【忘れえぬ名優たち】「世界一の名優と呼ばれた男」黒澤映画を最多出演で支えた日本映画の至宝・志村喬のすべて

世界一の名雄と呼ばれた男志村孝志の全て 。 このチャンネルで今まで多くご紹介してき た黒沢作品ですが、その成功には世界映画 市場に3000と輝くリ船と素人の黄金 コンビの魅力が大きく貢献していることは 誰もが認めるところでしょう。しかし黒沢 作品に欠かせない名友として忘れてはなら ない人がもう1人います。それが志村孝志 です。時に主役時に脇役として黒沢作品を 支え続けた彼の存在なくして黒沢映画の 魅力は語れないでしょう。今回の動画では この日本映画が誇る名雄志村孝志の障害を たどりその魅力に迫ってみたいと思います 。また動画の最後には兵庫県朝越市行野町 にある志村孝志記念官の訪問レポートもご 紹介します。それでは早速見ていき ましょう。是非最後までご覧ください。 志村孝志本名島崎商事は日路戦争会戦の 翌年である1905年の3月12日兵庫県 朝軍育野町現在の兵庫県朝市行野町に三菱 市行野工業所の夜勤市をする父崎と母の元 旧人の上から2番目の次男として生まれ ました。祖父は土佐半種山内道の故障から 250国取の室に上がりとば不見の戦いに は隊調として出人した経歴を持つ武士でし た。3歳上の兄には後に横浜ゴムの社長 会長となる吉夫がいます。1911年に育 の人小学校に入学した志村は機関期の 学期待対象で優秀な兄と比べられてり付け の待医者からはこう言われていたと言い ます。お兄ちゃんは優党省をもらってくる が、正司君はやん家の優党省かもしれんね 。しかし成績はよく1917年には兄と 同じ名門神戸一中現在の兵庫県立神戸高等 学校に入学して下宿暮らしをします。なお 神戸一中の5年後輩には俳優の山村総が おり、山村は志村を兄のように慕っていた と言います。大学中に父が宮崎に単転勤と なり、ちょうどその頃の志村は軽い配信順 のため2年間真旧が遅れたことから母前と 共に父の元に合流し、それに伴って宮崎 県立延岡中学校、現在の宮崎県立延岡高等 学校に転校してここでも下宿生活を送り ます。志村はスポーツ好きと文学好きが 同居する少年で校内有数の泳ぎてボト小ぎ の名刺として活躍する一方で文学に憧れて 同人雑誌に加わって死を気候しました。 そしてこの延岡中学3年生の時に最愛の母 が病気で亡くなります。志村は下宿先から 立ちりの道に物ぐいで自転車をこぎました が母の生前には間に合いませんでした。 中学4年終了時に志村は熊本の第5高等 学校現在の熊本大学を受験しますが失敗し 、あと1年間中学に学んで卒業して五校を 最受験する道もありましたが、志村は中学 に戻らず状況して予備行校に通い1923 年に関西大学予に入学します。先行は 英文学でした。なお、後の東方の映画 プロデューサー田中友智行は関西大学の 後輩であり、演劇活動時代から窮地の中で 同じく関大の後輩である脚本家マブカオル と共に地球防衛軍、大阪城物語、妖精 ゴラスなどの多くの映画で同窓トリオが 組まれました。大学在学中にはビリヤード の腕を上げ演劇への関心も生まれました。 そんなのんびりした大学生活を送っていた 志村に思いがけない父からの頼りが 舞い込みます。それは学費送金ができなく なった事情と共にこれからは自分でやって いくようにという内容でした。これによっ て生活は一変し、志村は関西大学の夜間 専門部に展部するとともに大阪市水道局の 臨時職員として勤務します。この勤務先は 父が知人のを頼んで見つけてくれたもの でしたが、この2速のわじは続くことは なく、結局彼が進んだのは在学中に夢を 抱いた進撃の道でした。