今回の歴史の細道は、
『犬猿の仲 南部の盛岡城と津軽の弘前城』ついて紹介していこうと思います。
【目次】
0:00 オープニング
1:25 築城者のご先祖様は源頼朝の部下、東北の雄だった南部氏が築いた城『盛岡城』
2:41 盛岡城の歴史
3:37 盛岡城の縄張り
4:09 南部氏とは
6:34 弘前公園の桜が泣いている、希代の卑怯者が築き始めた城『弘前城』
7:42 弘前城の概略
8:55 極悪人の津軽為信、悪行三昧の日々
9:53 石川高信を騙し討ちに
10:59 藤代御前を亡き者に
12:42 妹も一緒に毒をもって亡き者に、浪岡城を攻略
13:47 豊臣秀吉を利用して、大名の地位を確保
16:04 まとめ
【関連動画】
石田三成の孫 津軽信義 人呼んで『津軽のじょっぱり大名』
戦国 毒を盛る女たち 津軽家の満天姫 伊達家の義姫ほか
津軽信枚…妻と小姓に愛情を注いだ人生
脚本・監修:歴史の細道
#歴史の細道 #歴史解説 #お城解説
~画像~
掬茶 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=140071020による
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こひろ ぐんた – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=94935879による
31 Comments
現代でも南部と津軽の確執はあります……😮💨。
(間に入り仲裁すんの骨折れたわ……😮💨)
現在も、青森県を真っ二つにする大問題😅
南部目線の記事のように感じます。知略謀略を戦国の妙とするなら、①九戸の動向を見定めて旗揚げ②小田原参陣の前に近衛家の養子になり、秀吉の縁戚に。③家康養女の輿入れを実現。④二代は天海の弟子に⑤御三家より早く東照宮の勧請⑥高岡改め弘前と天海が命名…これら天下の趨勢を見極めた施策は、単に蛮猛な一族のなせる技ではありません。しかし、幕末まで津軽家が背負う暗部があるとすれば、大恩ある豊臣と三成を関ヶ原で見限ったことだろうと思います。
なんで津軽だけが悪い?時期も相まってそれに才覚もあったからこそ、津軽は独立できたと思う。
青森県の県庁所在地が津軽藩だった青森市に決まった際、南部藩だった八戸市はそれに反発。
八戸市は八戸市役所を名乗らず八戸市庁と名乗り県庁所在地ではないにも関わらず青森県庁と対等(本音ではそれより上)であると言わんばかりに八戸市庁を名乗りました。
現在も八戸市は八戸市庁と名乗っています。
文化も青森県は東西で言葉まで異なり、西の津軽と東の南部とは県民性もかなり異なります。
本来ならば青森県の東半分は南部藩である岩手県に編入されるべきだったというのが現在も根強い話になっています。
津軽藩は成り上がり者らしく比較的陽気で社交的な人が多く(とは言っても言葉を理解出来るのは周囲の人ばかりだが・・・。)南部藩は家臣に裏切られて苦渋の想いを抱いて過ごしたからか寡黙だけども誇り高い人が多いです。
まぁ生き残るためには卑劣や卑怯と言われても生き残ることこそ重要なのです!
