる自分がいたのに、 その隠れていた信頼が崩れてしまう、崩壊 してしまうっていう結構なショックがあっ て、で、それを感じたのは多分私だけじゃ ないと思うんですけど、で、ま、ある意味 当然なんですけど、その 最初その 個人的にはめちゃめちゃ違和感があって、 作品に入っていく上でもすごい大きな ノイズだったんですよね。90年代のその 男子オタクの理解において解像度が足りて ないんじゃないですかみたいなね。90年 代のオタクそんなことしないよみたいな。 ま、例のそのプロット機能の話で後半の緑 先生のプロットにつげるためだけに適当に 警察にタバコってものを持ち出してきたん じゃないのみたいな。とりあえず緑先生に 対する信頼をちえるためだけにこんなもの を持ち込んできたんじゃないの。でもそれ じゃ高きっていう綺麗に完成した キャラクターの輪郭が誇ぶじゃんみたいな ね。でもノベライズ版を読んで、ま、 タバコをやめるっていう話があった上で 改めて考えるとこれはむしろ逆にそこに 意図があったんじゃないかみたいに思えて きたんですよね。 で、そしてそれがその意図的なものだった としたら脚本を手がけた鈴木彩子さんが 狙っていたのは多分美しい内面性に端で するオタクの幻想をまず見るものの側から 壊すそういうとこだったんじゃないかなと 思うんですよね。原作ファンにはやっぱり 大なり小なりその高きを理想化してる部分 があって、高きに美しい敗北を見い出して いて、そこに自分を重ねていて、ま、高き を純粋なオタクの悲しさの大弁者として 申請化していて、観客自身が高きと同じ ように内面への頭皮をしてるんですよね。 この入れこの共感構造というか、その共犯 みたいな構造こそがアニメ版をある意味 唯一無理と言ってもいい作品にしている 根換だと思うんですけど、そこを一旦 あえて壊しに行ったんじゃないかなと。ま 、高きを通して自分の美しい敗北を正当化 して高きを族っぽくない存在として 祭り上げることで自分も俗世間から超越し て現実社会で勝てないっていう靴をここの 悲しみにすり替える。がそういうシンボル になっていた面があるかもしれないなと いう気がしていて、でも実写版の高きは そんなことはよそにというかね、ちゃんと 喫煙、ちゃんと喫煙してるって言ったら、 あの、高校生の喫煙は本当にダメなので、 もし、あの、高校生でこれ、この動画ご覧 になってる方いらっしゃったら絶対に喫煙 はやめてくださいっていう話はあるんです けども、その喫煙してるきがいることで、 ま、高き自身がその都合の良い象徴という かね、16年前の淡い初恋みたいな便利な 記憶みたいなものではなくて、矛盾を抱え た1人の人間だったということ。純粋な オタでも純粋なヤンキーでもない複雑な 存在だった。高きを実写化するってのは そういうことだ。この作品を実写化するっ ていうのはそういうことだみたいなね。で 、その上でその大人になった高きはタバコ をやめるんですよね。で、それはあの別に 健康への配慮とかではなくってかつその 単なる人間的成長とかでもない。形で描か れていて、タバコを吸わないっていう アイデンティティ、ま、タバコを吸うって いうアイデンティティを超えた先の話なん ですよね。別にそのヤンキー的なものから オタク的なものへ回避するとかそういう話 じゃなくて、2つの異なる アイデンティティの軸が両方ある中での 主体的な選択なんですよね。より成熟した 統合への道というか、内面を守りながら 身体性も保つ、純粋性を保ちながら現実と も向き合う。過去を保持しながら新しい 選択もするみたいな。こう吸ったことも ないし、これからも吸わないっていう人は 吸ったことがあるけどやめた人とは やっぱり違うんですよね。ま、これは別に あの吸ったことがあるのにやめた人が偉い とかそういう話では全然なくって。ただ その人間のね、経験とそれに基づく判断 っていう観点から言った時にやっぱりやっ たことないことをやらないままにしている 人とやったことがあることをやらないこと にする人っていうのは単純に違うっていう 話で でこのことがねその吸っていたものが吸わ なくなるっていうことがまあある意味で その互いが互いを愛入れないものとして 行ったり来たりすることのない完全に会理 した2つのグループっていう構造になって い90年代的な2対率からの解放っていう ことの象徴でもあるような気がするんです よ。で、その複雑な高きを演じたのが、ま 、松村北斗さんで、 そこでやっぱりそのなぜ今回の高きが松村 北斗でなければならなかったのかっていう ことがここでもやっぱり明確になってると 思うんですよね。