役者が自分に向い ているのかいないのか当時を振り返って後 に志村はこう言っていたと言います。若く て経験の浅いのが分かるわけないんです から人がそう思ったんです。周りがつまり いいと言ってくれたんですよ。人生の目標 を決めた志村は兄と共に東京で暮らしてい た父に許しをこうために必要な思いで状況 します。芝居をやって生きて行きたいと いう志村に父はさっと表情を変え顔を 怖ばらせたものの反対はしませんでした。 父はこう言いました。好きなことなら仕方 がない。その代わり自分で責任を持て。 これは子供の頃からかなりのワ白坊主で 自分は悪くないと思っている限り決して 謝らない。言い出したら一歩も引かない 志村の性格を父がよく分かっていたから でしょう。志村が所属した神大の演劇研究 会では早稲田大学文学部卒業の進撃人で 劇作家でもあった豊知郎に指導を受けます 。 年には豊を演出家に頼み、自ら幹部として アマチュア劇団、7月座を結成、黒カを 測って準業などをしますが、大赤赤字と なり失敗しました。大阪に戻ってJOBK のラジオ劇に声優として出演して食いつい でいましたが、それだけではどうしても 生活ができなかった志村は1930年に豊 の友人で後に東方撮影所長になり、女優の 美子の夫にもなる森田審議の世話で女優 さ木信子の近代座に入団職業俳優として 舞台に出演します。以降は日本各地を始め 遠く上海 臣大連長春負などにまで準業しました。 しかしこの頃から同じような芝居が続いて 気持ちや生活態度は凄み演技も惰性になっ ている自分に気づいた志村は準業先で黙っ て市から離れ思い立って別府から大阪駅の 船に飛び乗った時残金は2円しかなかった と言います。AK経営の出演でなんとか 食いつぐうち後に森田審議と結婚する女優 の美子の残手伝いを頼まれて参加し、 1932年には天劇の神劇翌年に旗揚げし た新座座の舞台に立ちますが世界的な大 不教の中で芝居いど所ではなくなります。 この頃映画の世界ではちょうどトキーが 主流になり始め、志村は舞台で鍛え上げた 実績を生かせるかもと思い、映画俳優への 天校を決意します。志村は後に当時のこと をこう語っています。トキー時代が来ると ごく早い時期に思いましたよ。サイレント の美難何美女だけで作られる映画は変わる とそうなれば自分も俳優としての道が 開ける。セリフを言うことは舞台でも ラジオでもまあ慣れていましたからね。 こうして1934年に進行キネマ京都 撮影所に入社後の日本映画史場の名志村孝 はサイレント映画の恋愛外1丁目で映画 デビューを果たしました。この作品は現代 風俗悲劇で志村の役は金魚屋の娘の父親約 29歳の若さで苗の娘を持つ不気役を演じ ました。志村は当時をこう振り返ります。 一王舞台でも名前が出されるくらいだった のに最初に与えられた役はほんの早く セリフも芝居もない通行人程度のもの。 これにはちょっとがっかりしました。だ から映画にデビューしたのは何という作品 だったか全く覚えていません。その点では 決して幸運な役者ではありません。この私 という人間は当初はセリフのない役が ほとんどでしたが進仰キネ間入社の翌年の 1935年に伊丹満作監督の第1回トキー 作品ユり出すで初めてセリフのある役を もらい早くも新聞広告に志村孝志の名前が 乗りました。しかし残念ながら本作の フィルムは残されておらずこの映画を今 見ることはできません。勉強家の志村は 早くから優れたオリジナル脚本があり、 監督作品もある痛みの才能に引かれていた ようです。当初本作に志村が起用される 予定はありませんでしたが、志村は声が かかるのを待っていました。しかし撮影が 始まっても声はかかりませんでした。