【バスケ 渡邊雄太】アメリカ行きを決めたのは/夜明けのコール

能力マクスさのプレイをやってたら、ま、アメリカでは絶対にあの通用せなかったと思うので、ま、自分もやってきたくってあの正しかったなっていうのがいましたね。 [音楽] プロバスケットボール選手の渡辺ゆです。 [音楽] もう記憶は全然ないんですけど、横浜生まれてその後徳島で 2 年ぐらいですかね、過ごして、で、香川に僕が 4 歳ぐらいの時に引っ越してきたんで、ま、記憶はもう香川の時からしかないです。はい。 うん。うん。うん。うん。えっと、醤油1 からな6歳とかですかね。はい。 そうでしたね。他のスポーツはま、何も考えなかったですね。 もバスケに自然にこう入っていったって 感じですね。そうっすね。あの、親の影響 がもちろん大きくて、で、あの、ま、当時 その香川に引っ越してから、あの、母親が その地域のバスケットボール、その、 なんて言うんですか、ミニ、ミニ バスケットボールクラブのあの、コーチを し出したんで、ま、よく練習ついていって 見学してたんですけど、ま、小学校から しか入れなかったんで、そこのあのクラブ は小学校上がったタイミングで自分も入り ました。まあでも練習見に行ってもなんか 一緒にこう他に来てるなんか同じぐらいの あの子たちというかとなんか炭の方で なんか鬼ごっこしたりとかして多なんか 当時はそんなに別にバスケ始まり始める まではなんかこうバスケの夢中になってだ とかいう感じでは多分なかったとは思い ます。はい 。 いや、もう初めてからはもう本当にバスケ人一筋って感じで、 もう本当ずっとそのバスケ以外の競技やりたいと思ったこともないですし、おバスケ 1 筋でしたね。うん。なんだろうな。もとにかくもう中でその練習毎日行くのが楽しくてっていう感じだったのは覚えてるんで、ま、何がって言われるとちょっとはい。ちょっとわかんないすね。 もう本当にもちろん試合にも出るわけでも ないですし、ただなんか あのなんて言うんですか?ま、コートが2 面使えて片面上級生が練習して片面はあの 火級性というかあのちょっとお遊びで バスケやるっていう感じがずっとあの続い てたんですけどなんかそこでこうみんなと なんかなんて言うんですかね 楽しくまもも遊びに近かったですけどね、 当時はそれをやってるだけで本当楽しかっ たっていうのは覚えてます。ま、その 大きい方ではあったんすけど、そんなその ズば抜きと大きいとかではなかったですし 、ま、僕より大きい子も何人かいたりとか 確かしてたと思います 。NB選手になりたいって思ったのは多分 小児ぐらいの 時だったんですけど、ま、その多分バスケ やってる人は誰もが1度は思うことなんで 僕も本当に当時は本当 そのみんないる中の1人っていう感じだっ たと思います。でも神ブライアントがあの 本当に僕は大好きだったんでレイカーズと 神尾のも大ファンでした。ま、もちろん こんな選手になりたいっていつも神尾の 試合見ながら思っては、あの、いました けど、ま、言っても、ま、当時小学校1年 生とか2年生とか本当まだあの、そんなお 遊びでバスケットしかしたことないあの 子供だったんで、なんか、ま、そこまで別 に深くなんかこれから先もバけやっていく のかとか別に深く考えてたとかじゃなくて 、もう単純にもこんな人にななりたいって いう、それぐらいの気持ちでした。 [音楽] ま、本当にもう本格的にちゃんとそういう なんか練習したのは、ま、僕は試合出る ようになってからなんで4年生とか5年生 とかあのぐらいだったんですけど、ま、 基本的にあの週練習は当時4回で体感が 使える日がで、土日も、ま、午前練習とか だったんで、ま、お昼、あの、お昼ご飯と か食べて、あの、ま 食べ終わった後にいつもあのお父さんと 録画してたの指を見るっていうのが日家 だったんですけど、あの、ま、見終わった 後にお前もここでプレイしたいんだろ。 じゃあ練習行くぞって言ってそこからあの 、ま、当時リングがなかったんで近くの小 学校のグラウンドをとにかく走ったりとか そこでドリブル練習したりとかしてました ね。もうそうですね。もうそう、その小 学校、高学年ぐらいからはい。 もう本当にわけ付けな生活でした。 うん。 