用のものとしての象徴で あって、ま、太陽の光のような存在でも あって、タバコを吸っていてもある意味 違和感がないというかね。ま、もっと言う と、その、もっと言うというか、もっと 正確に言うとタバコにおじ気づくような 存在ではないんですよね。でも誠実で切実 な声、月のものとして因のものとしての 内面性も持っている。どっちに触れても おかしくない。でも自分自身の格として 両方を持っている。で、タバコを辞める 大人の高きがね、その両極にまがる存在と して説得力を持っているというかね、純粋 なオタクっていう窮屈な幻想を壊した上で 、複雑な人間としての高きをちゃんと対現 した上で その複雑に作るしかなかったうによって 支えられる構造を一旦打破するというかね 。ま、この辺もやっぱりそのざッと見渡す 限り松田さんにしかできなかったことなん じゃないかなという気がするんですよね。 ま、ちょっとこの辺の話はさすがに分かり にくいというか、うがちすぎみたいな ところもあってなので、ま、それもあって その禁煙のところタバコをやめるっていう プロト自体は映画では省かれたのかなとも 思うんですけども。 ということでラストなんですけども、ま、 2007年秒速5cmの高金を見た時に、 ま、多くの人が大なり小なり無意識かに こう思ったと思うんですよね。あ、自分と 同じだみたいな。ま、劇中でもね、あのか ちゃんがた木君のことにもなんか高た高木 君も同じなんだみたいなことを言うそう いうシーンがありますけども社会に適用 できない自分昔は幸せだった自分今は本心 を言えなくなってしまっている自分過去の 自分に囚われてしまって前に進めなくなっ ている自分でそして何よりもその美しい 敗北っていうこと自体を人生として生きて いる自分でもそうやって自分と重なるもの が描かて、それによって生まれたのは別に 救いとかではなくって、それはもう確認と いうかね、見る人それぞれが、ま、おぼげ に持っているいろんなものに対してすごく 硬い枠を与えてしまって、固着化して しまうもので、もちろんそのことにね、 安心みたいな感覚を覚えた人もいるだろう し、言気づけられた人もいるんだと思うん ですけど、深海監督自身がそのこの作品が 世に出た時に、ま、感想としてね、 ひたすら悲しかったとか、ショックで席を 立てなかったとか、そう感想を聞いて驚い たっていう話もあって、監督の思いがどう だったかをともかくとして、前向きな話と してというよりは、ま、誰もが行率の中で 疲れている時代にそれを許すというかね、 それを乗り越えるとかではなく、悲しさと か虚しさの中にそのまま止まれ続け るっていう追任の印として受け止められ たっていう部分はあったと思うんですよね 。もっと言うとその自分がいる場所に高き もいてそこはとても美しくが描かれてい るっていうそういう慰めでもあって自分は このまま誰とも出会わないままに孤独な旅 を続けていく。世界は2つに割れたままで 自分はこちら側にいて社会の主流は あちら側にあり続ける。そういう 現状をま目認するというかね。容認して しまう。こういう呪いがそこにはあって、 で、その呪いはもう秒速アニメ版の公開 から18年間2025年に至るまでずっと そこにあり続けていたみたいな。 で、そういうね90年代から2000年代 にその20代とかそういうタイミングだっ た我々が囚われていたっていうの、そう いうすごく普遍的なことなんですよね。 社会的多数派にはなりきれない立場で本心 を偽って敬合しなければ生きていけないっ ていう、ま、かかな息き苦しさみたいな ものをずっと抱えていて、普通になれない 自分に対する自己嫌に統水して過去の純粋 だった自分を言い訳にしてしまう。そう いう人生を送っていて、で、アニメ版の 秒速っていう物語は、ま、言ってしまえば 高きがただ初恋を引きずる話なんですけど 、その一方でやっぱりアニメ版速っていう 作品はただ初恋を引きずる話ってだけでも ないんですよね。たきがずっと引きずって いたのは明りへの思いではなくて、むしろ それを抱いたまま前に進まない自分自身の そのシェルターでもあって牢獄でもある そういう構造そのものなんですよね。 そうなってしまう自分を抱きしめてると いうかね。実際35間近に控えた高きが今 でも明りを好きだったとかそういう話じゃ 絶対にないと思うんですよね。 で、それこそが、ま、高き個人に閉じた話 ではない普遍的な体験であって、その普遍 性が、ま、個人という枠どころか時間も 超えていて、2007年も2025年も、 そして多分これからも同じようにいろんな 人に、いろんな人のところで生じていく、 同じように生じていく構造なんだろうなと 思うんですけども、その樹爆を形にして 作品として消化させたのがアニメ版の病速 だと思うんですね。 