半分 諦めかけていた志村でしたが撮影が始まる とトキーに不慣れな俳優の演技に満足でき ない痛みは在籍俳優全員のテストを1から やり直しました。そしてマイクに向かって 震えながら行ったというセリフで志村が 直ちに採用されることになったのです。 その後知恵プロに移籍した伊に声をかけ られた志村は赤西か田にも出演します。 ここでは現代のサラリーマンのような撲と した侍又ひのシーンを演じました。この 作品は原田会の伊達騒動を素材にした滋賀 の短編の映画家で伊丹監督の脚本は原作に 忠実であり同時に効果のある大胆な膨らま せ方をしています。この作品への出演に ついて志村は我が心の事女でこう語ってい ます。映画とはどういうものか少しは 分かったような気がしたと同時に映画と いうものはなんと面白く奥深いものかが 分かった。この意味で赤西田は私にとって 映画した作品と言える忘れられぬ作品の1 つだ。志村孝志にとって伊丹満作は 真っ暗闇の中に光を展じてくれた人でした 。しかし伊はそれから9年後の1946年 9月配結による長い東生活の末え46歳と いうあまりにも早い市を迎え志村孝志の 戦後の体制を見届けることはできません でした。進行キネマとの契約は出演本数に 関係なく月給60円でした。当時はトキー A時にあり新聞広告にもオールトキーと いうコピーが冷々しく描かれる時代で音楽 だけ入っているサウンド版がまだ新しがれ ていた時代で進行記念マはその中でも特に 遅れていました。そんな時トキー作品制作 に情熱を傾けていた監督の牧野正弘は 志村孝志に注目し進行きネマから志村を 引き抜きました。100円というのも魅力 でしたがそれ以上に平論無事に甘んじて いるより多少の危険は覚悟で新天地へ行く ことに心を惹かれた志村はこの誘いに乗り ます。マのトキーでは監督の牧野正弘や 松田つぐに買いがれ10数本の作品に出演 しています。しかし翌1937年4月初め 同社は経営に行き詰まって解散してしまい ました。その後志村は1ヶ月ほど出職して いましたが日達の辻吉郎監督に招かれ5月 に日達京都に入社します。また同年志村は 8歳年下で芸能界とは全く縁のない神戸の 両亭の娘だったま子と見合いをして結婚し その後はま子夫婦人とお取り夫婦で知られ ました。一括京都では1942年までに 100本近い作品に出演しています。特に 嵐貫獣十郎主演のう門取り物超シリーズで のアバタの軽子牢薬は戦前の出演作品の中 でも志村の当たり役となりました。この頃 志村の人隣をよく表したエピソードが残さ れています。実直で物静かな人物と表さ れることの多い村ですが実際には時に 激しい感情を表すこともありました。 9年の映画開演隊を撮影していた時のこと です。主演は嵐貫獣十郎日活の看板スター だった嵐が撮影に遅刻したりわがまま放題 をしてもスタッフは嵐に苦言を提すること ができないでいました。そんなある日村は 珍しく早い時間に帰宅するや妻ま正ま子に 映画を見てくると言って出て行ってしまい ました。入れ替わりに撮影所のスタッフが やってきて志村さんはとま子に聞きます。 スタッフが言うにはこの日も嵐が遅刻して きましたが誰も注意できないでいると志村 が自分のカを引きむって嵐の顔に投げつけ やめたと言って走り去ったというのです。 監督の説得もあってその後志村は撮影所に 戻り嵐とも和解したと言いますがこれは あのような現場ではいい映画は作れないと 思ってのことだったと言い子供の頃から 頑固で曲がったことの嫌いな性格をよく 表したエピソードと言えるでしょう。この 時期の代表作といえば牧野正弘監督のシネ オペレッタ押し取歌合戦でしょう。ここで は志村は事実上の主役を演じて得意の歌を 披露し、その歌のうまさに驚いた共演者の ビッグ峰に歌手デビューを進められたと 言います。