😮こんにちは
常陸宮華子さまは
旧津軽藩主の津軽伯爵家のご出身ですね。
😊良い発言ありがとうございます
こういう時代になったからでしょう。現在の南部氏と津軽氏の当主は極めて良好な関係だそうです(46代当主南部利文氏談)。
南部家がこんなにグダグタだったのは晴政→信直への後継ぎ問題があったのが一番の原因で、
そこへ津軽や九戸がここぞとばかりに大きく出たとか…
因みに信長の野望のゲーム内では津軽為信を部下にすると、
主君が南部だろうがほぼ天下人状態の豊臣や徳川だろうがすぐ裏切ったり独立したがるので警戒して使っていました。
能力が高いだけに裏切られるのが凄く勿体なかったのを思い出します。
ある意味今回の解説で納得しました。
次第点にもなりません。石川高信は信直の父です。それを出さないのは変、そして政信は高信の息子であり、信直の弟です。浪岡城は北畠氏の城で政信が城主だったことは有りません。また、父を殺された政信がわざわざ為信の妹を妻として娶る事はあり得ない。ちゃんと関係勉強して
油川城のあるところで小学校、中学校と過ごしましたが、ずっと津軽為信公は、南部の圧政から解放してくれた英雄だと教えられてきました。
飢饉の対策もばっちりで一人も餓死者を出さないよい政治を行ったと。
対して南部は大勢の餓死者を出した。無能だと。
南部に引っ越したら
津軽為信は反逆者だ。
あんな悪い奴はいないと言われました。
ま、自分とこの殿様はいい人なんですな。
津軽平野は昔から南部藩の年貢の隠し領地。中央には内緒で年貢米を隠していたとも
聞きます。その後ろめたさを利用して津軽藩が独立。南部側も表立って大合戦でき
なかったとも聞きます。南部藩の領地はお米の生産性があまり良くないので、かなり
悔しかったと思います。噂ですけどね。
鍛冶町と書いて
津軽はかじまち
南部はかじちょう
下組町と書いて南部は
しもくみちょう
下土手町と書いて
津軽は
したどてまち
江戸幕府ですら参勤交代に配慮したのに小南部(八戸藩)含む南部藩の北側と津軽藩を合併させて新たな県を作った明治政府には底意地の悪さを感じる
うーむ。
さおりさんの声だと最後まであっという間(ヽ´ω`)のめり込む
津軽為信が悪者にされているのは後世の南部宗家によるネガティブキャンペーンによるものです。
津軽側から見ると見方は逆になります。
津軽の人間です。言い方があんまりでは?下克上の時代ですしそれが当たり前の時代、その辺の言い方は考慮して欲しいかなと思います。
こいつらの仲の悪さは異常((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
刺し子は
津軽のこぎん刺しは
奇数で目を拾うから
縦長の菱形
南部菱刺は
偶数で目を拾うから
横長の菱形
津軽で横長の刺し子を着ていたら
な、南部でねが❔
南部で縦長の刺し子を着ていたら
おめ、津軽衆だべ
知ってたァ❔
津軽と南部の戦国時代を趣味で調べているものです。
どちらにも肩入れしている者として極悪人為信の所業に補論を。
1.石川高信は津軽と南部記録で最期が違う
他の方のコメントにあるとおり南部信直の実父であり、かつ彼は津軽郡代の立場で為信の上司に当たる人物です。隣国同士の同格ではないです。
この石川城の騙し討ち自体に異論はありません。
…が、実はこれ津軽側の史書のみの記載で肝心な南部家の歴史書は藩祖の実父が討死という事実を避けるかのように、津軽が高信を討った元亀二年の翌年に病死と記載しています。
この後の津軽統御のために信直の弟(つまり高信の息子)・政信が浪岡城にやってきます。
2.藤代御前の描写
伝承として藤代御前が為信を袖にして結果討たれたのは伝わりますが、一緒になろうとして夫が為信に討ってしまったことや、亡骸を切り刻み酒の肴にしたのは出典が何なのかすごい気になるので、逆に教えてほしいですね。
3.南部政信は南部史料にしか表れない
浪岡城には北畠顕家と同族の末裔浪岡北畠氏がいて、浪岡御所と尊崇されていましたが、天正年間に為信に滅ぼされます。
