角盈男氏・松坂大輔氏に聞く“ミスタープロ野球”記録と記憶に残る長嶋茂雄さん死去【報道ステーション】(2025年6月3日)
豪です。です。 [音楽] その一方が届けられたのは今朝のことでした。 もう野球がもう心から愛してる方でね、それがね、ファンにも伝わってくるんですよね。やっぱそれがミスターなんですよね。 長嶋さん引退の日ですね。あの日は学校が ですね、月曜日だったんですけど、担任の 先生が午後の授業をやめてくれて家に帰っ て長嶋さんのあの最後の試合を見ろとえ 言ってくれたのを覚えて ます。 長嶋行さんの質疑が今ご自宅へと入って いきます 。最初に訪れたのは60年の友人でもある 王春さんでした。 共に一時代を気づいた長嶋さんにどんな言葉をかけたのでしょうか? 会見でその思いを語りました。 ま、今朝ね、そういう連絡をもらいまして 、 えっていうのを本当に本当の最初の思い でした 。ま、2004年にね、あの、山を得て からずっとね、戦ってきた長嶋さんの姿を 見てるんで 、 とにかく本当に前向きな取り組みをして ですね、これリハビリでも苦しいリハビル もですね 、率戦してやってましたし、それから、ま 、色々なことがあったんですけど、本当 に全て を乗り越えっていう姿勢をね、持ってました。だからあの野球をやってた時もそうでしたけどとにかく絶対族っていうことのない人生だったと思うんですね。 長嶋さんの1 年後に入団した王さん。ジャイアンツの門をくぐった時からその背中は常に大きかったと言います。 1年目入った時に長嶋さんが前の年に ホームと打点を取ってね。え、もうです から入った時からもう長嶋さんももう特別 な存在でした。ジャイアンツの中でもね 。ま、私 も長嶋さんがいてやっと大村が打てるよう になっ て少しずつ長嶋さんとこう比較されるよう にねなってとにかくバットでね感を示す しかありませんでしたから、ま、ホーム ランをとにかく追っかけてだんだん だんだん長嶋さんとね、少しずつ近づい てるなという感じ は自分なりにねてもっと近づきたいっていうかね 思い出を噛しめた上でその偉大さをこう称えました。 長嶋さんの存在があったからこそ ものすごくね、昭和33年からね、ずっと やっぱりあのうん、な、何言うんですかね 、 やっぱり野球の好きな人たちだけの世界 だったでしょ。もう野球にも関心もなかっ た人たちにも そのどうだったのかなって長嶋打ったのか なとかいうようなやっぱりあの時代に入っ てそれが入ったら我々のこともね含めて ものすご大きな輪になったんじゃないかと 思いますね。ええ、やっぱこれもうこれは もう他の人はそういうことはできなかった と思います 。うん。 こうなっちゅうなってみて 本当存在の大きさっていうのをね改めてね 思ってたんですけどそれ以上って いう思いあなたに思い知らされたというか ねあります ねえ監督になってからも長嶋さんの人柄や 圧倒的な熱量に見られた選手たちは 数知れません。その思いが日本の野球会を次の世代につなげてきました。 人生だったからね。の中 の今からも ずっと背中を追っかけていきたいっていう のが 俺の目標なんで常に死ぬまで 俺の先死にたかったぐらいですよ 。悔しいです。です 。自分の体の一部を取られたような思いだ 。本当に残念でならない 。この世界は癖の強い人も多いが、長嶋 さんは本当に純粋な野球人だった 。選手、え、そしてコーチ、え、ま、監督 というその立場でも深く、う 、ま、影響を受け、え、一緒にいられたと いうのは私の中でも、え、大きな3000 と 輝くことであります。ま、あの、え、現実 としてしっかりと、えー、受け止めて、 そしていい形で、え、お送りしたいという 風に思います 。はい。ま、島さんという方は日本の時代 そのものと言っていい存在でしたよね。 はい。え、今日スタジオには、あ、お2人 のおいでいています。え、長嶋さんの1回 目の監督時代の1978年から巨人 の中月当時ですね。中月として活躍をされ て、え、新事をも獲得されました。そして 伝説となっての79年の地獄の伊東 キャンプにも参加をされました。え、 住み尾さんです。よろしくお願いします。 よろしくお願いします。そして あネオリンピックのアジアで共に戦っ た松坂大輔さんです。よろしくお願い いたします。お願いします。 