【名曲探訪】(#1 Part1)シティポップを代表する作曲家「林哲司」のマスターピースに迫る!半田健人が選ぶ林哲司のおすすめ楽曲!
名曲MCの半田 ケトです。さあ、今回より始まりましたこの番組昭和の名曲を深く深く掘り下げてまいります。それでは早速記念すべき第 1 回目のゲストをご紹介いたしましょう。作曲家の林哲先生です。よろしくお願いします。 どうよろしくお願いします。よろしくお願いします。 [音楽] はい、というわけで先生今日改めてよろしくお願いします。 こちらちょっとなんかちょっとね、いや、何しろですね、僕らはあの昭和音楽というラジオ番組でもう 17年ですか?17年ですよね。 はい。ずっと一緒にやらさせていただいてまして、まあ、 若かったもんね。 若かった。先生も若かった。若かった。 お互いに でね、本当にあのプライベートなあのご相談などもね僕なんか聞いていただいたりとかってもう講師ともにすごくお世話になってまして、え、今回 [音楽] 自分の番組を持たせていただけるということだったので、その第 1 回目のゲストはちょっともう是非先と思います。です。ありがとうございます。はい。 で、この番組はですね、あの、他の番組と違ってですね、広く浅くではないんですよ。もう狭く深くないらしいじゃないですか。 そう。 そこでちょっとね、自分ライスを出していこうということで、 え、とこと1 局にこだわって、え、語っていただこうということなんですね。では、その早速ですね、この 1 局、この番組みはマスターピースという呼び方をしますが、え、そちらの話を伺っていきたいと思います。さて、今回の先生のマスターピースなる 1曲はどちらの曲でしょうか? はい。え、レインサダディア&コーヒーブレイクという曲が あるんですよ。はい。あります。はい。 [音楽] それがね、え、近年あのシティポップブームで うん。海外の人がこの曲が結構 ああ、 好きだということで指示を得てるんですけどね。 意外なことに、え、ま、自分でも振り返ってあ、こんな曲書いてたんだっていうね、そんな思いがしますけど [音楽] うん。うん。うん。ご自身でもはい。 お気に入りというかライブでつも歌われてるじゃないですか。 あのね、すごいこう軽く歌える感じ。 あ、 それがなんか自分にうん。なんか力マないでこう歌えるって感じ。 確かにギター引きながらね、いつも歌てますよね。うん。 ええ。で、その曲が収録されてるアルバムが こちらということ。 はいミ。これ僕のソロアルバムの2 枚目なんですけど うん。で、この頃ぐらいまでって うん。 その世間一般に林鉄という名前はどうなんでしょう?まだ作曲かというよりも、 ま、歌手いや、とんでもない。 者とんでもない。どうなんでしょうね。 どちらもないです。どちらもない。 どちらもない。 はあ。ご自身の気持ちとしてはどうだったんですか? 僕はね、 元々はシンガソングライトとして出てきたでしょ。 [音楽] だから当時の、えっと、一年に50 周年迎えたんですけど、当時のものをこうちょっと色々漁ってたら はい。作曲でやってるんですよ。 ああ、塩ね、書かれてましたよね。 曲を作ったら自分でも歌うっていうスタイルが、ま、当時としてはアーティストとして当たり前のスタイルだったので、 ま、そういうスタンスだったんでしょうね。 うん。はい。はい。はい。 だから作曲ってのはあくまでもあのなんかその依頼があったら提供したいみたいな気持ちで あじゃあこの頃というのはまだそのゆくゆく自分がま、メロディメーカーヒットメーカーに なるつもりっていうのはそう ないですよ。とんでもないですね。 では逆にはい。歌詞として1 局当てたいみたいな思いが はい。それはねの時正直言ってそのデビューすると はい。 受け入れられるな、受け入れられるじゃないかなと思ってたんだけど はい。はい。 これはね、やっぱり甘が甘くなかったですね。ああ、なるほど。 まあ、でもそういう色々ななんて言うんでしょうね。自分の運命って分からないもんで、でも結果としてその歌手としてのヒットが出なかったから作曲かしていったわけですからね。 そうとも言えるんだけど、大きな今振り返ってみると大きな別れ道があったのは、あの、例えばアーティストになる人って はい。あの、本当にもうはい。 その夢を目指してこう、 ええ、 極端に言えばもうなんかその職業としてね、それを選んだ以上は 何が何でもっていうところで例えばあの苦労しても、ま、区学してもっていう感じですよね。 