倭国大乱は資源の奪い合いが原因だった!?鍵を握る新羅の王子、天之日矛!!

[音楽] 皆さん、こんにちは。今回はツアーで巡っ てきた和島を起点にして和国と雨のひに ついて考察していこうと思います。それで は今回もよろしくお願いします。 ではまずはご酒会と遺跡から改めて基本 情報を見ていきましょう。こちらはやい 時代後期成暦150年から200年頃の 鉄期政策遺跡になります。年代がちょうど 和国対乱の時期に当たりますし、比較的 高知に気づかれていることからもその関連 性が考えられるんですが、興味深いのは ここから朝鮮半島性の斧などが出度して いる点です。つまりこの場所には朝鮮半島 との生きがあったということになります。 近くにある船遺跡も近年注目されていて、 ここからも鉄奇遺跡が見つかっているので 、この辺り一体は和国対期の鉄期政策の 一大拠点だったことが分かるかと思います 。問題なのはこの場所がどの勢力の拠点 だったのかということです。少し調べて みると機内の勢力の前線基地だったという ように機内説につげられていることが多い んですが、これはどう考えても違うんじゃ ないかと思っています。理由は順番に説明 していきますが、まず淡路島は安の道とも 言われるように今でこそ兵庫県に返入され ていますが、江戸時代までは安徳島側に つがる場所でした。ここで少しその徳島の 方に移動してみるとそちらにも同じくやい 時代の鉄キ工防遺跡が見つかっています。 それがか宮の前遺跡です。こちらはごと 遺跡よりもさらに年代が古く紀元前1世紀 頃からの遺跡になるので単純に考えると 淡路島より一足先にこちらで鉄期政策が 始まっていたことになります。敵政策工防 としては、今のところ国内最古級で実に 集落の半分が攻防だったというところから も大規模な鉄期政策拠点として機能してい たことが分かると思います。ここで1つ 重要なのは日本と鉄の関係です。 鉄という言葉があったり、ട്ടുノの 山田の地大児の話があったりするので、 古代の日本の鉄というと島根の出雲地方を イメージされる方が多いかもしれませんが 、日本で性が始まるのは実は5世紀頃と 言われています。ではそれまではどうして いたかと言うと最初の頃は朝鮮半島で採取 された鉄をこちらに運んできたり、 あるいは大陸で作られた鉄を再加して利用 していたと考えられています。だからご酒 ともか宮の前遺跡も性鉄遺跡ではなくて 鉄期政策攻防後なんですね。話を広げると ポイントがぼやけてしまうので、今回は この辺りはあまり深いはしませんが、 スノーと朝鮮半島の話に関連しているよう に感じます。これまでも話してきたように 、おそらくクが滅亡する頃までは朝鮮半島 の南側は縄文や和人など日本人と同族が 住む共通の文化権だったと考えられるので 、お隣の別の国から鉄を運んできたという よりは和国の中の空地方が鉄の一大生産地 だった。そんなイメージをしてみるといい かもしれません。実際に徳島の鴨宮前遺跡 も朝鮮半島との攻撃がすでに紀元前1世紀 頃から行われていたのではないかと考え られています。当然ながらこの当時の長 距離移動や物資の運搬は船が基本です。 これまでいろんな動画で触れてきたので 言うまでもないかもしれませんが、淡路島 も安の痕跡が濃く残る地域なので、ここに 朝鮮半島からの鉄が運ばれているのは何の 問題もなさそうです。 ここで気になるのはかモ宮の前遺跡もごと 遺跡もどちらも同じく賛成世紀頃までの 遺跡ということで和国対乱が終わる タイミングで不思議とその役目を終えて いるという辺りも大きなヒントになりそう です。 そこでやはり考えなければいけないのは 機内との関係だと思うので、次は機内の方 で鉄はどうだったのかを見ていこうと思う んですが、実は機内の方ではやい時代の鉄 はほとんど出動していないんです。 ほとんどといったのは全く0というわけで はないからで、例えば巻き向く遺跡の前 段階とも言われるこちらのカコ鍵遺跡では わずかながら鉄キ類が見つかっています。 鍵遺跡もこのチャンネルでは初登場だと 思うので少し説明しておこうと思います。 カ子鍵遺跡はやい時代全期間の異物が出動 するという珍しい遺跡で大型の建物や周囲 に堀が張り巡らされた看護集落の遺跡です 。成立は2300年前頃とされそこから やい時代が終わるまで600年近く続いた 遺跡と考えられています。