まずすさん、あの、 長嶋監督が亡くなりました。今の思いはどうでしょうか? え、穴がぽっかり空いております。 穴が開いて はい。朝ニュースでポンと入ってきた時にまずはやっぱり信じられない気持ちが 1 番でしたね。ええ、そんなにあの悪い情報は僕とこに入ってなかったので はい。 え、突然ポーンってきて、ま、嘘やろっていうのが正直しですね。 ま、それぐらい大きな存在だったということです。 もうそれはそうですね。はい。 うん。松坂さんはいかがですか? はい。あの、ま、僕もあの、こうニュースであの、目にして、え、やっぱりなかなかこう受け入れられなかったです。すっとこう入ってこなかったですね。 はい。なんだかこう そのあ、いや、もう見なかったことにしよう。聞かなかったことにしようって うん。うん。思いたくなりましたね。 うん。はい。はい。 さんからその高島茂さん時代そのものだっていうね、ま、本当に輝かしい選手時代そして監督時代、え、いろんなその記録記憶に残るものがありました。え、 1958年昭和33 年に巨人軍に入団して1 年目にホームラン打点の2 巻を取ってるんですね。で、17年間の、 え、選手生活の中で主打車6回、ホーム ランを2回、打点を5回、MVPも5回 取っています。え、そして1965年から 73年まで伝説のVQ、V9を達成をして います。そしてすぐ監督になったんですよ ね。引退の翌年から巨人の監督になりまし た。で、第1次監督時代はですね、え、 76年、77年とセリーグの優勝を果たし ていますけれども、その翌年が5位という 風にしたことを受けて、先ほどもちょっと 紹介ありましたけれども、79年秋に若手 選手にハードな練習を貸しました地獄の 伊東キャンプというのが語り継がれてい ます。え、93年からの第1、2次監督 時代には2度の日本一にも輝いています。 さん、まずあのプレイヤーとしての長嶋さんについて伺いたいんですが、ま、ほぼあの同じ年代ということでやっぱりこうテレビなどを通してみる長嶋さん 長嶋選手っていうのは住みさんにどう映ってました? いやいや、もう憧れというか、もう雲の上の存在ですよね。 うん。え え、ま、僕もあの小学校から野球始めたんですけど、 まあOですから1と3 の取り合いですよね。1と3 の取り合野球もの取り合いですから。 ええ、そういうもう本当にあの憧れだから今の子供たちが 多分大谷選手を見てるのはそんな感じでしょうね。 僕も多分そういう気持ちだったですね。え、 私もそういう野球少年の1 人だったんですけれども、例えばそのユニフォームの着こなし 1 つ取ってもその指先までこうお客さんが見てるっていう意識が締め当たっている点であるとか子供ながらに見て分かりましたよね。 ええ。で、監督あのこの上のボタン外すんですよ。 はい。1つだけ外してんでね。 うん。うん。 ええ、結構外してそういうの僕あるんでよく真ねるんですよ、それは。 あ、はあ。ええ、真似たりするんですね。 もう細かいところにまでいろんなこうこだわりが 監督に詰まってた。そうです。え、うん。 やっぱりその記録もそうだけども記憶に残る選手と言われましたよね。 やっぱりすごいな。やっぱここで打ってほしいって時に監督打たれ中島選手打たれるじゃないですか。やっ あれは最高の憧れですよね。はい。 うん。 さあ、そしてですね、長嶋さんの1 回目のその監督時代、ま、住さん入団されてですね、ま、一軍で活躍をするようになります。 で、このどうなんでしょう?その1978 年から活躍されてますけれども、そのチーム長嶋の元でその活躍し出した頃って、その 長嶋さんのチームってどんないで最初あったのは僕、あの、キャンプに行く前に玉摩川のクラブハウスに呼ばれたんですよ。 はい。ええ。 その時初めて長嶋さんに会ったんですよ。 うん。うん。 それなぜかというと、背番号僕11 で契約したんですよ。はい。はい。 ところが今のDNAえ、太陽からね、 あの、シピンという選手が入ってきて、それが 11番つけてたので11 番をすみ、あの、シピンにやってくれって、それで呼ばれたんですよ。 あ、セカンドシピンですよね。 ええ、それで監督にシピに譲ってやってくれて言ってで、 45しかないと いいじゃないか。信号のカブカブカブで終わりましたからね。 そう言われて。 