いやいや、もちろん羨ましかったですし、その、ま、まだそんな別に子供なんでやっぱ自分からこうまだその努力の大切さみたいなのもそんなに正直分からない その年代でしたし、あの、やっぱバスケのなんて言うんですかね、能力的には、ま、当時からその同年代のこと比べるとやっぱ、ま、あの、上にいたんで、その、ま、正直なんでこんなにしなきゃいけない ないのとはあの思った日はありましたね。 うん。 だって周りはそれはなんかゲームして遊ん だりとかなんかわかんないですけど出かけ たりとかあのしてる中でそのそういうのを こうやらずにもうバスケも僕の場合は バスケにあの専念してるわけですからその 中学校の頃の自分がそれをやっぱこう自発 的にやるっていうのはやっぱなかなかそこ まで別に僕も大人じゃなかったと思います し、そんなプロの世界がどれだけ厳しいか なんてもう全く分からないんで、ま、そこ は本当に親が僕をそういう努力できる体に 導いてくれたっていうのはすごい本当感謝 してますね 。中学校の時は、あの、ま、実家でずっと いて、ま、やっぱ親が、あの、そういう風 に僕をいつも努力する方向に導いてくれて ましたし、高校は3年間両生活でもう とにかく本当に3年間バスケ付けの生活 だったんで、そのもう練習しなきゃいけ ない環境に本当にもう元々いたんで、あの 、もう勝手にやってたんですけど、 アメリカに行ってからは割とこう自分の 時間が増えたというか、ま、大学生にも なりましたしだ。その時に初めてその周り からこう言われるとかじゃなくて、もう 自分からちゃんと行動しなきゃいけない なっていうのをあのこう本気でこう思う ようになりましたね。努力自体は、ま、 多分、ま、中学校の時とかは多分日本の誰 よりも練習は間違いなく、ま、もちろん親 がもうなんなら僕がどんなにあの嫌でも 無理やり引っ張って行ってくれるような お父さんだったんで、ま、もう本当今と なっては本当すごい感謝してますけど。で 、もうそうですね。高校時代も もうぶ授事業終わったらもう本当夜遅く までずっと練習してもう常に体感にい るっていうあのスケジュールだったんで はい。自分から本当こう何かこう スケジュールを自分で組んでちゃんと自分 の時間を取って練習しなきゃいけないと なったのはアメリカ行ってからですね。ま 、そう、ま、プレップ、ま、アメリカに 行ってからがやっぱりその日本ってチーム 練習がやっぱすごいこう長いというか チーム全体でもうやっぱり何時間も時間 取って練習するっていうのに対して アメリカの練習は、ま、1時間半とかで もうスパッと終わってしまうんで、ま、 本当に最初の1週間ぐらいはそういうあの もうみんなと同じようなこう生活して練習 終わったら両帰ってみたいなやってる時に 、あ、俺何しアメリカ来たんだろうと思っ てうまくなるために来たはずなのに自分 より能力の高い選手と同じ生活してたら 絶対うまくなれないと思って、そっからも 練習外でま、とにかく練習するようになっ たんで、大学行った時にはもうすでにはい 。 もう時間空いてる時間は練習するっていう 風な生活はしてましたね。ま、 そもそもあの質に関してはもう自分が決め てやってることなんで、あの、なんて言う んですかね。誰かに言われてやってる練習 ってやっぱどうしても質があの落ちてくる んですけど、ま、もしかしたら中学校の 自分はあのそうだったかもしれないです けど、あのもう大学の時とかは自分が うまくなるために毎晩もう体感にどんだけ 遅くてもあの残ってもうたまに本当に12 時とか過ぎてるような時もありましたけど もうこれだけやるって決めたことをもう 絶対欠かさずにあのやり続けてたんで、質 に関しても、ま、量に関しても、ま、大学 の時はもう自分ないぐらい正直あの、やっ た自信はありますね 。小さい頃から試合の映像をもう試合 終わったらいつもあの家に帰って親と一緒 に見返してここの動きがいいとかまここの 動きがだ、まあEに対してダメが多分1対 9ぐらいではい。もうダメ出しが多かった んですけど当時はま、本当下手くそだった んで 。