それでもあのたどり着きたい道ってのはあると思うんだけどなんかね振り返ってみると自分は作曲家の道の方に誘導されてたような気がするんですよ。 で、なぜなぜかと言うと、 ま、もし自分がアーティストになるんだとしたら、例えばアルバイトしたりとかして、え、 あの、ま、食いついでその自分の道を進んでいこうと思うんじゃないですか。 食べられちゃったんですよ。 おお。 なぜかいうと自分の中でアレンジするスキルとか はいはいはい。 え、曲を書くっていうことができたんで それで生活できたと少しぐらいはあの はあはあはあはあはあ そちらの仕事を受け受けてやることができたんですよ。 はい。はい。あ、それはでも恵まれてましたね。 そうですね。だから他の仕事であの自分の生活を成り立たせるよりはうん。うん。 音楽でやってけるっていうことがあったんで、でもそちらの方にこう引っ張られてきたっていうはいはい。 分かりかなって思いますね、今。 そうですか。うん。 で、このマスターピースのレースサタであのコーヒーブレイクのその楽曲についてなんですけども、この曲が、ま、生まれた時のエピソードをちょっと伺いたいんですけども、 これはね、1 枚目が僕は何をやっていいのかわからなかったの、アルバムブルジェっていうアルバム ですからクラシックの影響を受けたりとか、ま、 1 [音楽] 番影響を受けたのはビートルズの影響を受けて、そのビートルズのサウンドっていうものが 1 番自分の作品のルーツみたいなとあったんで はい。 ま、半分はビートルズの色が色合いがあって、で、あと半分はなんか色々な火用の要素だとかポップスの要素がうん。 あの、入り混じったようなアルバムを出してしまって、 決してそのサウンドコンセプトみたいなものが 自分の中になかったのね。1 枚目のアルバムってそうですよね。 なんかこうLP 出せるっていうこう強い思いから 自分のやれることを全部ぶち込みすぎて3 万となる。これ僕も経験あります。 あ、なるほど。 その時は満足なんですけど、振り返った時にあ、ちょっと恥ずかしいな。 そうなんだよね。で、自分がじゃあ次にアルバムを作るって言った時にじゃどこにその反省も含めてね はい。 どういうアルバムにしようかってた時に 僕はなんかその、ま、ビートルドは有UK ですからUKの影響よりは うん。 ポックスの影響つったらアメリカの方が強いのかなと思って。それでま、どちらかというと自分の素直な感じで、 ま、自分のベースになってるのはあのこのアーティストっていうよりはラジオから流れてきたこのヒット曲っていうのが自分のベースになってるような気がした。したのね。はい。 だからそういうポップな感覚の作品を作ってまとめようっていう意識にだんだんなってたと思うんですよね。 [音楽] うん。 でもこの曲もね、結局その覇先生がご自身のライブなんかでソングファイルで歌われたことによって [音楽] 新しい世代の方曲があったんだって知ることになるじゃないですか。 そうですね。でもあの現実は海外の人たちがこの曲をブラジルのアーティストで [音楽] はい。 えったって人がいるんですけど、その人はこのアルバムを自分のベストベストの中に入れてやったりとか うん。うん。うん。 で、なんでこの記憶好きなのかなっての僕には分からないですけどね。 いや、でも本当にインターネットのね、普及この時代になって地球の裏側の人が当たり前に日本の歌を聞く、ま、逆 [音楽] どうですか?その先生が、え、20代、 30 代の頃の曲が、ま、言うなれば自分の意思とは全くね、関係や思いのないところで [音楽] 流行って で、再びそれが逆ユニのように日本に来て 大先生と呼ばれるこの感覚 前にあの ね、話したことあるけど、そのシティポップっていう呼ばれ方どうなのかってね、その前に話したことありますよね。 で、正直言って 軽いじゃないですか、その5位自体が。 先生はね、ずっとね、その17 年のラジオの中でこういう局調のことを AORという表現されてたんですよね。 ですから、 ご自身の作品を語られる上でこれはA 系だよねという言い方はしっくり来るんだけども、 ここに来てメディアがシティポップっていうもんだから。うん。そう。うん。うん。 うん。ね、 やっぱり自分でつけたこう自分のカラーじゃないじゃない。だからそういうことに対してはい。 抵抗感を感じるアーティストもいると思うんですよね。 うん。 