ええ、ええ、ま、せ、背番号は自分で作るんだぞって言われても、 もう初めて言いましたから、もう ずっと変わってみてはいはいはいてもうそれだけだね。 はい。というだけえ だってあれだけ憧れたっていうか、雲の上の人が目の前にいるわけですから。 なるほど。なるほど。なるほど。 そして、あの、こう、さっきVTR もあったんですけれども、こう79 年、ま、地獄のっていう形葉ですけど、伊藤キャンプがあって、 あの、その時住さんもまさになんて言うんですかね、強化の対象の選手だった。 あの、伊藤キャンプはV 級選手がこういなくなったんですよね。え え。 で、監督はいわゆるレギュラーポジションというものは与えられるもんじゃないと奪い取るもんなんだっていう、それからスタートなんですよ。 うん。うん。で、目的は1番バッター、4 番バッター抑えとかっていう話は後で聞きましたけどね。 1番、4番抑えはい。 ちょうど後楽園が人工芝なると だから下が硬くなるから 叩きつけてそれで高く上がって取って1 塁投げる間に走り抜けると。で、1 番松本さんですから で右だ投げ右打ちの人がスイッチだったんですよ。松 あ、なるほど。4番がで、4 番は中さんですね。 さんとこ日米部屋野球でガーっと上がってこられたので そして押さえが、 ま、たまたま僕なって感じですけどね。 はい。そ、地獄のっていうのはどこが、 ま、1 番よく分かると思うんですけど、午前中投げるだけ、午後走るだけ、メニューたったそれだけ。 はい。午前中投げるだけって2時間とか3 時間だけだからそれとにかくなる。今もうほら 100 級とかそう制限ありますけど僕ら毎日だ 300から400売ってましたね。 うええ。でも故障者0ロですよ。え、 ピッチャーもしも一切なかったですね。 正さん、今の話聞いてどうですか? いや、さすがにあの、こう、ま、多時々あの江川さんからもなんかちょっと内容聞いてたりしたので はい。はい。 で、ま、怪我人がいないっていうの初めて聞いたので はあ。 ま、できるもんなんですね、やっぱり。 うん。ま、怪我したら東京帰れと で、次の年の2 月のキャンプまで直しとこいていうそういう発想でしたね。誰 1人なかったです。 明るくて天身乱漫なイメージのある長嶋さんですけども、その時のキャンプの長嶋監督というのは、ま、あるのやっぱり厳しさ、鬼みたいなところもあったわけです。 いや、もう明るく選手を乗せるっていう感じでしょ。そうですか。 中さんとこうノックやってると はい。 中さんなんかもう平気であ、この中さんバカ野郎とかったで言うし、おいいじゃないかもっといらっしゃいみたいな乗っちゃってるし、 もうそんな会でしたね。 内容はきついんだけど、 長島監督は乗せるのがうまいので。え、 へえ。すごくうまいので。 [笑い] ええ、ピッチャーの練習には監督邪魔でしたね。ここバの平ってところがあって、そこも何周もしなきゃいけないですよ。で、 1 周した後ぐらいに監督ふっと入ってくんですよ。で、 100m ぐらいこうガーっと全力で走るわけで、俺負けるわけかないじゃん。 はい。はい。 で、ついていくんですよ。そしたらあ、頑張ってってすっと逃げれないんで、俺はどうすんねんって話ですよ。その後 ペース見乱出すだけ見出しといてですね。ええ、 ま、当時監督若かったですから。 もう一緒にという感じで なんか今話聞いててもやっぱりこう長嶋さんって偉大なプレイヤーであると同時にとてもこう天然なというかおちゃおちゃめなところいっぱいありますよね。 やっぱり選手をこうやって乗せるのものすごく前監督ですね。やっぱ明るいですから。あ、 はい。あ、いろんな。はい。 ね、松坂さんはその、ま、 高校野球 で日本盛り上がってましたけれども、ちょうどその時にだからその長嶋監督の、え、ジャイアンツはそのメイクドラマ、メイクミラクルで日本中盛り上げてたわけですけど、どう映ってました? はい。 いや、もちろん見てましたし、あの、ま、僕はあの、元気の時はもちろんリアルタイムであの、見れることはなかったですけどうん。 ま、もちろんこう監督としてのあの長嶋さんのイメージが強いんですけど、僕の印象は、 ま、とにかく野球が好きなんだなっていうのと 監督になってもこんなにこう楽しそうにしてる人って 他にないなと思ってあ、うん。 はい。