で、ま、高校のあの時のあの先生、ま、 鹿松先生っていうあの方なんですけど、 あの本当にとにかく頭をあの生徒にこう 使わすというか、あのま、僕ももう高校 時代はもう本当に身長もぐっと伸びて正直 あのそこまで頭使わなくてもあの活躍でき てしまうぐらいのあのまレベルには高校3 年生の時は正直あのなってたりもしたん ですけどそうそういう中でもその今の プレイには何のその意図があるのかとか そういうことをなんかこう毎回毎回こう 問われてというかちゃんと頭が頭を使った 上で選択したプレイなのかそれとも自分の 能力に任せたプレイなのかみたいなのを こういつも指導してくださってたんでだ その時に本当に自分の能力があの他の1人 優れてるからもう頭も使わずにあの能力 マさのプレイをやってたらも もうアメリカでは絶対にあの通用せなかったと思うんで、やっぱもうここの 3 年間がやっぱすごい大きかったかなと思いますね。 うん。 なんかそこはうん、やっぱ目指してる ところが あのやっぱりそこ上にあって でやっぱ自分もあの日本代表の候補に呼ば れてあやっぱもっと高いレベルがあるんだ とかそれこそNBAに行きたいと思ってた んででこ日本代のレベルでこんなに高いん だったらNBAなんて本当どんな世界なん だとかそういうことをなんか常日頃から 思えるようなあの ま、環境に、ま、ありがたいことにさせてもらえてたんで、そういうのも含めて、やっ、ま、自分もやっぱもっとうまくなりたいっていう気持ちから、あの、ま、素直にやっぱ先生の言うことは聞きてたかなっていう風に思いますね。うん。 [音楽] もう 現実的にそういう話し出したのは、あの、 本当そろそろ大学どこ行くか決めなきゃ いけないっていう、もう高校2年生終わり ぐらいの時ですかね。それまでは本当全然 NBA選手になりたいとは言いつつ、 じゃあどのタイミングでアメリカに行くの かとか全く考えてなかったんで、なんか アメリカ行きの話が出出した、出出して からはなんかこうトント拍紙で決まって いったって感じでしたけど、それまでは 全然何もそんな具体的な話はなかったです ね。ま、高校2年生の時の冬の全国大会で 、ま、あの、当時本当にまだまだ無名だっ たんですけど、人生学園もそうですし、僕 自身もが準優勝、あの、することができた んで、そこで本当いろんな人に僕のプレイ をあの、見てもらって、で、あ、こんな 高校生が今日本にいるんだっていうとこを すごいこうみんな、あの、こう、見てくれ たというか、そこで本当いろんな人から もうすぐにアメリカに行った方がいいって いう話をされ出してですね。はい。いや、 当時は本当にもう正直、ま、そういう声今 頂いたって言いましたけど、もう反対の声 の方がもちろん多く てはい。もうやっぱ言っても僕もまだ17 歳とか18歳の高校生なんで、そんなに 反対されたら、あ、自分がやろうとしてる こと間違ってんのかなっていう気持ちには 正直何回もなりましたし、ただあの、ま、 僕のことをこうずっと見てくれてる人と いう、ま、親含めて、ま、当時の恩師だっ たりとか、ま、そういう人たちは、あの、 もう優太の人生だからとにかくもうゆ太が 決めなさいっていうことを、もうとにかく 言い続けてくれたんで、ま、最終的にはも 自分がそのアメリカに行きたいっていう 思いを信じてはい。その決断をしました 。タブさんと、ま、実際お話しさせて いただいたのは、ま、お父さんで、ま、 しかもそれはアメリカに僕がもう行くって 決まった後ではあったんですけど、あの、 ま、でも僕がアメリカに行くって決めて からも正直結構反対は、あの、まだ続いて た中で田さんがもうあの、絶対にあの、 やろうとしてることは間違いてないですっ ていうことをお父さんに言ってくれて、で 、その話をすぐ僕もあの、お父さんから 聞いてっていうはい。感じだったんで、ま 、あの、すごい心強かったですね。 やっぱりあの、そういう反対ばっかりの声 の中であれだけ偉大な人が、ま、自分が やろうとしてること間違ってないんだって いうのはやっぱりこう思わせてくれたんで [音楽] 。いや、不安。めっちゃ不安でしたよ。 もう正直大学はその後行けるかどうか 分からなかったんで、そのままプレップ スクールって呼ばれるとこに最初1年間 とりあえず行ってそこであの、ま、バスケ もあのすごい高いレベルでできるんで、で 、そこにま、大学のあのスカウト人が見に 来て目に止まれば大学に入れるっていう 流れだったんで、ま、そこでもちろん スカウズの目に止まらなかったらもうその 先僕は行くと もなくなるわけですし、ま、本当にもうギャンブルみたいなあのもう家計だったんで一種の、ま、結果的にジョージワシントンっていう本当素晴らしい大学に行けたんで良かったですけど、ま、不安は正直当時めちゃくちゃありましたね。 [音楽] 多分アメリカに行っ て23日経ったぐらいの時に親に多分連絡 して俺やっていけるかもっていうのを なんか言ったらしいんですよね。僕 あんまり覚えてないんですけど 。それがやっぱ僕もやっぱアメリカって いうだけでもう僕なんか全然手の届かない ようなレベルの選手ばっかりなのかなと 思ってたらやっぱ意外と自分の力がこう 通用してたんで、あ、これはもしかしたら アメリカでもやっていけるかもしれないと は思いましたね。そのやっぱり僕の身長で アウトサイドができ るっていうあの選手がもちろんアメリカに はいるんですけどそんなにやっぱ多くなく てやっぱりアメリカでもやっぱ大きい人は インサイド、小さい人がアウトサイドって いうのはやっぱ結構あって、ま、特にそう いう、ま、プレップスクールだって大学の レベルだとで、やっぱ僕のそのプレイ スタイルはやっぱちょっとあの、その言っ てた学校の中でも、ま、ちょっと特殊だっ たというか、やっぱあんまりそういう アメリカにもあのそこまでいない あのこうプレイススタイルなのかなって いうのは当時思ったんではそうそう まそういうのも含めてなんかやっているん じゃないかなっていうのは思いましたね。 うん。多分最初があの親に連絡した時の 手応えっていうのは多分プロになれると いうよりははい。 大学に自分もあの大学からオファーもらえるぐらいの選手にはなれるっていうぐらいのはい。あれだったんで正直大学 1年生2 年生の時はNBA は遠いなっては正直すごい思ってました。 それもちろん、ま、プレップスクールも僕が言ってたとこはいつも本当優勝を争うぐらいの全米で本当レベルの高いところでで、ま、僕の僕もちろん僕のチームメイトに NBA 選手になってましたし、僕が対戦してた選手も何人も NBA 選手になってたりですごいレベル高かったんですけど、やっぱ大学に行ってそれこそやっぱりこう学年とかが上野選手とやるっていうのは全然違う。 はい。あの、レベルの高さだったんで、やっぱ 1年生、2 年生の時はやっぱ結構苦労したっていうのは覚えてますね。 うん。 もう努力するしかもとにかくはい。道はもうなかったというか、あの、そういうのを こう分かった上で僕もこうアメリカにやっぱ飛び込んできてたわけだったんで。 だからある意味そこ まであの大学の時 はあのもう国ならな、ま、もちろん勉強と かが大変で全然別の苦労があったんです けど、そのプロに行けるかどうかみたいな ことに関してはそんなにもう深くも考えて なかったというか、もう自分がちゃんと 努力してちゃんと力をつければあのどっ かしらから見てもらあれだろうし、もう そこに至らなければしょうがないぐらいで 、もう結構割り切ってはいたような気がし ますね 。そこが本当に 唯一当時の自分に何かもし言うとしたら もっと勉強しとけっていう英語の勉強。 もうやっぱそこが相当大変だったんで 。はい。もうほぼ英語力は0でアメリカに 実際行きましたね、最初は。 生活その中でやるしかなかったんで 、もうなんて言うんですかね、生活し ながら覚えていったっていう感じですね。 で、意外とバスケ中は、あの、バスケの 用語って、ま、もちろんバスケットが そもそもアメリカから来てるんで、 バスケットで使う用語はもう英語ばっかり なんで、ま、最初から意外とコートでは 割とコミュニケーションはまだ取れたん ですけど、ま、生活がやっぱりこう全く だったんで、もうチームメイトとにかく もう一緒にいて、もう何言ってるか最初は 全くわかんないですけど、もうそのなんて 言うんですかね、もう体を慣れさというか 耳をやっぱこういう場に慣れさないとって いうのはずっと思ってました。3年ぐらい でやっと こう自分の意見もなんとなく言えるように なって、ま、聞き取れるのに関しては 、ま、1年、2年ぐらいで多分、ま、半分 とかぐらいは聞き取れるようになってたん で、ま、あ、はこう聞き取れた言葉で推測 しながらこういうこと言ってんだろうなっ ていうので、ま、なんとなくあの石疎通は できてたんですけど、やっぱ喋るが ちょっとやっぱ時間かかりましたね、 普通の事業を僕も英語でもちろん受けなきゃいけなかったんで、もう本当 1強化につき1 人家庭教師みたいな感じで、もうタイン落としたらバスケットができなくなるんで、もう本当に勉強面はかなり苦労しました。