南部家の史料ではこの浪岡北畠は本拠を捨てていつの間にかいなくなったことにされ、空白地帯の浪岡を治めるために石川高信の子で、南部信直の弟、政信が派遣されます。(この描写自体もかなり信憑性が疑われてる)
南部の史料ではこの政信に取り入って妹を妻に差し出したのが為信で、実はそれ以前の記載時歴がないのです。
そしてここでいうように政信を妹諸共毒殺して津軽を手中に納めています。
三つの悪行、津軽側と南部側の矛盾した記録内容からとりわけ為信な極悪エピソードだけを抽出しているのかなぁと。
それからさも秀吉に先に誼を通じて為信が出し抜いたように見えますが、正当に前田利家を仲介に秀吉政権に先んじて接近したのは実は南部信直が先ですよ。
前田家の南部家宛書状に九戸政実や大浦為信のことであろう反逆の徒を必ず討ち果たすと書いてます。
以上、門外漢ながら様々気になることがありましたので長々と書かせてもらいました。
初めて知りました。
同じ東北諸藩で関ヶ原 幕末を過ごしているのに…もったいない…。
今でも仲悪いのかな…。
南部側の人間ですが、この動画の内容はちょっと南部側に寄り過ぎてる気がしますね😅
当時の南部家は宗家(いちおう三戸南部家。八戸が宗家という説もあります)が跡継ぎ問題等でごたごたしていたこともあって統率力がなく、分家同士や宗家と分家間の内紛が絶えなかったようです。おそらく為信は、そのごたごたに付け込んだということもあるでしょうが、それ以上に自分たちの家や領地を守るため頼りにならない南部家を見限っただけでしょう。
結局、南部家は最後まで自分たちだけでは内紛を解決することができず、秀吉に頼んで反抗的な分家をみんな成敗してもらったわけですが、先手を打って秀吉に取り入っていた為信だけは手出しできなかったので禍根が残り、南部側でいろんな話に尾ひれがついて極悪人扱いされているのではないかと思います。
たとえば藤代御前の話も、為信の強引な求愛を断るために自害した…というところまでは事実だとしても、体を切り刻んで食べたとか、彼女の怨霊が祟りを起こした等というのはいかにも作り話っぽいですし、藤代御前の墓の上に菩提寺を建てたのも、じつは為信は本当に藤代御前を愛していて、自分が強引に求愛したせいで彼女が自害してしまったことを後悔しており、御霊を弔うためにしたことだと考えることもできる、というかそのほうが自然な気がします🤔
いま旅先の弘前で見させていただきましたが、
複雑な気持ちになりました😅
この両地域の人って今でも密かなライバル心を持ってますよね?
弘前出身です。色々間違ってる部分もあり、投稿者さんの主観で一方的に津軽を悪と決めつける姿勢にただただ不快な気持ちになりました。しかも藤代御前のご遺体の肉を食べたなど噂レベルにもならない様な話を何故動画にしたのか理解に苦しみます。南部がお好きなら南部の動画を作ってください。津軽を落とすのは違うと思います。
これはひどいな・・・
まあ、表裏卑怯と言われてはいますが(当時は褒め言葉?)要は要領が良くて期を見るに便なのです、よく真田昌幸も同じ事言われますね。
ちなみに、甥っ子は南部の娘と大連あで結婚して(こちら津軽)両家は仲良しです、今は昔ほどではないですね。
津軽氏は石田三成の息子や娘を徳川の世に保護し、その娘さんとの息子が藩主にまでなり、息子の子孫は重臣、情がある所も発信してください。
しかも、三成の血を引く流れを追っかけると老中だったり、あの三菱だったり・・・
なかなかバラエティにとんだ面白い家です。
為信の時代下剋上の時代
食うか食われるかだ
為信が一枚上手だったと思う
関ヶ原では東軍に着いたが、石田三成の子供達をかくまっている
ある意味三成から受けた恩を忘れず人情もあった人物と考えられる
秋田の人間ですが、ちょっと南部より過ぎる動画みたいなw
江戸後期の相馬大作事件でも、南部藩を持ち上げ、津軽藩を落とす物語ばかり流布されたそうですが、気持ちがわかる感じです。ちなみに、石川城は地下に抜け穴が縦横無尽に走っているとか。
浪岡城は城下に火を放って混乱させて攻略したと言われているので配信者さんの調べた文献などが間違っているか、偏っているのでは。