楽しそうにこうグランドにいる姿っていうのがすごく うん。印象残ってますね。 だって選手ともそうだもんね。 はい。 天南時代ホームランってあの時代にスキップした帰る。そうですね。あれ、あれ有名ですもんね。ありまし。 あり、あの時代にはありえない話です。 それをみんなが消賛するとみんなが一緒にこうやってスキップするような感じになるんで。うん。 ほさんもいなと思いますよ。 中島さんの2 回目のその監督時代にピッチングコーチとして、ま、共に戦われましたよね。その、ま、 2 期目となったその長嶋さんってやっぱり坂選手として鍛えられた長嶋さんとまた違った面もあったりしたんですか? 僕らには浩のは優しかったですね。 優しかった。 ええ、負けてて、ま、当時堀内ヘッドかおられて、で、こう負けてミーティングしてると監督は監督室から来て、どうしたんだお前たち暗いじゃないか。ええって言ってバスタ巻いて風呂にすっていかですよ。え、 で、帰って当然負けてるから暗いじゃないですか。はい。 ね。明日、明日、明日行きますよとって、もうそんな感じですっていかれますね。 ええ、 誰、誰も嫌いになれない人ですね。うん。 うん。 だから特に落ち込んでる時にこう選手とかコーチをこう盛り上げるっていうのはやっぱすごい うまかったっていうかはい。そういう人でした。優しい人でしたね。はい。 松坂さん。はい。 え、松坂さんはその日本代表監督である長嶋監督の元で、え、当てネオリンピックの アジア予選2003 年の戦いを戦いましたよね。 はい。 長嶋監督その時どういう風にご覧になってました? あの、なんかこう1対1 であの話てのあまりなかったと思うんですけど、あのやはりうん。 選手が、え、かにその自分の能力をあの発揮できるか、あの、そういう状況をあの、作ろうとそうこう努力する姿っていうんですかね。そのイメージがすごく強いですね。 うん。 それは多分普段のあのジャイアンツで監督された時もあの日本代表の監督された時も、ま、変わらなかったのかなと 思いますし、ま、僕らも回ってね、オリンピックで、ま、同を [音楽] はい。はい。 あの、ま、獲得できたんですけど、ま、その後にうん。 え、ま、オフィシャルではないですけど、あの、報告会みたいなのも あって、ま、そこであの、よく投げてくれたねって、 あの、言ってくれたのは今でも覚えていますね。 うん。 あの、長嶋さんが倒れた後のアテネの本戦だったわけですけども、ベンチにはその手書きの 3の文字があった、 それを当然ご覧になりましたよね。 はい。はい。りました。 あの、力になりましたし、あの、ま、ユニフォーム来てグランドには立てなかったんですけど、あの、日本からその長嶋さんなにそのみんなが力を発揮できるように、あの、外からもサポートをしてくれていて、あの、それはすごくあの、感謝していますね。はい。 [音楽] うん。 あの、病に倒れられた後も、ま、VTR にあったように本当に日本の野球のためにて貢献し続ける、もうずっと貢献し続ける姿っていうのはこう松坂さん、現役時代は どうご覧になってました?はい。 あの、ま、その監督を辞められてからも、あの、やはりこう、え、小さいこう子供たちのためにこう指導したり、え、常にこう日本のプレ野球の、え、未来のことも、え、考えてらっしゃる姿を見て、あの、僕もその現役の時はそこまで意識をしないですけど、あの、引退しからは、あの、やっぱりこう中島さんのような、あの、姿っていうのを意識していきたいなと思いますね。 [音楽] うん。 あの、非常にざっくりとした質問で申し訳ないんですけども、長嶋茂さんっていう方はの野球会にとってあるは我々日本人にとってどんな存在だったのか松坂さんからお聞きしましょうか。 うーん、ま、ついこう、あの、先日もあの知り合の方と、ま、それはま、ゴルフしてたんですけど はい。 次、あの、ま、このゴルフの神様とその野球の神様っていう話になって、 野球の神様って誰なんだろうねって。 よくあの、ま、打撃の上さ、鏡上さんの名前は出るんですけど、やっぱりその野球会っていう国につとは やっぱりその長島さんなんじゃないかなっていう話をしたのがちょっと数日前の話だったんで。 あ、 だから、ま、ちょっとその話をした直後で、ま、このニュースが、ま、飛び込んできたのですごいショックではあったんですけど、ま、やっぱり僕らとってその、ま、野球会にとってはやっぱり神様のようなはい。