で、おまけにシティとポップだから、 あの、なんかこう深みのないような軽い感じで こう 継承されるようなそういうイメージはあると思うんだけど、ただ [音楽] 客観的に考えると 僕たちは作曲家だから自分の作品が、 ま、どれだけ多くの人たちに聞かれるかっていうのも、ま、数の論理としてはあるわけですよね。 だからそういう意味ではブームだとかあの故障がなんであれ、 ま、そういうことで人た人々が聞いてくれるってことに関してはすごく うん。作家料理に尽きることだし あの、ま、聞いてもらえば分かるようにそのシティポップといえども 軽い響きであろうがその作ってるそういう工夫ってのは十分思い物があると思ってる。 はい。はい。 だ、僕はね、もう常々その言いたいのは林鉄作品というのは確かにそのシティポップと言われるジャンルの要素は含んでるんだけども でもやっぱりねメロディがすごく独特林さんのメロディってあるじゃないですか。 で、僕はね、その世間一般でいうシティポップって変曲のジャンルだと僕は思ってる。 言ってみたら サウンドのテイスト、ま、リズムが少し羽気味であったりとか、ま、コードワークとか うん。 そういうことの音の響きからこれはシティポップだねっていう風に 人が感じちゃってる。うん。ありますね。 80年代のなんか僕たちが アメリカのあのAOR に影響を受けてね、それではい。 あのプレイヤーから作曲家からアレンジャーからうん。 ディレクターまでみんなやっぱりそこの音楽に憧れて、え、再現しようとしてた部分がある。 はい。 だからそういう意味では、ま、都会的っていう意味はありますよね。確か 音色というかね。 で、その中で林ハ作品はかこたるこうメロディが あのやっぱりヒット うん。 ヒット曲系のメロディがあるんですよ。その これは人のハートを掴むなというね。 ですからそういった意味では抜きに出てる部分かなと僕個人は思うんですけどね。 うん。 ま、それは自分では分からないんだけどね。正直。 うん。 一括りにしてどうなのかという疑問は僕は常に持ってます。これはもう ありがたいこと。ええ、 おベンチャラじゃなくうん。 だって言ってみたらそのはさんの作品の中で例えば菊ももこさんのシングル局とかってちょっと火用局の要素強めだったりするじゃないですか。 ありますね。 それはあえてあのドメスティックな ですよね。4 度進行を使われたりそういうことって他のまシティポプ系のアーティストってむしろ避けたりする 方法なのかなという風に思いますね。 あ、ちょっと恥ずかしいみたいなと思う。うん。火用局に行っちゃダめだという縛りみたいなのをお持ちなのかなみたい。 あ、それはね、もしかすると80 年にオメガ、オメガトライブを手掛けるあたりから 意図的にあの自分の意識としては はい。 法学に近づけてるかもしれない。 だから洋楽に憧れてはい。はい。 よく言うんだけど太大表にこう踊り出たんだけど ええ途中に行ったら ちょっともうちょっともうちょっと日本に戻ろうかなみたいなね。 うん。そんな感じで作ってた はい。はい。はい。はい。気はしますね。 でもそれはですね、おらくその林というミュージシャンがヒットメーカー、つまりディレクターレコード会社からヒットさしたいんだったらさんのとこに頼みなよという風潮が出てきたから期待に答えるっていう。 あ、それはあのられてる分はあるですね。 でね、そのどの辺りから、え、この頃はまだその LP を出して自分がボーカルを取っておられる時代があって うん。 あ、自分は、あ、俺はもう作曲なんだと。 うん。 辞任したというか、確信めたタイミングってあったんですか? まだね、あの、作曲家っていう意識よりはそのアンティストとして活動しながら 作品の依頼があったら作品を書くっていうスタンスだったのね。 はい。 ただそのあくまでも僕たちってのはメインストリムは火用局だったんで、そちらの世界ってのはもう大御所の あ、もうすに席があったという。 うん。 だからな、何て言ったらいいのかな。僕たちが起用されるっていうのはそのうん、 メロディに対しての衣子衣のアレンジの部分で 新しいものは求められてたんですよね。 でも中身はあの火用局の、 え、作曲家の方たちが書いて、先輩たちが書いて うん。うん。 これ曲をちょっと今ふに住んだったらっていうことでアレンジとして起用されるっていうそういうスタンスが多くてあ そういう中でもちょっと曲書いてみないって言われ始めたことはあったんですよね。 ああ、それが70年代後半ですからね。 