前半は東海地方 からの時後半になるとキ々など瀬戸内方面 の土が見つかっているので他地域との交流 も頻繁に行われていたやい時代における 主要地域の1つと考えられています。 せっかくなので古代の奈良についても少し 触れておくと奈良には元々子奈良子と呼ば れる大きな湖が存在していました。縄文 時代になると1万年前頃から少しずつその コ面は低下して6000年前頃には水移は 70くらいになっていたと考えられてい ます。そのため奈良本地の定地部分には 縄文時代の遺跡は存在していません。やい 時代になってもまだ湖は残っていたと考え られていてから子鍵遺跡はその古半に 気づかれた集落だったわけです。そして おそらく湖海を船を使って荷物や人の運搬 も行われていたと考えられます。一部機内 説を否定する方の中にやい時代までには人 は住んでいなかったといった主張も見かけ ますがこのようにやよい時代の前半には すでに奈子犯沿いに生活をする別の集団が いたんですね。ただしこの人たちがどんな グループだったのかについてはしっかり 考える必要があると思います。今回の テーマは鉄なのでそちらに話を戻すとカコ 鍵遺跡からも鉄キ物が見つかっていると 言いましたがごカイト遺跡や鴨宮の前遺跡 大陸の玄関口である北部九州や中国地方 などで見つかるよい時代の鉄物と比べると 機内は圧倒的にその数が少ないんです。 機内の学者の方々は鉄は地中で錆びて年月 と共に消えてなくなってしまうから 見つかりにくいとか他に出動している木星 品から鉄キによる加工が見られると主張し てなんとか機内と鉄をつげようとしてい ますが逆に言うとそうやって無理やりで なければ機内と鉄は繋がらないというのが 現状だと思います。 鍵遺跡では攻防も見つかっていて、その 辺りもやい時代の重要な拠点だったと考え られる根拠の1つなんですが、ただそれは 鉄ではなく製道機なんです。見つかった 鉄期というのもやい時代の週末期3世紀 後半頃のものというところを踏まえて考え てみるとやはり機内ではその他西日本地域 と比べると少し遅れてから鉄が使われ始め たと考えた方が自然な気がします。 もしごと遺跡が通設で言われるように機内 の勢力にとっての前線基地だったならば 淡路市島で作られた鉄がもっと大量に機内 に運ばれているべきではないでしょうか。 そうしたところを踏まえるとごと遺跡は 機内にいた人たちとは別の勢力だった可能 性が高いと思います。そしてその関係性 からどちらかと言えば安のカ宮の前遺跡の 方が同じグループとして繋がっていたよう な気がします。 ということでまとめると機内にはやい時代 早期から何らかの勢力は存在し生活をして いました。ただしその人たちは正動機の人 たちです。後の大和政権につがっていく 集団はやはり勝ち組として敵との関係は 必須だと思うのでこの機内にいたから子鍵 遺跡の人たちは大和勢力とは別グループ だったと考えられます。 そして紀元前1世紀頃安のか宮の前遺跡で 鉄期政策が行われ始めついで1世紀頃から 淡路島のごと遺跡でも鉄期政策が始まり ます。 国対乱で何らかの勢力図に変化があった 結果、鉄技術を持った集団が勝利して連合 政権が各地から集まって政治を行う場所。 今で言うと長町のような場所を作るために 機内へと進出。役目を終えたカモ宮の前 遺跡やごっと遺跡は一旦そこで見せまいを して代わりに建設されたのが奈良の 巻き向く遺跡。 鍵遺跡は巻くの前段階と言われますが、 むしろ僕には別の勢力のように見えます。 だから巻きはカコ鍵遺跡の勢力と住み分け 、むしろ監視できるようなより高台に作ら れたのではないでしょうか。 [音楽] [音楽] それでは今回はもう1つ淡路島と朝鮮半島 といえば鉄もそうなんですが実は雨のひも 無視できない存在なんです。雨の日も 古代子における超重要人物ですが、この チャンネルではここまで触れる機会が ほとんどなかったので、今後の展開に向け てここで雨のひについても見ていこうと 思います。乞食によると雨のひは朝鮮半島 白木の国の王子です。と言っても彼が存在 していたかもしれない時代はまだ白木と いう国が成立していなくて神の時代だった 可能性もあるのでそれは先に注意して おこうと思います。 それはさておき白にはあという沼があり そのほりで1人の女性が昼寝をしていると そこに火の光が虹のように女性の陰部を 照らし女性は見こもって赤い玉を生みまし た。この一連の様子を覗き見していた 癒しい男がいたわけなんですが、男はその 女性から赤玉を欲しいと願いてもらい受け ます。