存在だったと思います。 すさんはあの現役時代そしてコチとしても長嶋長嶋さんと長い時間を過ごされましたよね。 すさんにとってあるいはこの日本私たちにとって長嶋さんってどういう存在だったでしょうか? いやもう今松坂君が言じゃないですかね。ええ。 ただそういう人を僕らあの一緒にユニオンを切れて で、ま、監督なんですけど僕らあの伊東会メンバーは大体みんな親父というで、 自国の伊東キャップはい。 こういう人を親父に持てて最高の幸せだと思いますね。はい。 今日少しゲストとして語っていただいて ポっかり開いた穴は生まりましたか? いや、まだやっぱりね、あの受け入れたくないというのは正直なとこですね。え、ま、ただでも現実はうん。 現実なので、ま、監督にはありがとうございましたと本当心からそう言いたいなと。監督いなかったらサイドハンドの密はいないんではい。 うん。ま、不法を伝えながらもお2 人のゲストもそうですし、そして私たちもね、つい笑顔になってしまう。ま、そんなあの長嶋さんならではのことではないのかなという風に思いました。ここまで住みさん、そして松坂大輔さんにお話をしました。ありがとうございました。 ありがとうございました。
選手としても監督としても、病を得てからはリハビリに取り組む姿にも、国民はこの人に“希望”を見続けてきました。「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さんが3日朝、肺炎のため亡くなりました。89歳でした。
■盟友が追悼「特別な存在」
最初に弔問に訪れたのは、60年来の友人でもある王貞治さん(85)でした。共に一時代を築いた長嶋さんに、どんな言葉をかけたのでしょうか。会見でその想いを語りました。
王貞治さん
「今朝連絡をもらいまして『えっ?』というのが本当の最初の思いでした。2004年に病を得てから闘ってきた長嶋さんの姿を見ているので。とにかく前向きな取り組みをしていて、苦しいリハビリを率先してやっていましたし。色々なことがあったんですけど、全てを乗り越えるという姿勢を持っていました。野球をやっていた時もそうでしたけど、絶対退くということのない人生だったと思うんですね」
長嶋さんの1年後に入団した王さん。ジャイアンツの門をくぐった時から、その背中は常に大きかったといいます。
王貞治さん
「1年目入った時に、長嶋さんが前の年にホームラン王と打点王をとって。入った時から長嶋さんは特別な存在でした。私も長嶋さんがいてやっとホームランが打てるようになって。少しずつ長嶋さんと比較されるようになって。とにかくバットで存在感を示すしかありませんでしたから。ホームランをとにかく追っかけて、だんだん長嶋さんと近付いてるなと、自分なりにね。もっと近づきたいというか」
思い出をかみ締めたうえで、その偉大さをこう称えました。
王貞治さん
「長嶋さんの存在があったからこそ、昭和33年からずっと。(プロ野球は)野球の好きな人たちだけの世界だった。野球に関心がなかった人たちにも『どうだったかな。長嶋打ったかな』そういう時代に入って。我々も含めて大きな輪になった。他の人にはできなかったと思う。こうなってみて存在の大きさを改めて、思っていたんですけど、それ以上に新たに思い知らされた」
■“教え子たち”も惜別の思い
監督になってからも、長嶋さんの人柄や圧倒的な熱量に魅入られた選手たちは数知れません。その思いが日本の野球界を次の世代につなげてきました。
長嶋監督“1年目”に入団 元読売巨人軍 中畑清さん(71)
「人生だったから、俺のなかで。ずっと背中を追っかけていきたいというのが俺の目標なので常に。死ぬまで。俺の方が先に死にたかったくらいです。悔しいです」
“長嶋監督のもと2度のリーグ優勝”張本勲さん(84)
「自分の体の一部を取られたような思い。本当に残念でならない。この世界は癖の強い人も多いが、長嶋さんは本当に純粋な野球人だった」
読売巨人軍 原辰徳前監督(66)
「選手、コーチ、監督という立場でも深く影響を受け、一緒にいられたのは私の中でも大きな燦然(さんぜん)と輝くことであります。現実としてしっかりと受け止めて、いい形でお送りしたい」
■野球を愛し愛された89年の生涯