またその他にもいくつかの魅力 的な作品があります。三太郎監督の春珠 一等は片岡知恵が主役の平手を演じる時代 劇ですが、片岡知恵原作、そして志村の3 人の用人の軽妙なやり取りが楽しいです。 また牧野正弘監督で同じく片岡知恵主演の 俗水校も現代の森の石松の舞台監督が タイムスリップして森の石松になって しまうという気想な展開の非常に楽しい 作品です。これらの作品は動画配信 サービスなどで現在も干渉することができ ますので機会があれば是非ご覧ください。 この頃かつて進撃の舞台に立っていたこと から特別高等警察に京都の渦警察署へ連行 されて20日間ほど交流されるという事件 も起きます。正子と俳優仲間の月竜之助が 身本引き受け人となって釈放されますが、 この経験は戦後黒沢明監督の我が青春にい なしに出演した際毒一と呼ばれる特攻を 演じた時に役立ったと言います。また地 高田のバや江戸最後の日では戦前の権の大 スターバンつことバ藤つさブローとも共演 して大きな印象を残しました。 42年志村は日活と大映画合定したのを きっかけに日活を代謝し、公案映画に入社 します。ここでは4本の映画に出演します が、その後は仕事がなく、この頃に進撃を 追いやられた当野のA次郎、小沢A太郎、 戸殿山大治と生活を助け合います。当時 公案映画は他者に俳優を貸し出しており、 志村の御人で東方のプロデューサーの森田 審議から打進されて、志村も東方の作品に 出演しました。1943年には東方に移籍 し、山本カ次郎監督の加藤はぶさ戦闘隊 など数本の繊維工業映画にも出演してい ます。そしていよいよ戦後黒沢明そして リフネ都郎との大活躍が始まります。黒沢 作品には先中の黒沢監督デビュー作姿 三史郎から志村の中の最後の黒沢作品で ある影者まで志村のゾ命中の黒沢の作品全 26のうち実に21作に出演し黒沢作品に は欠かせない存在となりました。ここで 志村孝志が出演した黒沢作品全21作を ざっと振り返ってみましょう。 [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] 逆に生前の黒沢作品で出演していないのは 以下の5作品だけです。 黒沢の最初期の作品では脇役を演じること が多かった志村ですが、1948年の ヨドレ天使で初めて主演に抜擢され、 酔いドレ医者の田役を講演しました。 そしてこの作品で初めて若きリ船俊郎と 共演し、ここから生きると影む者を除く 14作品でリフネと郎と共演します。 まさに志村と三船は黒沢明の全盛紀を支え た2大俳優でした。そんな中で1952年 の生では三船抜きの1人で主演を務めに 犯された市役所の課長渡辺幹事をほぼ骨が 見えるほど減量して講演します。これは 志村の一斉1代の名となりニューヨーク タイムズでは世界一の名雄とまで絶賛され ました。954年の7人の侍では侍たちの リーダー鑑兵役をさすがの貫禄で熱縁し菊 を演じた三船とのダブル主演を見事に務め それまでの性格俳優的なイメージを一進 する沈着合像を打ち立て生きると並ぶ障害 の代表作となりました。なお、志村の妹は 7人の侍で農民のリーダー力地を演じた 俳優の土吉男尾の親戚筋にとついでおり7 人の侍で共演した際に志村から親戚である ことを聞かされた土屋は以後志村のことを おじちゃんと呼んで慕っていたと言います 。そんな志村も生き物の記録を最後にカレ を理由に主役を交板しそれ以後は脇役に 徹することになります。そこでも癖の強い 悪役などを講演し、特に悪いやよく眠るの 土地開発交団の森山管理部長、用人の 作り坂や特門、つ木三十郎の自席郎、 黒富士などで強い印象を与えましたが、 生きるや人の侍の優勝を知るファンにとっ ては少し寂しいところもあります。