すると今度は男が谷の間で牛を引い ている時に王子である雨のひに遭遇し、雨 のひからお前は牛を殺すつもりなのかと とめられたので、男は許しをこうために その赤玉を雨のひに健上しました。雨の日 は赤玉を持ち帰り、それを床に置くと、玉 は見るみるうちに美しい娘の姿になりまし た。そこで雨のひはその娘と結婚して精裁 にしました。ところがある時、雨のひは 調子に乗って妻をってしまったため、妻は 自分の祖国に帰ると言ってひの元を去り、 小舟に乗って何のに向かいました。これが 現在大阪にある姫神社でその妻というのは 五人となっている明る姫であるとされてい ます。 雨の日は妻の明る姫が逃げたことを知ると 彼女を追いかけて何まで向かおうとします が波屋の潮の流れが邪魔をして入ることが できませんでした。一旦白木に帰ろうとし て田島の国に提白しましたが、なんとそこ で地元の合族田島の娘の先という女性を め取ることになり、2人の間には田島の モロスクという子供を設けました。これが 古期に書かれている雨の日の話です。 この田島のモロスクから繋がっていく子孫 に神宮攻郷がいるということでこの辺り から神宮攻郷は白木の女王だとかその子供 の王人天皇もトライ人で大和政権が朝鮮系 のトライ人による支配に変わったなんて いう説の出所になっているわけなんですが 、これらもあくまで戦後の左向きな学会に よって作られたイメージであって、実際は 全然違う内容の話だと考えています。この 辺りも男系というところをちゃんと整理し て見ていけばなんてことない話なんですが 、雨の日については不ど機の逸話だったり 他にも意外と情報が残されているのでここ については少しずつ深掘りしていこうと 思います。 今回は安島を絡めた考察なので、まずは そこから見ていこうと思いますが、日本 初期によると睡は雨の日に張マ国村と 淡路島佐村を与えようと言っています。 しかし雨のひは自分で見て回りたいと言っ て諸国を巡ってから最終的に田島の国に 至るわけですが、ではこの睡が与えようと した淡路島の侍村というのはどこなん でしょうか?その場所と思われるのが 淡路島の盗南の端市 揺に鎮座する伊豆神社です。雨の日が日本 に来る時に持ってきた進歩のうちいのだけ が忽然と姿を消し、なぜかこの場所に たどり着いたのを地元の住民が祭ったと いう逸話が残っていて、5歳人も雨の日が お祭りされています。そして村の名前も いで村という読み方になっていますが、 元々は伊豆村だったような気がします。 問題はこの侍村が本当に雨のひぼ本人が睡 から頂いた場所だったのかということです 。これは雨の日がいつ頃やってきたのかと いう話にもつがります。日本初期では11 代睡の3年に日本にやってきたことになっ ているので、これを瞬住歴などを使った 現実的な年代で解釈すると和国対が終わっ て少し立ってから来日したことになります 。ですが、これまでも散々やってきたよう に、日本初期はあくまで海外向けに アピールするために作られた書物で、天皇 の年代、特に王人天皇より以前の天皇に ついては即念も年齢も全く当てにならない ものだと思っています。そう言える理由も 日本初期にそのまま残されています。それ は睡 の記述で、睡王はひのひの清彦という人物 に雨のひが持ってきた進方を見てみたいと 告げます。しかしこの清彦は進方のうち なぜか伊豆のトスだけを隠し持って睡に 見せようとしませんでした。それが淡路島 の伊豆神社の辺りに流れついたという 先ほどの話につがるわけです。ここで整理 しなければいけないのは日本初期では睡眠 天皇3年にひが来日しているということに なっているのに同じ睡眠天皇の88年には ひの清彦の台に変わってしまっていると いうところです。そもそも睡眠天皇が即意 してから88年で年齢としても余裕で 100歳を超えてしまっているのでその 時点で色々と無理があるんですよね。この ように日本初期の場合大外向けにアピール するために無理やり天皇の年代を 引き延ばしているので出来事に対しての 年代もほとんど当てにならないというわけ です。今のところですが僕はなんとなく 日本初期は自系列についてはある程度順番 通りにトレースされているものの天皇の 年代だけそこを無視して引き延ばしてそれ に対して無理やり出来事を当てはめている 可能性があると思っています。 