長嶋さんの第一次監督時代の1978年に巨人に入団し、新人王を獲得。伝説となった79年の“地獄の伊東キャンプ”にも参加した角盈男さん。そしてアテネ五輪アジア予選で共に戦った松坂大輔さんに話を聞きます。
(Q.長嶋監督が亡くなりました。今の思いを聞かせてください)
角盈男さん
「穴がぽっかり空いております。朝、ニュースでぽんと入ってきた時に、まずは信じられない気持ちが一番でしたね。そんなに悪い情報は僕の所に入っていなかったので、突然ポンと来て嘘やろというのが正直な気持ちですね。
(Q.それぐらい大きな存在でしたか)
角盈男さん
「そうですね」
(Q.松坂さんはどうでしたか)
松坂大輔さん
「僕もニュースで目にして、やっぱりなかなか受け入れられなかったですね。すっと入ってこなかったですね。見なかったことにしよう、聞かなかったことにしようって思いたくなりました」
長嶋さんは1958年に巨人軍に入団して、1年目にホームラン・打点の2冠。17年間の選手生活のなかで首位打者6回、ホームラン王2回、打点王5回、MVPを5回取っています。そして1965~1973年まで伝説のV9を達成をしています。
そして、引退の翌年から巨人の監督になりました。第1次監督時代は1976年、1977年とセリーグの優勝を果たしましたが、その翌年が5位と低迷したことを受けて、79年秋に若手選手にハードな練習を課した“地獄の伊東キャンプ”が語り継がれています。1993年からの第2次監督時代には2度の日本一にも輝いています。
(Q.プレイヤーとしての長嶋選手はどう映りましたか)
角盈男さん
「憧れというか、雲の上の存在ですよね。僕は小学校から野球を始めたんですけど、“ON”ですから1と3の取り合いですよね。本当に憧れだから。今の子どもたちが大谷選手を見ている感じでしょうね。僕も多分そういう気持ちでした」
(Q.例えばユニフォームの着こなし一つとっても、その指先までお客さんが見ているという意識は、子どもながらに見て分かりましたよね)
角盈男さん
「監督、上のボタンを外すんですよ。一つだけ外している。そういうのがあるので、よく真似るんですよ」
(Q.記録にも記憶に残る選手と言われました)
角盈男さん
「すごいのは、ここで打ってほしいという時に長嶋選手は打たれるじゃないですか。あれは最高の憧れですよね」
(Q.長嶋さんの1回目の監督時代に、角さんは入団されました。チーム長嶋の下で活躍し始めた頃はどうでしたか)
角盈男さん
「一番最初だったのが、キャンプに行く前に多摩川のクラブハウスに呼ばれたんです。その時、初めて長嶋さんに会ったんですよ。それなぜかというと、背番号僕11で契約したんですよ。ところが今のDeNA、大洋からシピンという選手が入ってきて、それが11番付けてたので、監督に11番をシピンにやってくれって。それで呼ばれたんですよ。それで45しかないと。背番号は自分で作るんだぞと言われて。初めて見ましたから、もうずーっと見て、はいはいはいって。あれだけ憧れた、雲の上の人が目の前にいるわけですから」
(Q.79年“地獄の伊東キャンプ”の時、角さんも強化の対象でしたよね)
角盈男さん
「あの伊藤キャンプはV9選手がいなくなったんですよね。監督はレギュラーポジションというものは与えられるものじゃなく、奪い取るものなんだっていう、それからスタートなんですよ。目的は1番バッター、4番バッター、抑えとかっていう話は後で聞きましたけどね。ちょうど後楽園が人工芝になると。下が硬くなるから、たたきつけて、それで高く上がって捕って1塁に投げる間に走り抜けると。一番は松本さんですから、右投げ右打ちの人が鈴木だったんですよ。4番は中畑さん。中田と日米野球がグッと上がってこられたので。そして抑えがたまたま僕になったという感じですけどね」
(Q.どこが“地獄のキャンプ”でしたか)
角盈男さん
「一番よく分かると思うんですけど、午前中投げるだけ、午後走るだけ、メニューたったそれだけ。午前中投げるだけって2時間とか3時間あるわけだから。それをとにかく。今は100球とか制限がありますけど、僕は毎日300~400やってましたね。でも故障者0ですよ。ピッチャーも野手も一切なかったです」
(Q.松坂さん、今の話を聞いてどうですか)
松坂大輔さん
「江川さんからもちょっと内容を聞いたりしたんですけど、けが人がいないっていうのは初めて聞いたので。できるものなんですね」