そうですね。そうですね。で、だんだんだんだん自分のテーストみたいなものが あのレコード会社のディレクターの中でも新しいことをやりたがる人たちもいるわけですよね。 はい。 あの、ほぐの本条さんだった。 はい。はい。はい。 そういう人たちがあの、じゃあ林し使ってみようかみたいなことの曲を書かしてくれたりとかする。 [音楽] そうするにあのアーティストの方も、え、僕たちの書くような作品を歌うようなアーティスト、じゃあ竹内さんだとか、え、松美さんだとかそういうポックスで育ってきた人たちがだんだんだんだん対当してくるようになるわけですよね。 [音楽] はい。はい。はい。はい。 それでああ、自分たちがやっと作品をかけるようになったんだなっていう。 なるほど。それがね70 年代後半の頃ですね。 うん。うん。 そうなってくると次第に逆にアレンジャーとしての仕事ってのは減っていくわけですかね。 逆転してきますね。で、元々 アレンジャーには向いてないなと思った。そうですか。 うん。死があって、これはね、本当にアレンジって仕事は大変で 音を全部積み重ねるわけじゃないですか。量がね、違いますからね。 でもやるからうんけど、 あれをね、その物理的にそのイントラから考えて、えっと、他の人の曲をアレンジするって時期もあったんだけど本当にね、大変で、あの、スタジオに行くまでギリギリまでやるような生活がついてたでしょ。 うん。 で、これはね、自分のこう、なんて言うのかな、こう、え、ルーティーンからするとちょっと大変で無理だなっていうことは はい。はい。はい。 音楽的な技術的なことも含めてね。 なるほど。 曲だったらいいけどアレンジャーとしては自分は向いてないなってことを感じ始めたのかな。 うん。 じゃあ結果として理想にだんだんだんだんこう引っ張られてく感じで倉庫してる時に [音楽] あの竹内まさんに曲を提供するような形のね場面が出てきて 3 作目のセプテンバーを書いた年があったんですけど 79年なんですけどはい その年にあのこの松原美木さんとあって松原美さんのデビューにあたって 1 局書いてないかっていうことであのそのディレクターが こう完璧な洋学っぽいものでい いいよみたいなことを言ってくれたんで、え、提供したわけですよね。 うん。それが真夜中のドア。そうですね。 はあ。で、その真夜中のドアがリバイバルヒットしてに至ると。 はい。うん。ねえ。 いや、分かんないもんですけども。 ちなみに比較的近年例えば2000 年以降に書き下ろされた曲でご自身でお気に入りの曲っていうのはございます? これはね、やっぱりね、あの伊達にキャリアを積んだわけではないので、だんだんだんだん書いてくうちに音楽的な知識とかもあの自分の中に身に備わってくるじゃないですか。 はい。はい。 そうすると曲の中に色々な行を入れたり、あとは自分の人生経験の中の感情とかっていうのを折り込め た作品っていうのがだんだんできてくるわけなんだけど、そういう曲も中にはありますね。 おお。具体的にこの曲ってのございます? あのね、えっと一般的ではないんですけど、戸田け子さんに書いた はい。 眠れない夜のままにっていうと曲があるんですよ。 バラドなんですよ。 これはね、やっぱり自分が色々な洋学の要素を うん。うん。うん。 あの、影響を受けてきて、えっとね、ダイヤナロスのバラードなんかに影響を受けたお うん。嫌いがありますね。 やっぱりこうずっとね、長くキャリアをやっておられると特に 80 年代なんかっていうのはもうリクエストこういう曲を書いてくれって言われて書くことが多かったわけですよね。 自分がこういう曲を書きたいみたいなってなかなかできなかったんでしょうね。 できない。うん。大体あのすごく優秀なディレクターも多くましたから、そのディレクターがそのアーティストにどういう作品を今度は用意するかっていうことを、ま、ディレクターなりに考えてその中で作家を指名ししてたって時代が ありましたからね。それでヒットを出してくっていううん。はい。 ま、一番理想的なね、 政作者としてはそういうスタンスの人たちが多くたんで、 あの、今度は林君とこういう曲を作りたいんだと。例えたさっき話に出たセプテンバーなんていう曲は、えっと、宮田さんっていうディレクターが、え、当時あのセプテンバーって言葉をもう入れたいんだっていうね。 [音楽] うん。うん。うん。 そういうはっきりとしたコンセプトの中で作品を書いてくださいっていう。 はい。はい。 