なんというか 人はその譲れないものを持ったまま社会に 入っていくと他者たちの間に入っていくと 本当の自分を内面に閉じ込めることになる 。そしてその気づいた時にはその自分の体 の中で真事のように美しくなってしまった それを外に出すことができなくなっていく みたいな。 で、この呪い、 1番大きなこの呪いが今回の実写化である 意味その完全に溶けたと私は感じてるん ですけど、それはま、ある意味でその呪い をかけた2007年のアニメ版の異行と 同じレベルのすごいことだと思うんですよ ね。この呪いを特にはその呪い自体の本質 的な構造に踏み込む必要があるんですよ。 そもそも発端の構造が外的世界と内面が 完全に断絶されてしまうっていうことで 成立している以上、その2つの世界を きっちり接続しないといけないんですよね 。まず第1にそのなぜそんな呪いが生まれ なければならなかったのかという根本的な ところに立ち帰ってその呪い自体を共有 できる内面的な被合いとか苦悩みたいな ものがないと閉じこもってる人たちは絶対 に何も届かないんですよね。それこそ高校 時代の手みたいに外からのものは何も 立ち入れないまま、踏み込めないままに 立ちえてしまうしかない。でもその一方で ね、現実の世界、社会にちゃんと存在して いる、自分の足で立っているっていう確か さがないと同じ内面のブラックホールに 囚われてどこまでも自分を自己権語で慰め ながら沈み続けていくしかなくって入って きたものもそのまんま全部呪いの質量を 増すだけで終わってしまうというかね。版 を見て気持ち悪いって思う分はますます 気持ち悪くなっていくだけというか。 だからこそここでその松村北斗さんって いう存在が決定的な意味を持ったんだと 思うんですよね。ま、今回その東の高きは なぜ実写版で松村北斗でなければなら なかったかっていう話は既でにしてきて ますけども、この作品のコアの部分を 正しく捉えるためにはアニメ版の持ってい たその貴属さとかね、生々さとか肉体感 から有利した純粋な概念の部分、純粋な 美しさだけを損わずに やらなければいけないというかね、アニメ 版のその純粋さを損わずになんというか こう自分の内面にとまることでしかその 美しさを保てない。悲しい影のようなもの をちゃんと再現しなければいけなくって それができるのはやっぱり彼だけだった。 松村北斗さんだけだったみたいな。その 部分の塔の高きは彼にしかできなかった。 っていうのがやっぱり必要条件としてあっ て、さらにその上で今作でやろうとしてい たこと、その呪いを解くっていう話を達成 するにはやっぱりその上のものがあって、 それもやっぱりね、松村さんじゃないと できなかった部分、さらに大きなね、必要 条件というか十分条件みたいなところだっ たと思うんですよ。誠実で切実な声を自分 自身の肉として持っていて、繊細な距離感 と嘘をつけない月のような透明さと純粋さ を持っていて、それでいてちゃんと社会に ね、かっことした存在感を確立して太陽の ように自ら光を放って勇敢に前に進んで いくこともできる。 社会と降り合ったプレゼンスと内面の純粋 性が両立していて、外に対して自分を開い ていながらも内面を守っている。内面に 何かを持っている。多数派に受け入れられ ながらそれとは共有されない自分だけの 本質みたいなものも失っていない。太陽と 月の両方の光を持っているみたいな。で、 それはつまりその今回の実写家がもう1度 繋ぎ直そうとしてた2つの世界で最初から 繋がってる存在だったっていうことなん ですよね。 自分の自に閉じこもっていた高きたち、 無数の高きたちが共感できる内光的な存在 でありながらためらいながらその口を 開こうとするその決定的な瞬々の瞬間に ちゃんとそれはできることである。可能な ことであるっていうことを示してくれる。 進むべき方向をちゃんと示してくれるだけ じゃなくて、ちゃんとそこにいてね、道を 示してくれる。自分のいる場所を目指せば いいんだよってことを教えてくれる。北の 空の星のような存在というかね。で、これ はあの夜明けの全てを見た時に強く思った ことなんですけど、松村北斗さんはその 彼がそこに存在してるっていうこと自体が 道シルべになるというかね。別に押し付け がましく何かを言ってくるとか導いてくる とかじゃないんですよね。ちょっと先の方 にいてあ、そこに行けばいいのかが分かる みたいな。 に演する俳優っていうだけではなくて、 その人にそう感じさせる、そういう毛な ものを持った松村北斗さんっていうのがい て、で、その彼をキャスティングできた ことで、ま、18年に呼んで檻のように 陳電してきた何百万人もの高きたちの呪い を解くっていうその困難なチャレンジに 挑むための生産が立ったんだろうなと 改めて思うんですよね。