だから実際は別の天皇の時の出来事が全く 関係ないところに挿入されてしまってい たり、そんなことが多々あるから日本初期 は混乱するのかもしれませんですが、睡眠 天皇というところを一旦無視して考えて みるといくつか紐解けることがあります。 例えば乞ジでは王人天皇のところで雨の日 の話が出てくるんですが、そこにはその昔 と書かれています。 王人天皇も神宮工合も雨のひの子孫に 当たるので当然といえば当然ですが、もし ひこがやってきたのが睡人天皇の頃だと すると王人天皇から見て昔というには ちょっと近すぎる気がします。そこでまず は単純計算して考えてみようと思います。 神宮攻合は雨の日の7生尊王人天皇は8清 生とされています。 そこでこれを単純に遡ってみると雨のひは 7台高齢天皇のあたりの人物ということに なります。ただこれは天皇が即意している 間の年代なので実際の年齢で考えてみると もう12代ぐらい遡る可能性もあるかも しれません。そうすると面白いことに大体 和国対の時期そして偶然にも淡路島にご作 と遺跡が成立する年代とも一致してくるん です。 [音楽] 和国対が起こった理由はもちろん1つだけ ではないと思いますが、大きな原因の1つ として資源の奪い合いがあったと思います 。政党竹内文女では水電稲策によって たくさんの米が取れる地域と取れない地域 がはっきり分かるようになり、それによっ て米や土地を奪い合うようになったと言わ れています。当然争いになればより強い 武器も必要になってくるので、そこで鉄が 必要になったわけです。あるいは鉄性の脳 器具によって農業の質が向上した。鉄には そんな一面もあったかもしれません。 この時代はまだ半島南部は縄文系の人たち や和人など日本人と同族が生活する同じ 文化権でした。当然同族同士なので言葉も 通じていたと考えれば僕たちが想像する 以上に人やも交流はあったと考えられます 。そんな中で日本にルーツを持つ姫と半島 で生まれ育った王子が恋に落ちます。 ところが2人は中互いをしてしまい、姫は 故郷の日本へ。王子の雨の日も後を追って 日本へやってきます。この2人の恋愛話も ひょっとしたら別の何かを示唆した話なの かもしれません。例えば稲作ですが最近の 説では水電稲作は長候流域で始まったのが 有力とされています。日本に入ってきた ルートもこれまで言われてきたような朝鮮 半島からもたらされたというのは間違いで 長候流域から直接あるいは南方から もたらされたとも言われ始めています。 日本で最古の水電稲作遺跡としては佐賀県 の竹遺跡が紀元前700から800年頃 やい時代早期のものとして有名ですが半島 南部ウルさにある奥遺跡ではそれより さらに古く紀元前1000年頃の水電稲作 遺跡だと主張されています。気になるのは こちらの遺跡では直接稲などの炭素年代 測定が行われたわけではなく、一緒に出て きた土キなどから年代を推定しているよう です。それによってまたどっちが先化問題 が発生しているみたいなんですが、僕は 正直どちらでもいいかなと思っています。 というのもこの場所を見れば明らかですが 、この辺りは弁間後のカূがあった地域な ので思いっきり日本人和人が住んでいた エリアになります。つまり日本人が半島 南部でも水電稲作を始めていたわけなん ですね。 ではこれが雨のひと明る姫の話にどう 繋がっていくのかということなんですが、 それを説明するために一旦青森の方に飛び ます。 東北や北海道は俗縄文時代と言われるよう に西日本がやい時代に突入しても稲作が 行われず縄文時代の延長戦を過ごしていた 遅れた地域そんなイメージを持つ方も多い と思います。しかし実際は青森の砂遺跡で 2300年前に水電稲作が行われていた ことが発見されています。どんなルートで 東北に水電イナ作が入ってきたかについて はもう少し議論が必要かもしれませんが 重要なのはこの場所での水電イナ策は 長続きしなかったという点です。 水電イ策を継続的に行うには技術や種だけ でなくそれに適した気温など環境も必要に なってきます。やい時代の東北ではまだ 当時の技術で安定的に水電イナ策を行える 環境ではなかった。だから東北ではこの後 も俗縄文時代が続いていくんですね。 よく東北地方の縄文はやいの技術や水伝を 受け入れなかった、拒否した。そんな捉え 方をしている方もいるようですが、僕は 今回話したようにちょっと違う見方をして います。 [音楽] これを踏まえて半島に戻りますが、先ほど 紹介した憶遺跡は半島の南端ですよね。 