ま、あの、そういう中で僕たちも作品を徐々に提供できるっていう場面が増えてったわけなんですけど。うん。はい。 [音楽] え、こちらのマスターピースレサタデアコーヒーブレイクの曲の構成の中で特に先生がここ聞いて欲しいってとかあります? これね、あの当時は自分が当たり前にこの作品書いてやったじゃない。 で、今振り返ってみるとこれ77 年なんですけどね。うん。 あの、こういう曲をよく書いたなと自分で逆に思っちゃうのね。 それはあれですかね、その自分の中でのちょっと異質な部分で書いたっていうことですか? 異質ですね。今考えると当時のメインストリームで火用局、ま、得意な火用局の分野から考えれば こんな曲絶対に受けられると思わないもんね。 おお。 だからやっぱり好きなことやっちゃったっていうことなんだけど、ただミュージシャンはノりノり ああ、そういうもんかもしれませんね。 そう。 あのスタジオミションはみんなほら洋学からの影響を受けてる方多いですから。 [音楽] そうそうそうそう。ちなみにこのシャッフルのノりとかってドラムのノりだったらあの村上ポン太君ね。 はい。ポンタさん。もうこ 村さんがうん。そう。そうそうるメンバーですよ。ギター大村健けさん。 そうなんですよ。え、安倍大原れさん。 そうなんです。 鍵盤が栗林さんということです。 だからみんなスタジオで仕事はやるんだけど自分の好きな曲かどうかっていうのは選べないじゃないですか。 うん。うん。そうですね。不面を引くわけですからね。 だけど僕のレコーディングって本当楽しくは。 あの、やらせてもらったって感じはありましたね。 先生の世代ぐらいからですか、わゆるヘッドアレンジみたいなのができやす、それ。それまでてガチガチでしたもんね、結構。 そう。だからね、一応不面は書くんだけど、あの、特にオメガトライブを担当するようになったからは、あの、 ここって書かない方がいいかなとかっていう事前に自分で考えるミュージシャンが誰が抑えられてるかってことで はいはいはいはい。 あの、あえて、ま、これだけは書いとくけど、ここのその後は空白にしとこうか。 この人呼べばうまくやってくれるんじゃないかみたいな。 何か出てくるかもしれないっていうのは楽しみとしてハプニングはありますよ。 なるほど。なるほど。うん。 ということはスタジオミューシャンとも本当にすごくこう親密の付き合いをされながらずっとやってたわけですね、長年。 そうですね。だからあの正直生でやってる時のあのアレンジの音源 後から聞いた時にはい。 ここの部分は頂いたなってのはありますよね。 ああ。うん。 やっぱ持ちつ持たれずというか、 そういう風にして曲って上がっていきますよね。 そう。それがね、なんかね、パーソナリティって感じがするんですよ。 このプレイヤーだったからこれがこのフレーズが入ったっていう はいはいはいはいはい。 今打ち込みでやると例えばキーボードやった時にコードコードが例えばアーマイナーだとしたら はい。 アーマイナー全音符でそのまま植えちゃうじゃないですか。ま、バッキング。 があれば別ですけど、え、 でも当時としてはそのプレイヤーによってジャーンって引いた後にトロロンって入れるそのトロロンの音の何を選ぶ うん。うん。うん。うん。 キャラクターなのかっていうのが そうか。 アーティストによ、あの、ミュージシャンによって違うっていうのはありますから。 何気にね、ギターもここで引くのかここで引くのか響き違いますからね。 あ、違う、違う。うん。ローコードで引くのかね。ハコデ。 はい。はい。 ということはこのレ人サタデイはミュージシャンたちに愛された 1 局でもあったということですかね。ま、クロート好みですよ。ク好みで今なってこの曲がれてるとかって言われて確かにね。 雨の日の状況として多分ね、僕の中では、ま、竜子さんが死なんですけど はい。 渋谷の公園通りのね、パルコができてちょっとした。 あ、そうですね。 そういうあの社会環境だったんです。 はい。はい。はい。 で、その町の空気っていうか、そこにちょうどね、ブールミッシュっていう 2階にカフェがあったんだけど、パルコの 2階、パルコの2 階、この美味しいケーキを食べさせる。そこで 結構龍りさんのありと打ち合わせはしたんですけど、 そこがガラスバりでね、ちょっと交差点が あの交差点がはいはいはい。今でもありますよね。ま、本当にその内容の死みたいな感じ。 猫は通ってたかどうか分かりませんけど。 