ま、先行もちろんあのしなきゃいけなかったんで、ま、そこはちょっと日本文学っていうのを はい。先行して はい。 でもさすがにあの、あのなんかジャパニーズムワンノーワンとかそういうちょっと簡単なクラスは日本人が受けれるわけないだろって言われて はい。なんかもうもちろんその英語で日本のこう文学士みたいなの読んでそこからなんかいろんなことを学んでいくみたいな。ま、結構やってると面白かったですね。 [音楽] いや、もうプロと一緒ですよ。もうやっ てることはもうプロが勉強を受けてる みたいなあのもう本当僕はその違いだけだ と正直思ってるんですけども下手したら もう施設に関してはプロよりも全然いい はい。あの施設で毎日練習もしてロッカー ルームも本当にすごいロッカールームが あってでその試合前だと相手の スカウティングみたいなのももうすごい量 のスカウティングがあってみたいな。 もう本当にお金をもらってないプロっていう感じでした。 そう、アリーナも本当すごくて、あの、ま、僕の大学はまだとね、小さいあの大学、あ、そのアリーナだったんですけど、もう大学によってはもう 1万人とか1万5000 人とか入るアリーナで試合するような時もあったんで、もうそこから本当になんかこうプロの準備がもしっかりできてるっていう感じでしたね。 本当にもう一学生であることにはあの 変わりはないんで。ま、だからあの僕ら みたいなそのスポーツしながらあのそう いうやあの学生である人のことをまud アスリトっていう方をあのよくするんです けど、ま、よく言われるのはアスリート スーデントじゃないんだって。スデント アスリートなんだ。もうとにかくそのお前 たちは出伝とか先でアスリートはその後に 来るから勉強はその学生である以上 ちゃんとやれっていうことはおにかく言わ れてたんであの遠征から遅くに帰ってきて も次の日朝事業8時から事業があればま、 8時からの授業ちゃんと出てっていうのを やったりしてたんで結構大変でしたね。 [音楽] 卒業に関しては、あの、僕はもう3年 終わったぐらいである程度タ員がもう取れ てるぐらいには夏も結構あの日本に帰らず に事業を受けたりとかしてサマスクり出 たりもしてたんで4年生の頃はあ、結構 あの事業数も減っ てはい。もう卒業は心配ないぐらいには なってましたね。4年生の時は、あの、 その分時間はより取ることができたんで、 よりバスケットのこと考えれ るっていうのはありました。特に本当に あの、ま、3年生から4年生になる タイミングの時はもう1回も日本に帰れ なかったですし、ま、それまではあの2 週間ぐらいはちょっと日本に帰ってですぐ アメリカに戻ってっていう感じだったん ですけど、もうその年は本当に一切日本に 帰らずにもう勉強とあとは、ま、空いてる 時間をとにかく練習してっていうことを やってたんで、ま、今思うと本当によく あれだけあのやれたなっていうのは正直 思います。 でもなんか当時の自分はなんか そんなこともなんかもう考えてなかった ような気がします。もうとにかくやらな きゃっていう気持ちでもう体をもう とにかく動かしてっていう感じでしたね。 向こうの大学ってすごい厳しいんで、そう いう、ま、プロとの接触とかもちろんもう 禁止されてるんで。で、ま、僕は当時の レベルで言うと多分NBAにあのちょっと 届かないぐらいのレベルにいたんで、もう とにかく卒業した後に、ま、いろんなあの チームから、ま、招待戦のワークアウトが あるんですけど、ま、本当にあのそういう とこを回りながら自分の力をこう示してっ ていう感じになるなっていう風に思って ました 。そうすね。ブリズリーズからオファー もらったのは、ま、サマーリーグっていう あの 、ま、大学上がりの選手だったりとか、ま 、NBAでやってる、ま、若手の選手が あの夏にやる大会なんですけど、ま、そこ であの結構活躍あの僕もできて、で、その 大会が終わった後にグリズから連絡があっ て、あの、契約を是非したいっていう風に 言ってもらえたっていう感じでした、 えっと、僕の場合は、あの、もうとにかく 向こうどのチームでもいいんで興味を持っ てくれないと自分からあの、行けるような レベルではなかったんで、もうとにかく オファーを待つしかないっていうあの状態 だったんですけど。