他にも南部の方ではいくつか遺跡がある ものの北部では全く見つかっていないん です。またこれらはカやかやあるいは馬カ クラのあったと思われる地域に集中してい て白の地域にもないんです。あくまで仮説 ではありますが白木地域は鉄などの鉱物 資源に特化した地域で米などの食物は主に 外から手に入れていた。日本では西日本側 が水電稲作に適した環境だったため、それ が一気に広がり、半島の何部でも稲作に 成功したが、それらは日本人和人が主導権 を握っていた。して日本の各国々と白木は お互いに米と鉱物資源を攻撃し合っていた が、鉄の農義具を取り入れた地域では米の 生産が飛躍的に向上し、それによって頻婦 の差が生まれ始める。逆に白ぎの鉱物資源 は祭祀すればするだけ減っていく一方。 こうしたアンバランスさによって次第に 争いが生まれ、和国対乱が始まっていき ます。 白の方から食べ物を求めて移住してくる 集団。当然まだ縄文会の影響もあって、 定地の平野部は少なかったと考えられるの で、稲作を行えるような土地の奪い合いも 始まります。ここでようやく雨のひこと 明る姫の話に戻ります。明る姫が故郷の 日本に戻り、雨のひがそれを追いかけて 日本にやってくるというこの話はひょっと したら和国対乱のきっかけを表していたと したらどうでしょうか。そうすると雨のひ がちょうど和国対の辺りにやってきたこと になるのも辻妻が合ってきますし、 ひょっとしたらごと遺跡の成立も雨のひが 関わっていたのかもしれませんね。そして 自系列を整理していくと睡が淡路島の侍村 を与えようとしたのは雨のひ本人ではなく 暇子の清彦だった可能性もあるのかもしれ ません。任天皇が進歩を見たいと言った時 に清彦はなぜか伊豆の闘争を隠してそれが 淡路島に流れついたという話はこれも 例えばですが睡が田島で勢力を広げ始めて いた雨のひの子孫たちに重要な役割を与え てその一部の人たちを淡路島に移した。 もしくは睡が勢力を広げ始めた彼らの力を そうとしたことに気づいた清彦が一族の 一部をこっそりと淡路島に移住させた。 そんなことも考えられそうです。そして これらの仮説が単なる仮説とも言えない 理由があります。とにもにも雨のひぼの血 を受け継いだ子孫たちは淡路島の方に少し ずつ広がっていきます。淡路島は三国とも 言われるようにその後14代天皇が淡路に 土宅を設置します。三宅というのは頂底に 食料などを健上するための直轄地のこと です。それだけ淡路島は食べ物が豊富に 取れた場所だったということですが三宅と いえば三宅市という種族がいます。後に このを管理するような役割を任されるよう になり、そこから三宅のうじを与えられる 人たちなんですが、実は三宅市の中には雨 のひの光栄を名乗るルーツの人たちがいる んです。日本初期にも田島森は三宅の村ジ の素戦であると書かれていますし、淡路島 には今でも三宅さんが結構多く いらっしゃるみたいです。今も淡路島に いらっしゃる三宅さんたちはひょっとし たら雨の日の子孫なのかもしれません。と いうことで今回はここまでとなりますが いかがだったでしょうか?宮から雨のひを 見ていくとまだまだ興味深い情報が出てき ますし、ここでも最終的に外に出ていった 縄文の痕跡までたどり着けそうな気がし ますが、その辺りもまたおいおいやって いこうと思います。今回見てきた和路島 ですが、南淡路市では松ほ動卓と呼ばれる 動卓や同剣など紀元前3世紀頃のものが 見つかっています。つまり淡路島ではやい 時代の中頃にまず南側の低い場所で正動機 文化が栄え、和国対が起こり始める後期に なると今度は北側の高台に移って鉄期政策 が始まります。 が収まって大和の連合政権が形になり 始めると再び南側に中心が移っていった。 そんな風に見ることもできそうですね。 淡路島を銃弾してみると分かりやすいん ですが、本州の方から入って最初は高い ところを走りながら南に向かうにつれて だんだんと低い平野部に移っていきます。 そしてその南側で今作られているのは名産 の玉ねぎです。でもおそらくやい時代頃 までは縄文会の影響で南側の平野部の多く は湿地体や沼町で天族以外は生活が困難な 場所だったと思います。そんなことを イメージしながら淡路島を巡ってみるのも 面白いかもしれません。それでは今回も 最後までご視聴いただきありがとうござい ました。また次回の動画でお会いし ましょう。