ま、ただ何気なく 人に声をかけていく雑談は大事だよって いう話とか必要以上に踏み込まなくても 相手を気遣う言葉が心を開いてくれること があるんだよっていう話とか自分が大事に 思ってることはちゃんとそのまんま人に 伝えてもいいっていうそういう話を ちゃんと自分ごとして受け取れる彼のよう な人物が受け取るっていう物語になった ことでそれがちゃんと呪いを突破すると いうかねちゃんと突き抜けて誰かに届く ようになっているそういう気がつクズク するんですよね。ああいう言葉を 受け取れる存在というかね、受け取る意味 のある存在というか、ああいう言葉を自ら も必要としている存在というか。 ま、ということでね、あの色々と長々と 語ってきたんですけども、ま、色々変わっ てる実写化ではあるんですけど、個人的に やっぱり1番美しい回編はボイジャー探索 かなっていう気がするんですよね。あの、 ま、本当に想像絶するくらい孤独な旅で あるはずだっていう言葉の呪いをかけられ てエリシュっていう探索になった ボイジャーはアニメ版では美しい思い出を 抱いてただ1人どこまでも遠ざかっていく 存在だったわけなんですけど、実写版の ボイジャーは、ま、ボイジャー探索って いう存在そのものには何も手を加えずに、 ただそれが象徴するものだけを反転してる んですよね。ゴールデンレコードにはその 、こんにちは、お元気ですかっていう言葉 と共に地球の様々な美しい音が吹き込まれ ていて、それは自分はこんなに美しい ところから来ましたって伝えるためのもの なんですよね。実写版の高きは風の音とか 雨の音とか電車の音とか明りの言葉とか そういうものを孤独な旅をする自分を 慰める過去への良すのようなものとしてで はなくてこれが自分が好きだったもの。 これが自分を作ってくれたもの。そういう なんて言うんですかね。確かな未来へ 向かうための出発点としてね、これからも それを抱いて次に出会う人にこんにちはっ て伝えるための旅を続けていく。 で、それを見て呪いを解かれた90年代の 無数の高きたちも同じようにそれぞれまた 出会えへの旅を始めて、で、その ゴールデンレコードの中にはもしかしたら 2007年に秒速5cmっていう美しい 作品があってねっていう話もあるのかも しれないなっていうようなことを思うわけ なんですよね。ま、そういう意味で、あの 、この作品は本当にその、ま、つまる北斗 っていうケな存在によって奥山監督が呪い を解いたそういう作品だったと思うんです けども、仮にそれがね、あの、ここまで ずっと話をしてきたように社会の対立構造 、理行対立の中で生まれたいろんな呪いを 解いたっていう大それた話だったわけでは なかったとしても、そんな話じゃなかった としても、少なくともその2007年の 秒速を素直に美しい記憶として語れないっ ていう呪いはこれで、溶けたのかなって いう気はします。 ま、ということでちょっと今作、え、秒速 5cmの実写化で、ま、つ村北斗さんが何 を救ったのかっていう話をしてきたんです けども、いかがでしたでしょうか?ま、 あの、いつにも増してね、長々といつにも 増して勝手に色々考えたことだけ喋ってる みたいなさ、そういう動画だったんです けどね。もしその納得したとか共感し たっていう方がいらっしゃいましたら ちょっとね高評価ボタンとかチャンネル 登録とかご検討いただければ幸いです。 いや、なんか違うそうじゃないよっていう 方もいらっしゃると思うんですけど、その 場合は是非あのコメントなんかでねお気軽 にシェアしていただければと思いますので よろしくお願いします。 ま、このチャンネルは、あの、元々映画を もっと楽しむっていうことをMODにして ね、あの、こんな感じで良かった映画とか 心を動かされた映画を取り上げて、ま、 どんどん深掘りして語っていくチャンネル なんですけども、ま、もし応援してやって もいいよっていう方いらっしゃいましたら 、え、月額90円、え、決済方法によって 120円になるみたいなんですけども、 最小金額から用意してますので、是非 メンバーシップの登録ご検討いただけたら 幸いです。ま、うちのチャンネル本当に 長い動画多いんですけども、メンバー得典 として広告入らないバージョンとか用意し てますんでね、是非あの、ご検討よろしく お願いします。ということで、え、恒例の 宣伝も終わりました。最後までお付き合い いただきましてありがとうございました。 また次の魔界でお会いしましょう。お会い たい私クラションシネマの太郎でした。 バイバイ。 [音楽] [音楽]