で、それで言うと グリズリーズはその、ま、さっき言った 大学卒業してからのあのワークアウトは グリズから呼ばれてなかったん で正直すごいびっくりしたというか、ま、 でもそれぐらいやっぱサマーリーグでの インパクトがやっぱあったのかなっていう 風にあの思ったん でいや、 まあうーん。今考えるともうやっぱやり たくないですよ。そのああいう本当全員が もうこれがこのチャンスを逃したらもう次 はないっていう気持ちでもう僕含めてその 場にいてでもやっぱりその中で試合に 出れる人出れない人活躍できる人できない 人がいる中であのサマリーグて本当に5 試合ぐらいしかないんでで特に最初の1 試合2試合とかで活躍できないともう次の 試合から出れなくなっちゃうんでもう本当 にもう初戦がとにか もう俺の人生を決めると思ってかなりこう 緊張してたのを覚えてます。予想より早い タイミングで自分が呼ばれたんで、ある 意味そこまで緊張することなくなんか コートに出れたのは覚えてますね。なんか 急あまりにも急すぎてもっともう本当試合 の最初は試合の終盤とかであの出されて そこでなんとか結果を残してその次の試合 でもうちょっと時間もらってでその次の 試合でもうちょっと時間もらってっていう ことを正直考えてたんですけど結構本当に もう序盤の序盤で言うた行けって言われ てなんか心の準備もできないままコートに 入っていったっていう感じだったんである 意味逆になんかそんなに緊張もせずって 感じだったような気がします。 やっぱNBAでやっていくためには僕は やっぱもう3ポイントのディフェンスだと 思ってたんで、もうその2つをもう とにかくあの証明しなきゃいけないって いう状態だったんですけど、ま、初戦で 本当その両方 ともはい、あのある程度の力は見せれたの かなっていう風に思いました。特に意味は ないですけど、優勝まで決めるんで、ま、 1年、1年目の僕のチームは全然優勝 できるような、あの、こう、あれでは なかったんですけど、ま、でも僕は5試合 ともあのそれなりのプレイタイムをもらっ てはい。結構自分の中でもこう、こう、 なんて言うんですかね。あ、自分やれた なっていう感じがありましたね。 [音楽] ま、もうあの、エージェントつけてたんで 、あの、エージェントを通してですけど、 ま、さ、そのサマーリーグが終わって僕 ちょっとしばらく日本でちょっとゆっくり してるあの時期だったんですけど、本当に もう夜中にエージェントから連絡が、ま、 日本の夜中なんで、向こうはアメリカは 全然昼間だったんですけど来てグリズリズ がオファーをしてくれるって言って るっていうもう飛び起きたの覚えてます。 はい。4時とかだったです。朝のはい。 そうですね。もうそっからは興奮してもう寝れなくてそのもう早くこうなんか誰かに伝えたがったんでもう親が早く起きてくんないかなと思いながらもうなんか 2 時間ぐらいずっとそワそうしてたの覚えてますね。 いや、もう大家がその、ま、隣の部屋なん ですけど、こう音がしたんで、あ、起きた なと思って、僕も自分の部屋から出て、で 、親が出て きてきたと同時にグリズリズがおはして くれるって言ったら、もう母親もう 泣き出して喜んでくれて、いや、もうあの 瞬間は本とすごいこういい瞬間でしたね。 やっぱ自分がやってきた努力だったりそう いうのって、あ、ちゃんとこう報われたん だなっていうのを正直あの大会で思ったん で、 そのなんて言うんですかね、サマリーグに 本当出てるメンバーメンバーっていうのは もう本当に名門大学のそこでもう活躍した ような選手がそのそこに出てNBを目指し てるっていう中で、ま、ジョジワシント ンっていう本当にあのそこまでも強くも またその大学でのあのそんなに致名度も なかった選手がそういう中に入って ちゃんと自分のプレイをして結果を残して で米のチームからオファもらってっていう あのところに行けたんであがやってきた ことってあの正しかったんだなっていうの はそん時思いましたね。 [音楽]