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お城や神社仏閣など現地のフィールドワークも行いますが、基本的には通説は真実にあらず!という前提で考察をして行きます。
その辺りをご理解の上、数ある説の中の一説として気楽にお楽しみください!
応援コメントは励みになるのでドシドシお待ちしています(^^)

16 Comments

  1. 加茂宮ノ前遺跡の発掘時の現地説明会に参加しましたが、その後埋め戻されてしまったのは何とも残念でなりません!当地は度々水害に悩まされていたので 致し方ないのかもしれませんが、もっと遺跡保存にかける予算が徳島県にあれば‥といつも思ってしまいます!

  2. 青銅器と鉄器の文化圏や時代の違い、弥生時代の具体的なイメージが湧いてきて面白いです

  3. 天之日矛については、播磨国風土記に半島からやって来て「土地をよこせ」と言い、葦原醜男(大国主)と諍いになった、という逸話があります。大国主の時代が何時ごろのことなのか、垂仁天皇の時代よりかなり前と思われますが、逸話によって性格も随分違うので「半島からやって来たそれなりの地位の人」を指す名称なのかなとも思います。
    非常にわかりやすい説明で説得力もあり、今後の考察も楽しみにしています。

  4. 以前 淡路島の出石神社に行きました。
    紀伊半島 もすぐ見えて紀淡海峡に面してて砲台跡もありました。
    なので 紀伊半島へ行って淡嶋神社辺りから淡路島を見ましたがやっぱり近いです。
    その先の友ヶ島の辺りにも 砲台跡があるようです。
    淡路島の出石神社は 道もすごいけれど すごい場所にありました。

  5. 纏向遺跡や纏向古墳群を造営したのは阿波勢力だろうと私も思います。ただそれらは3世紀中ごろの出来事ではなく4世紀代中盤以降に入っての事だろうと思われます。
    そしてその際に阿波から奈良に遷都したのかと言えば、恐らくそのの時点では遷都はまだ行われては居なかったのでしょうね。纏向遺跡は出現から約100年程で消滅し、その後は7世紀末の藤原京が造られるまで畿内での大規模都市は造営されていません。これが意味するところは4世紀代に一度奈良盆地に進出し纏向遺跡等を建てたものの、4世紀当時の奈良盆地の住環境が想定していたよりもずっと悪く、当初はこの新天地に期待を込めてやって来ていた大勢の移住者たちが一人また一人と奈良盆地を去っていき、やがては纏向遺跡も閉鎖されその後の奈良盆地は数百年に渡って人口過疎状態に陥り、纏向遺跡のような大規模な都市遺跡が再び作られる事は無かったのだろうと思います(今風に言えば 失敗ニュータウン ってヤツですね)。しかし7世紀代に入ると奈良盆地の住環境が大きく改善を見せ、結果人々が再び奈良盆地に集まり始め人口が急上昇していき藤原京のような大規模都市を再度造営する事が出来るようになったのだろうと思われます。そしてその後の平城京の造営に合わせて阿波から首都機能が正式に移転されたのでしょう。
    私としては奈良時代直前まで阿波に首都で置かれ続けたという阿波原理主義の主張が結局のところ正しいと考えています。