角盈男さん
「けがしたら東京帰れと。次の年の2月のキャンプまでに治してこいという発想でしたけど、誰一人いなかったです」
(Q.明るくて天真爛漫なイメージのある長嶋さんですけが、その時のキャンプの長嶋監督というのは、ある種の厳しさ、鬼みたいなところもありましたか)
角盈男さん
「明るく選手を乗せるというか。中畑さんとノックをやっていると、平気で『長嶋のバカヤロー』って言うし、監督は『おーいいじゃないか清。もっといらっしゃい』みたいにノックやってるし。そんな感じでしたね。内容はキツイけど、乗せるのがうまいので、ピッチャーの練習には監督は邪魔でしたね。馬場の平を何周もしなきゃいけないんですよ。1周した後ぐらいに監督がフッと入ってきて、100メートルぐらい全力で走る。負けるわけにいかないので、ついていくんですよ。そしたら『頑張って』ってすっと逃げられる。俺はその後どうすんねんって話で。ペースを乱すだけ乱して。当時、監督も若かったからご一緒にという感じで」
(Q.長嶋さんは偉大なプレーヤーであると同時に、天然というかお茶目なところがありますね)
角盈男さん
「やっぱり選手を乗せるのはものすごくうまい監督ですね。やっぱり明るいですから」
(Q.松坂さんは高校野球で日本を盛り上げてましたが、ちょうどその時に長嶋監督のジャイアンツは『メイクドラマ』『メイクミラクル』で日本中を盛り上げていました。どう映っていましたか)
松坂大輔さん
「もちろん見てました。僕は現役の時をリアルタイムで見れることはなく、監督としての長嶋さんのイメージが強いですけど、僕の印象はとにかく野球が好きなんだなっていうのと、監督になってもこんなに楽しそうにしている人って他にいないなと思って。楽しそうにグラウンドにいる姿っていうのがすごく印象に残ってますね」
角盈男さん
「選手の時もそうだもんね。ホームラン打って、あの時代にスキップして帰るという。あの時代にはあり得ない話。それを皆が称賛する。皆が一緒にスキップするのですごいなと」
(Q.角さんは、長嶋さんの2回目の監督時代にピッチングコーチとして共に戦われました。2期目となった長嶋さんは、角さんが選手として鍛えられた長嶋さんと違った面もありましたか)
角盈男さん
「僕らには優しかったですね。堀内ヘッドが来られて、負けてミーティングしてると、監督が監督室から来て、『どうしたんだお前たち。暗いじゃないか』って言って、バスタオル巻いて風呂に行かれるんですよ。負けてるから暗いじゃないですか。『明日、明日、明日行きますよ』そんな感じでスッと行かれますね」
(Q.誰も嫌いになれない人ですね)
角盈男さん
「特に落ち込んでる時に選手とかコーチを盛り上げるのがすごい上手かったというか、そういう人でした。優しい人でしたね」
■“長嶋JAPAN”五輪への思い
(Q.松坂さんは日本代表監督である長嶋監督のもとで、アテネ五輪のアジア予選、2003年に戦いました。長嶋監督をどう見ていましたか)
松坂大輔さん
「1対1で話したことはあまりなかったと思うんですけど、選手がいかに自分の能力を発揮できるか、そういう状況を作ろうと努力する姿。そのイメージがすごく強いですね。それは多分、普段のジャイアンツで監督されていた時も、日本代表の監督された時も変わらなかったのかなと思います。
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[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
28 Comments
私は監督時代しか知らず、母が信者の為巨人というか長嶋ファンの母の応援をしてましたw
生涯打率の高さと、勝負強さがすごい選手だったのがデータ一目でわかる稀有な選手であり、
血液型診断の時に、B型というと長嶋さんみたいな感じで話してて個人能力が高いのと気まぐれ的な意味のシンボルのような様な方のイメージです。
監督の時しか存じ上げませんが、周りを暗くさせない笑顔が印象的で、後セコムのイメージですかね。
即、番組が複数特集が組まれ、号外が出て、他のチームのファンさえも長嶋さんは別っていうすごい方でした。
ご冥福をお祈りいたします。
後、余談ですが角さんの声真似うまい!