いや、そうなんですよ。うん。 先生の曲に限らずなんですけど、僕はこの 70 年代の曲を愛してまない理由の1つに その時代への憧れってのがあってね、で、タイムマシーンはないもんですからないじゃないですか。でも曲を聞くとね、なんか匂いがするんですよ。なんかまるでそこに立ち合ったような うん。うん。 だから、あ、そういった意味でちょっと時代のね、そのモニュメントみたいな意味合いもあるのかもしれませんね。そのリアリティがあるという。 ま、火用局じゃないですけど、でもこのなんかシャレっていうのはその渋谷のうん、 パルクあたりの空気感っていうのは当時の色合はあるかもしれない。雨の匂いと はいはいはい。うん。 で、あの、余談になりますけど、これあの今回の自分のベストアルバムで はい。再録したんですよ。お、 そうですか。 でもアレンジのベースはまるっきりこの雰気を取って はい。はい。はい。え、 あ、その方がいいですよ。オリジナルを尊重するっていうね。 そうそう。 ああ、ちょ、再録するぐらいやはりお気に入り 声だけは本当に年を重ねた自分の声ですけど。 ああ、でもそれもつも僕ライブで聞かせていただいてますけど、今の先生の声の方がむしろ合ってるかもしんない。 ああ、あの、軽く歌は、軽くしか歌えないってのはあるかもしれないけど。 じゃあ、これからもずっと共に生きている 1曲ですね。はい。そうですね。 はい。というわけで、え、早先生のマスターピースはレイビーサタであとコーヒーブレイク。こちらを深掘りたしました。 [音楽] はい、続きましてですね、僕がお勧め する林鉄作品を紹介するコナーでござい ます。今回、え、ご紹介しますのはこの1 曲です。じゃん [音楽] 。はい。 伊藤ゆさんの強。 伊藤ゆかりさん好きだもんね。 そうですね。あ、ただですね、決して僕はこれはゆかりさんだからって選んだわけじゃなくて、楽曲として見た時に このメロディは 素晴らしいです。あ、本当?はい。 自分らしくはないよね。 あの、痛いとこつきますね。実は実はそうなんですよ。 その、ま、林先生らしくないと言っちゃうとそれも違うんですけど、何個か多分作曲かどの作曲かにも自分の引き出しのジャンルタイプみたいなってお持ちだと思うんですけど、その中で言うとこの強がりは僕はジャンルはセプテンバーと同じ棚に入ってると僕は思うんですよ。 ああ、なるほど。 うん。ざっくりですよ。うん。 で、そのな、何て言うんでしょう?メジャーキーで明るめのメロディ であ、なるほど。はいはいはい。 で、すごくこう曲の持つ雰囲気が温かくて柔らかい。 え、その、それこそシティポップと言われるようなあの切れ味のある楽曲とはまたちょっとね、あの違うタイプで なんかね、すごく自分の中で あのは林さんのお なんて言うんでしょう?こう長くお付き合いしてる中で買いまみる性格の部分みたいな温かさ、人間としての温かさみたいなのを 感じれる一局だなという意味でうん。うん。うん。 好きなんですよ。タイトルは強がり あのやタイトルは強ね強がってますけどもね。はい。 これは多分ね、あのなん、なん、何かのサウンドに影響されたとかっていう言い方ではなくて僕自身があのずっと はい。 小さい頃から法学と楽を聞いてきてるでしょ。 はい。 だからどれっていうよりは自分の中に内在する ああ書き方はあはあは だからさっきセプテンバーと同じようなって言ったんだけど はい モデルがあってやろうとしてたわけではない メロディのただしうん あのこれを指示したのは当時のテレビ局の大プロデューサーだったんだけど えっとレスポールっぽいものを書いてくれて いリストのねはいは レスポールはあの奥さんがこう歌って あのハーモニーを重ねた曲を ねしてますけどそういうような色合のものを欲しい で彼女でやりたいっていうことだったんですよ。 あははあはでもなかなか難しい注文してきますね。その方もね。 そう。 でも逆に言うとそのセプテンバーが書いた時の宮田茂刺激さんそうだけどこういう曲を書いてくれとかあのテーマこういうのでやってくれっていうのは プロデューサーとしての指示ってものちゃんとあの持ってて その中で あの作曲家から引き出すっていうねうん はいはいはいはい そういうことだと思うんですよねって で変曲が前田のりさんなんですよね そうですから逆に言うとあのまジャズのエッセンスっていうか そのレスポール がやったものだったら多分前田先生だったらあのうん 十分聞いてきたんではないかっていうことで多分前田さんに頼んであるまっていう番組のね 伊藤さんとのあのゆかさんとの付き合いっていうのもあったと思うんですけどね。 