なお、 1961年には黒沢監督の代理として ベルリン映画祭に出席し、多くの欧米の 映画人から祝事を述べられました。黒沢 作品以外では7人の侍と同年に公開された ゴジラの山根博士役をめとして多くの東方 の怪獣映画特映画で主に重厚な科学者役を 演じました。ゴジラの監督である本題司郎 とも同じ正常に住んでいたことから 家族ぐるみの付き合いがあり、本田は志村 孝志の演技を公表しています。いわゆる 自然体の演技の走りだったのではないか。 普段の味わいが自分の映画にはあっていた 。またゴジラで共演した宝田明は当時の 志村は大イススターでしたが新人だった 自分たちにも優しくしてくれたと10回し ています。他にも元プロ野球選手で監督の 天春一をモデルとした初老のプロ野球監督 を演じた丸山誠治監督の男手は黒沢作品で も特撮映画でもない志村の代表作として 記憶されるべき作品です。本作は映画家が 危まれていると聞いた志村自身が映画家 実現まで原作を守ろうとするほどの熱の 入れようで映画化した後もテレビドラマ化 され村は映画とテレビでこの主役を演じ ました。山田洋ジ監督の国民的な人気 シリーズ男は辛いよシリーズでは第1作男 は辛いよ第8作男は辛いよ虎次次郎子ゆ太 第22作男は辛いよ噂の虎次次郎の3作に 出演して前田銀演じるひの父親役を演じ ました三船俊郎が志村を父親のように慕っ ていたことは有名ですが厚み清も志村を 非常に尊敬し家族ぐるみで信仰がありまし た。とは男は辛いよ。噂の虎次郎で長大な 2人芝居場面を演じ印象深いシーンとなっ ています。他にも岡本木監督の日本の1番 長い日の下村情報局総裁役熊監督のお銀様 の千の理球役など名称の作品で印象に残る 公演を残しています。女志村も60代に 入る頃から病気がちになり、1974年に 廃棄士と診断されますが、それでも映画や テレビに出演を続け、入院中の同年には 指示放障を受賞しました。しかし1977 年頃から病情は悪化しニュータインを 繰り返しました。1980年に4等極日少 を受賞し、1981年の映画日本 フィルハーモニー物語炎の第5学では撮影 現場で病気を隠して役を演じ切り、なんと か無事に撮影を終えたと言います。 1982年1月末のある日、ま子夫婦人と 朝食を済ませた志村はゆっくり子供に 言い聞かせるようにまさ子にこう言いまし た。俺はもうすぐ死ぬよ。年楽してからお いで偉い目に合わせた。すまんかった。 長いことご苦労だった。まさ子はふざける ようにこう言い返しました。何言うのよ おじちゃん偉い目に会いすぎてるわよ。 こう言って泣いてはならないとまさ子は 水道の水を思い切り出してごまかすのでし た。そして2月11日午後10時41分 日本映画の霊名期から数えきれないほどの 作品に出演し、忘れられない数々の名を 残した日本を代表する名。志村孝志は廃棄 機種による精神で東京の慶王技塾大学病院 で静かにその障害を閉じました。76歳の 見事な人生でした志村の死護。その異品は 2010年に東京国立近代美術館フィルム センターに起造されました。また同年には 生まれ故郷の兵庫県朝越市行野町に 志村孝志記念官が設立され、今も名雄志村 孝志の業績が忍ばれています。最後にこの 志村孝志記念官の訪問レポートをご紹介し てこの動画を終わりたいと思います。 [音楽] [音楽] さて、本日の動画はいかがでしたでしょう か?私たちにとって皆様からの温かい コメントや高評価は何よりの励みとなって おります。是非ともご感想やご意見をお 聞かせいただけると幸いです。ご視聴 いただきありがとうございました。