ついに実写化された不朽の名作『秒速5センチメートル』、主演の松村北斗が見せた誠実さと切実さの奇跡、それによって解かれた18年に及ぶ呪い、そして、「なぜ本作は『松村北斗にしかできない作品』だったのか」――完全ネタバレありで徹底的に解説していきます!

#松村北斗 #秒速5センチメートル #奥山由之

***
初めてお越しになった方、当チャンネルの人気動画はこちらにまとめております❣️
  👉https://youtube.com/playlist?list=PL5P-w43vdVb1tMhA8mBt9kwxs1xI0UJwx&si=WADBzD7VjJGJCaBm

チャンネルメンバーシップはこちら❣️(広告なしVer.など限定公開中)
  👉https://www.youtube.com/channel/UC3hKmtHAltZJLYjyhmWJ-dA/join
***

動画本編中で触れている、「松村北斗x奥山由之x新海誠」3者による特別鼎談はこちらです!

パート1  👉https://youtu.be/0rAEA0WW5mk?si=iPh7maMi3yP2oMAi
パート2  👉https://youtu.be/Mpqnh14diBI?si=UX6BpCowNR8jmhK8
パート3  👉https://youtu.be/kGXyDI1T9Qo?si=Kxo8Ag80pA_DsNlh
(※動画中で触れている画面レイアウトの話はパート3にあります。)

***

本動画の章立ては以下の通りです:
***
0:00 イントロ 〜この動画で語ること〜
02:56 第一章:90年代という時代 二つの文化の対立という呪いの土壌
08:17 第二章:『秒速』という甘美な敗北 そこに、何が描かれていたのか
18:33 第三章:実写化という恐ろしい挑戦 許されなくなるものをどう変えるか
31:20 第四章:松村北斗という唯一の存在 なぜ、彼にしかできなかったのか
56:08 第五章:映像の細部が紡ぎ出す物語 映像作家・奥山由之のこだわり
1:09:29 第六章:何が変えられているのか 解呪と救済、そしてその先にあるもの
1:36:59 第七章:松村北斗は何を救ったのか 新しいゴールデンレコードを抱いて
***

このチャンネルは映画ポッドキャスト Crush on Cinema! の別館として、観てきた映画などについて気軽にざっくり語っていくフリートークコンテンツです。ご感想やご意見ご要望はぜひお気軽にお寄せください!チャンネル登録もお待ちしております!

※本動画内の映像・音声は、著作権法第32条に基づき、評論・批評・教育を目的とする引用の範囲内で使用しております。
※著作権は各権利者に帰属します。正当な引用と考えておりますが、万が一問題がある場合はご連絡ください。確認の上、誠実に対応いたします。

©️2025 『秒速5センチメートル』製作委員会

1 Comment

  1. 凄い力作動画をありがとうございました。
    私は松村北斗ファンなのですが、「秒速」の実写化が松村北斗主演で発表された時「アイドルが遠野貴樹を演じられるとは思わない」という意見を結構見ました。でも、タローさんが動画内で言われていた通り、彼にはアイドルという陽の象徴のような面も確かにあるのですが、もう一面で特に素顔では陰の雰囲気も確かに持っていて、「貴樹役をやるなら」でよく名前が上がっていた「秒速」好きでも知られる同じく新海ファミリーの神木隆之介さんよりむしろ適役だと思っていました。でもコアなファンを持つ「秒速」の実写化ということ、アイドルということで色々言われることもあり、ファンとしては心配していました。
    それでも「すずめ」で声優をつとめていて新海ファンにはお馴染みだったこともあって、実写映画を受け入れてくれる方も沢山いて少しホッとしています。彼自身の持つオタク気質は新海ファンとも親和性があるもののような気がしていますし、実際新海監督ともプライベートでも仲良しです。

    先日北斗くんの次の出演作として「九条の大罪」が発表されました(26年春Netflix、主演柳楽優弥)。「闇金ウシジマくん」の真鍋昌平さんの漫画が原作です。秒速と同じく男性ファンの多い作品で今度はオタク側というよりヤンキー側の系譜になる作品です。やっぱりここでも「アイドルが入ってくるな」などという声も聞こえて来て…こういう言葉を投げつけられるのはどれだけ映画で実績を積もうがアイドルの宿命なんだろうなと思うし、新海ファンとは比べられないほどアイドルという存在を嫌う層なのかもしれません。心配しつつも俳優松村北斗の新しい挑戦として楽しみに来春を待ちたいと思います。

Pin