そうです。近年ゆかりさんコンサートで結構歌ってるんですよ。 そうですね。忘れてた部分もあったみたいだけど 番組来てもらって一緒にね。 そうですよね。うん。 なんかこう伊藤ゆかりさんって僕はすごく不安えになんですけど、どうしてもあ、小指の思い出の人でしょって言われがちなんだけども うん。うん。 ま、あの歌はあの歌でいいんですよ。でもね、それこそゆかさんってもっとポップス色 そうそうのある方なので本来は 海王局じゃなくて もう早先生との相性ばちりだと思うんですよ。 うん。 いや、僕たちは本当にあのね、そのお会いした時に はい。 あの、自分が持ってたレコードにサインしてもらいましたけど、 そしたらレコードのジャケットに 林先生って書かれたから、だ、 僕がファンとして持ってたレコードに先生って書かれたのはなんかな感じしましたけど。 先生と言わないでみたいな。 そう、そう、そう、そう。そうですよね。ま、林先生と伊さんというはなんと言ってもミステアルバム。 そうですね。 トータルプロデュースをされたということで、あのアルバムの話も少し伺いたいんですけどうん。 作曲作品は数極ありますけどもう 全局書かれなかったわけです。 あれはね、やっぱりアメリカの影響でアメリカのプロデューサーシステムっていうものにすごく憧れてて はい。 あの本当に名プロデューサーって自分がそのアーティストに対して何をやったらいいのか特にクイシジョンズから始まってね デビッドホスターだとかそのベビーフェイスとかってい優秀なプロデューサーいるじゃない。 はい。 その人たちが例えばそのエルクラフトをベースフェイスがプロデュースした時に はい。自分で曲があんないい曲書く人が うん。あのチェンザワールドを 他のところから持ってきてこの記憶歌いませんかって話をしてそれでシングルとして出してヒットさせるっていうね。 うん。それは勇気ですよね。言ってみたらね。 うん。 だからこのアーテストに今必要なものは何かっていうことを 自分が1 作曲かっていう立場もあるだろうけど そうではなかなくてトータルとして考えられる俯瞰して考えられるっていうところがやっぱりプロデューサーとして優秀かどうか はいはいはいはいだと思うんだよね 日本ではなかなかいないタイプですよね。 そうですね。うん。 で、それ考えたに僕もそういうスタンスに憧れてて、当然ゆさんだから自分で一ぱ曲書きたいって気持ちもあったんだけど、 でも自分がプロデュースするんだったら当時まだ本当にあのお付き合いをし始めた 竹内丸さんだとかエポだとか、 え、鎌さんだとかそういう方たちに作品書いてもらえないかなっていうことをお願いしてうん。 あの、今だったらそんなことできないでしょっていうようなね、そういうことが うん。うん。ま、当時若くて はい。はい。はい。でも若い時によくそんだけ冷静だったなというのが今の話を聞いて逆に思いますけどね。 そうですね。国さんのアルバムなんかもそうですよね。やっぱりあ、 だからもうやっぱりね、林さんってとことんその音楽的思考はもうアメリカ式ですよね。 うん。うん。あ、そうですね。 火会じゃないですよね。考え方がね。 そう。 でもね、京先生もすさんもそういうところがあって、 共栄先生は自分であんな素晴らしいアレンジをするのに アレンジャーを確 この人にやりたい、この人にやりたいって若手はみんな教兵先生のところで 1度はあのこう うん。 自分の作品を委ねるってとこあるじゃないですか。 はい。ありますね。 で、僕も質問されたことあるんだけど自分が最終的にこの自分の書いたメロディが 完成系としてこれでいいって素晴らしい作品になると思ったら うん。 自分じゃなくてもその人と頼みたいってのはあるかもしれない。 まあ、1 番大事なのはその曲にとって1 番いい洋服を着せることですからね。 あ、そうです。そうです。そのこれはもう本当に的確な うん。言葉かもしれない。 あ、だ、これが僕の、ま、あの、林メロディの 1局の移植です。 移植もしれないけど、でも早さんの本当の意味での本質を感じるですよ、僕としてはね。で、もう 1曲あるんですけど。はい。いいですか? うん。もう1 曲はですね、これマニアックです。ちょっとジャケットがマニアックすぎてジャケット用意できなかったんですけども。 An田イさんって覚えてます。 