このチャンネルで今まで多くご紹介してきた黒澤作品ですが、その成功には世界映画史上に燦然と輝く三船敏郎との黄金コンビの魅力が大きく貢献していることは誰もが納得することでしょう。しかし、黒澤作品に欠かせない名優として忘れてはならない人がもう一人います。それが志村喬です。時に主役、時に脇役として、黒澤作品を支え続けた彼の存在無くして、黒澤映画の魅力は語れないでしょう。
今回の動画では、この日本映画が誇る名優、志村喬の生涯を辿り、その魅力に迫ってみたいと思います。また、動画の最後には、兵庫県朝来市生野町にある「志村喬記念館」の訪問レポートもご紹介します。

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27 Comments

  1. やはり「生きる」ですね。あの雪の降る公園で、ブランコを漕ぎながら「命短し恋せよ乙女」を歌うシーン。忘れられません。「酔いどれ天使」の医師、「七人の侍」の勘兵衛。まだまだいっぱいあります。

  2. 28分後あっという間に感じられる素晴らしい編集ですね。暑さが収まる頃に志村喬記念館に行って志村喬の偲びたいと思います。

  3. あらゆるジャンルの作品に出演された志村喬さん、好きなセリフは、「志村喬です、楽しみながら演じてます。」(TBSテレビ お荷物小荷物)です。

  4. As a fan of both Honda and Kurosawa, it was so cool to see him in all of these films when I started watching Godzilla movies at 6 years old. Shimura is in 2 of my favorite movies of all time …Gojira and The Seven Samurai.
    Red Beard and Bullet Train (with one of my heroes, Sonny Chiba!!) are two others that rate very high with me.
    This is a great channel! Subbed!

  5. 黒沢作品でも 東宝の特撮ものでも志村喬さんの出演それる映画は かなり観ました。
    今となっては、なかなか観る事が叶わない、テレビドラマ「お荷物小荷物」が観たいなぁ。
    最終回だけは、横浜の放送ライブラリーで観れましたが、、、

  6. 「七人の侍」での志村さんの、農民への叱咤激励の叫びを聞いて、正直、ホレた。

  7. 年齢的に私はテレビ時代劇「大岡越前」の小石川養生所の医師「海野呑舟」役が印象に強く残っています。もちろんテロップは最後のトメ、「特別出演」でした。

  8. なんと言ったらいいのか・・・安心感というか信頼感というか、云わば旧家の主的存在ですね。出演者に志村喬とあるだけで映画の格調がグッと高くなる、そんな感じの俳優でしたね! にじみ出る人間味と清潔感が大好きでした!

  9. 私は映画 動乱の226事件を首謀した高倉健が演じた青年 将校の父親 役である
    横浜の貿易商人実業家の配役が志村さんの演技の中では一番印象に残ってます

    息子の蹶起を止めようとする父親であると同時に
    世の中の矛盾と理不尽を憤る息子への共感…
    二律背反をないまぜにした父親の懐の深さを志村さんは滲ませて役に入り込んでました

  10. 末期での奥さんとのやり取りなんか、映画そのものじゃないですか。
    いや、凄い物を見せて頂きました。
    有難うございます。

  11. 男はつらいよの映画第一作目(ヒロシの父親役)、さくらとヒロシの披露宴で新郎の父としての言葉を述べるシーン…他の出演作に比べれば地味かもしれませんが、泣けました。

  12. 素晴らしい動画ありがとうございました。志村さんのことは詳しく知ることができました。素晴らしいです。

  13. 一番好きな俳優は❓と聞かれたら「志村喬」と答えます
    「生きる」も素晴らしかったですが、個人的には「七人の侍」の勘兵衛が最も惹かれる役でした

  14. 素晴らしい動画でした!記念館に行きたいけど在米で。。。どの映画でも” 役 を演じてる “とは思えない、その人物そのものが動き喋ってるリアルさがありました。たくさんある中で特に好きなのは
    「酔いどれ天使」ののんべえ医者。乱暴さの中に深い人間愛を持った人物像が見事でした!!

  15. こういう俳優、日本では受けがいいのかな。自分は極端に言えば、三船&黒澤以外は誰だろうとほとんど興味無かったな。山崎努はちょっと良かったけど。黒澤作品は女っ気無かったし。寅さんシリーズで言えば、渥美&賠償、山田監督、だけかな。マドンナでは栗原小巻とか竹下景子、ゴクミちゃんなんかは良かったな。あと松坂慶子。

  16. 自分は七人の侍の勘兵衛のリーダー役が一番印象的です
    弓を弾く後姿、その槍を持て、と一喝してからダッシュする場面が好きな場面ですね
    ゴジラ第一作を見た時は、志村喬さんは生きる、侍と似た時期に特撮映画にも出てたんだと知りました
    他にも実録路線の893映画で、九州の大物役で出演していました

  17. 昭和29年は志村喬さん「七人の侍」「ゴジラ」に出演なさっているのが素晴らしいと思います。世界の映画監督達の愛する日本映画にどちらも出てるんですよね!

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