王さん まだお元気ですね 健康には気を付けて 長寿ください。
命日が、背番号と同じ「3」なのね。
巨人軍は終わった
これからは阪神の時代
未だに信じられ無いです( ノД`)…
仕事に行く準備してた時にスマホにヤフーニュースが長嶋茂雄さんの訃報でしたから驚きました( ノД`)…
王さんの言葉はすごく実感がこもってますね。1958年に六大学のスーパースター長嶋さんが、翌1959年にセンバツ優勝投手の王さんが入団。それまでは六大学に人気では劣っていましたが、二人が入団してプロ野球は一気に国民的な娯楽として定着しました。
私の近くのリハビリ病院で治療されていました
不屈の人だと思いました
長嶋さんはハイセイコーやオグリキャップのような存在だった。
認知させた先達はいるやろうけど日本の野球人気を一般に広めた第一人者みたいな人が亡くなるって衝撃やな。
大谷が心の穴を埋めてくれる。前を向くんだ。そして、大谷を見ろ!長嶋の魂は今、米国で野球をしている。
ただ、ただ、御冥福を御祈り致します。子供時代からずっとファンだったから、何とも、言えず、ただ悲しいだけです😢
昨日の試合や巨人陣も全ての球団(昨日から交流戦が始まりました)で試合前に黙とうをしてから試合を行いました!
長嶋さんは、野球以外にもアメフトやゴルフをやっていたそうです!皆さんは、この情報知っていましたか?
始球式では、原元巨人監督と安倍晋三元総理大臣と松井さんがいたこともありましたが、もしかしたら安倍晋三さんにいつか会えたらいいですね!その他木村拓也さんや星野仙一さん等にも会えたらいいですね!
会えるのであれば、イタコで会うしかないですね!
35年位前でしたが、偶然浜名湖SAでお食事中の長嶋さんをお見掛けし、写真をお願いしましたら笑顔で快諾して頂きました。
写真対応だけでなく、「今日は観光?どこに行ってたの?」等々軽く5分以上会話させていただいたのを今でも鮮明に覚えています。
写真対応してくださる著名人は数々居ましたが、あんなにフレンドリーに話していただいた方は後にも先にも長嶋さんだけでしたね。
皆さんが口を揃えて優しい人だと言うのも間違いないなと思います。
あんな対応されちゃったら誰でもファンになっちゃうよね。
背番号と同じ3日になくなったのも凄いですよね😅
王さんが相当ガクッと来てるかもね。良き戦友でありライバルであり、誰よりも長く切磋琢磨してきた仲だからね⋯
王さんにとってのミスターは、兄貴であり、親友であり、ライバルでした。
故に王さんは長嶋さんとは別のやり方で、てっぺんを取ってやるとモチベーションを露わにして活躍されました。
最初の街頭インタビューで、野球「が」愛したと言っていました。
間違いではなく、まさしく野球が愛し、野球を愛し、相思相愛だと思います
最後はしんみりした角さんですが、なんとかスタジオを温めようと、いろんなエピソードを語っていただきました。
おかげでみんな笑顔。
長嶋さんにとっては、弟子のひとりですからね。
父がアンチ巨人でしたが
長嶋さんの打席だけはいつも観ていました
長嶋さんは別格だと❗️
長嶋茂雄は永遠に不滅です
地獄の伊東キャンプの、「長嶋のバカヤロー」は長嶋さんが言わせたんだよね😅気合?を入れさせる為に?。中畑の「絶好調!」もだよね。長嶋さんは言霊を信じてたのかな。
職場の若手(35歳以下)に長嶋さんの訃報に驚いて教えたら、誰ですかそれ?って言われた😅
昭和も遠くなったわ😂
生まれた時から阪神ファンの私。
アンチ読売、ジャイアンツファンも大嫌いでした。
しかし長嶋さんだけは別格でした。
プロ野球が好きな人も、そうでない人も長嶋さんのことは皆んな好きです。
ミスタープロ野球、永遠なれ🙏
先生
粋だけど
自分が観たかったの
ばれた😂
今まで聞いた訃報の中でも1番ショックが大きいです それだけ長嶋さんはスターであり特別な存在でした
テレビ中継の覇権をJリーグに奪われた時に、長嶋さんがプロ野球の人気低迷を危惧し、93年監督に復帰してくれた。TOKYOドームの開幕戦でさっそうとジャンパーを脱いだ瞬間、背番号33目がけフラッシュの雨あられ!かっこよかったあ😊
誰でも知ってる選手
王さんにも言えるが、これだけですげえことなのだ
角さんモノマネ上手😂