バグでかかったやつ。 はい。兄ニたムイさんのあれ、B 面かな?なんとなく幸せという歌がありまして。 [音楽] 半濁田君にレコード上げたんじゃなかった。 そう。1度頂いたんですけど、 そう、使うからちょっと返してって言って僕もあ、取られたと思った。変な気分だ。 いや、僕は持ってなかった忘れて。 いや、でも貴重版でうん。 あの、え、あれは80 年代に入ってからの作品で83 年ぐらいかな。83年ぐらいかな。 で、ま、もちろんその林さんのライブラリーで代表作に入る扱いを受けてないんだけど、あれもね、メロディに僕はそのはさんの本質を感じる。 なんかこう、 こういうヒットさしてくれ。例えば誰々風にやってくれみたいなリクエストを受けたんではなくて、 えっと、なんとなく書いたって。 うん。なんと、なんとなく字で書いたって書いたという。 そうだ。確かに。 うん。だ、すごく僕そういうのは多分好きなのかな。 自然。それは分かりますね。 もさんとよく話してるのは はい。 共演先生の中でもうヒット狙いでもう仕掛け仕掛けで書いてる曲と そうじゃなくてあ、ここに真の すきさんが出てるっていうね。そういうメロディラインってある?あるよね。 うん。ありますよね。うん。 それヒットメーカーとされてしまった人の事連までどうしても期待に答えなきゃいけないっていうのが優先してしまうけども B面とかそういうとこでちょっとね、 そうそう。え、ペンを取れるという瞬間。 それは深い読みですね。確かに。うん。うん。 [音楽] ですから、ま、あの、ちょっとですね、その兄田さんのなんとなく幸せ、これ隠れた名曲なんで、まだお聞きになってない方は是非調べて聞いてください。 [音楽]
CSミュージック・エア、ミュージック・グラフィティTVで2025年4月から放送開始の
昭和の名曲に深く迫る新番組「名曲探訪」!
昭和の時代を彩った名曲の数々。
後世に残る名曲を残した音楽家達の
この1曲、この1枚”マスターピース”について
昭和歌謡に造詣の深い俳優・音楽家の「半田健人」が、毎回ゲストを交えて
楽曲の魅力や、名曲誕生秘話に迫るトーク番組です。
記念すべき第1回目のゲストは、
松原みきの「真夜中のドア~ stay with me」の世界的リバイバルヒットで注目を集める
シティポップを代表する作曲家「林哲司」。
80年代には、竹内まりや「SEPTEMBER」、上田正樹「悲しい色やね」、
杏里「悲しみがとまらない」、稲垣潤一「1ダースの言い訳」、
杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語」、菊池桃子「Say Yes!」、中森明菜「北ウイング」
などなど、数えきれないほどのヒット曲を世に送り出した
日本を代表するメロディメーカー、林哲司のマスターピースに迫ります。
※権利の都合上、配信では音源を差し替えてお送りしています。
ミュージック・エア公式X
https://x.com/TV_MUSICAIR
ミュージック・エア視聴方法はこちらから
ミュージック・グラフィティTVの視聴方法はこちらから
https://www.graffititv.jp/pages/5106728/page_202107202313
#半田健人 #林哲司 #シティポップ #松原みき #真夜中のドア
5 Comments
え、もしかして田中一郎さん繋がりで??
これは単なる想像ですが、60年代からビートルズやディランのような自己完結型の音楽形態が幅を利かせて押し出されてしまったブリルビルディング系の職業作曲家やスタジオミュージシャンといった、キャッチーなCM曲からムーディーな劇伴までこなせる人々がクロスオーバーを経てA.O.R.やブラコンを創出したのでは?と思いました。
日本でも70年代は洋楽に鋭いアンテナを張っていたGS系のミュージシャンが制作側に回り、シティポップの土壌が生まれていったのではないでしょうか。
そして80年代のシティポップ全盛期に、ジャズやラテンのエッセンスをミクスチャーした50~60年代の歌謡曲が再発見された…なんて事はないかなぁ?
貴重なお話をありがとうございます。
いつ聴いても新鮮な気持ちになれる大好きな曲です。
半田さんは、もちろん現代の曲もお聴きかと思います。
番組の主旨とはズレるのですが、
半田さんが現代のポップスをどのようにお考えかも、いつかお聞きしたいです。
ラジオ番組「昭和音楽堂」の名コンビが、映像で見られることに感激です。