  6. 実は灌漑稲作の伝播を考慮すればなんとなく見えてくるんだよね。
    弥生人が持って来た灌漑稲作は縄文後期に九州から入って来て中国、近畿を経て中部まで行った後、関東は飛ばしていきなり東北に飛んだ後、最後に関東に伝わった。
    この間実に800年もかかっている。
    そして関東に灌漑稲作が伝わるやいなや古墳時代へと突入していく。
    つまり倭大乱の時期はこの灌漑稲作の伝播と同じ時期になる。
    となると九州から上陸した弥生人(天尊族)が徐々に征服、統合しながらその地で灌漑稲作を広めた。という事になる。
    ではなぜ関東を飛ばして東北へ先に向かったのか?それは関東に強力な王朝が存在し弥生人(天尊族)に抵抗していたからと想像出来る。というかそれ以外に思いつかない。
    おそらく宮下文書に出てくる富士王朝であり、ホツマツタエでも天照大神は富士に王朝を敷いたとある通り、関東は特別な地であったのだろうと想像出来る。
    では角度を変えよう。当時の天皇は崇神天皇である。別名、御肇国天皇ハツクニシラススメラミコト(初めて国を統一した天皇)で崇神天皇は各地に四道将軍を送り征服に成功した。
    つまり大きく長い戦争状態にあったという事だ。
    そして日本統一し落ち着いた所で古墳をつくり権力を誇示していったと見れる。
    灌漑稲作のルート伝播時期、魏志倭人伝の記述、記紀の記述がピッタリと合ってくる。
    つまり倭大乱とは灌漑稲作を持ち込んだ弥生人(天尊族)が縄文人と戦い、日本を征服する戦いだったという事になる。

  7. 東夷伝によるところの辰韓は、万里の長城建設を拒んだ移民達が流入。後の玄菟郡や燕州。
    倭人の到達地点も燕州付近。実際は大陸の海岸線全般。
    鉄の調査レポートによると、鉄器制作使われた中古の斧は、燕州との説があるので、燕州から辰韓に持ち込まれ日本に流入
    辻褄がありますね。ただこの燕州も移動するようで、遼西の西側の可能性もあるようです。

  8. 50年ほど前に、歴史の先生が 瀬戸内海から朝鮮半島南部 迄が 一つの文化圏だったと言っていた

  9. 鉄について戦後自虐思想に固まった学会の見解はおかしい。鉄で納税の資料もあり。延々と続く日本刀や弓の矢尻、建築物を加工するノコギリやノミ、和釘などは国内で産出された鉄を使ったのではないのか。遣唐使など遭難を覚悟し、生死を賭けていっているのに、重たい鉄を大量に運んだはずがない。
    明治の頃は近畿地方でも川で砂鉄が簡単に取れたと聞いている。市場では和釘を作って行商する者もいたと聞いている。ただ鉄は国家なりにて大量消費するようになり取り尽くされ輸入に頼るようになった。翡翠や金、石炭も同様。
    学会の机上だけの見解に迷わされないように!

  10. 長江文明の稲作は、日本人が江から遡上し広めたのかなと。
    黄河は下って来た勢力が名付けたのかなと。

  11. なんかそう思えてきた

    新ストーリーの拡散サンキュ⤴︎^_^

    こういった歴史の掘り起こし作業は、とっても貴重な人間活動!敬意!

  12. 当時、原材料は輸入だったとの学説。
    こちらは鉄の瀬戸内海ルート、日本海ルートが興味深いかも。
    但馬は日本海側、豊岡市の出石神社の御祭神も天日槍。

  13. 3世紀から5世紀にかけて大和政権を支えた鍛冶工房森製鉄遺跡が現在の交野市磐船駅周辺で発見されていますよ。

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