トップアスリートの想いやストーリーを届けるスポーツ映像メディア【SHOVEL SPORTS(シャベルスポーツ)】

チャンネル登録&高評価をお願いします
https://www.youtube.com/@SHOVELSPORTS

<映像目次>
00:00 オープニング
01:45 ただ一筋にバスケ
03:01 子どもの頃のヒーロー
04:03 両親が導てくれた「努力できる体」
06:23 努力の量と質
09:36 才能に頼らずに「頭」を使う
11:51 アメリカ行きを決めたのは?
13:51 レジェンド・田臥勇太の後押し
14:41 大学からスカウトがあるまで
15:33 プレップスクールでの予感
18:48 英語力ゼロの崖っぷち大学生活
21:16 カレッジスポーツの選手たち
23:00 バスケに集中した最後の一年
24:58 グリズリーズからのオファー
26:12 生き残りを懸けた極限下のサマーリーグ
28:27 夜明けのコール

<<SHOVEL SPORTS>>
シャベルスポーツは、 「お宝トークを、掘りだそう。」をコンセプトに、様々なスポーツのトップアスリートへのインタビューを通じて、世間のイメージやスポーツニュースの裏側にあるリアルなアスリートの人生哲学や競技への想いを掘りだして記録する、スポーツ映像メディアです。

アスリートのキャリアを通して、彼らが目指してきたことや、視聴者に共有したい知識や技術、社会への提言、そしてすべての人生に通じるモチベーションの源泉など、時代を超えて人の心を動かす物語を、余すところなく伝えます。

そして、彼らが歩んだ人生の「記憶」を貴重な映像の「記録」として、スポーツの未来を担う次世代の若者たちと、スポーツを愛するすべての人に、届けていきます。

【渡邊 雄太 (わたなべ ゆうた)】
2018年にNBAのメンフィス・グリズリーズと契約、日本人として2人目のNBAプレイヤーとなる。その後もトロント・ラプターズ、ブルックリン・ネッツ、フェニックス・サンズ、グリズリーズ(2回目)と、NBAチームでプレイ。
FIBAバスケットボールワールドカップ2023(W杯)では日本代表として情熱溢れるリーダーシップを発揮し、アジア1位となってパリオリンピック出場権を獲得。パリオリンピックでは日本代表チームの共同キャプテンを務めた。
2024年7月、日本人最長となる6シーズンのNBA生活に自ら終止符を打ち、Bリーグでのプレーを決断。日本バスケットボール界の発展と底上げを目指し、コート内外で精力的に活動中。

<渡邊雄太氏 最新著作>
「心 NBAで運命を切り拓いた本当に大切な想い」 https://amzn.asia/d/fFrbPgO

#SHOVELSPORTS #シャベルスポーツ #しゃべるスポーツ #アスリート #スポーツ #インタビュー #渡邊雄太 #バスケットボール #NBA

16 Comments

  1. 静かな語り口で想像力が膨らんであっという間に30分経ってました🏀
    日本とアメリカの道しるべを作って下さりバスケファンとして感謝しております😊
    素敵な動画の提供をありがとうございます!

  2. 日本人で2人目のNBAプレイヤー!!
    最初っから異次元なスターというよりは、努力で夢を叶えて日本中のバスケ選手に夢を与えてくれたスター。

  3. わたなべは最高だな。
    偉大な選手。
    も日本のスポーツ界でもっと評価されてほしい。

  4. 190×177=206
    小学で160
    中学で180 早い人はここでストップ
    高2で196 99.9%ぐらいはストップ

    ここから奇跡の206へ

    バスケで重要な事は高校に入ってからどれだけ身長が伸びるかと言う事

  5. 渡米前に、本人も含めNBAで約6年もプレイできると思った人は誰もいなかったと思う。それぐらい厳しい世界で、純粋な日本人でこれほど体格に恵まれているのも稀だし、プレイスタイルが今のNBAのニーズに合う3&Dタイプとかいろいろな要素がうまく噛み合ったりチャンスが巡ってくる運も勿論あったと思うけど、それをモノにするために足りない部分を不屈の努力で埋めて、NBA選手になるという昔からのとてつもなく大きな夢を叶えることを体現していった渡邊選手を心から尊敬します。

  6. このレベルでバスケを続けてきた上で、誰よりも練習したって言えることが凄いや。

  7. 小学生低学年のころは自分にとってただ無邪気な夢だったとしても、当時から親御さんは明確にNBAを見据えて先導されてたんだなあと感じました。親子でかなえた夢でしたね😭

Write A Comment

Pin