「時空相思」其の五(1/1)戦国篇、1587御館の乱最終決戦

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其の五 1587御館の乱最終決戦

 天正十一年(1583年)と十二(1584年)年に景勝軍は何度も阿賀北衆に攻め入ったが、ことごとく惨敗を喫しておった。越後内では景勝の高圧的な支配体制に反発する諸将が、阿賀北衆への寝返りを加速させておる。兵力も同じくらいになり、接戦を繰り広げたのじゃ。重家殿の堅固な守りと湿地帯での地の利を活かした戦いで、景勝側は手も足もでない。景勝殿は対戦中、危うく重家軍に捕らえられそうになったが、なんとか窮地を脱することができた。七十戦して六十八勝もした謙信様とはかけ離れた尾屋形像に、配下の兵からは後ろ指を指されるほど諦念の意が増していったのでござる。兼続殿にも問題は多かった。軍師でありながら越後の領民や兵の不安を取り除くのが不得手だったことだ。大きな力に依存する性格を持った景勝殿の思惑に合っていたのかも知れぬ。
「勘五郎、また蹴散らしたぞ。今年は二回目だな。上々だ。寝返った諸将も半数にはなっただろう。春日山城攻略にはもう少しだが、予定どおり進めるぞ。それにしても景勝殿は下手に動きすぎる。棟梁の器では無いな。軍師の兼続も兼続だ。何を考えているのかさっぱりわかん」
「源太殿、昨年と今年で景勝軍のほうは半減しておりますぞ。このまま行けば、春日山城陥落は目の前ですぞ」
「伊達家と蘆名家が争い、正宗殿が勝ったそうだ。正宗殿は景勝殿を支援するらしいが、
そうなると厳しくなるな。新潟城は間に合わせで作った城だ。どうでもよいわ」
「源太殿、景勝殿が秀吉殿に臣従するというお噂を耳にいたしましてござる」
「なんだと、この越後を売り渡す気か。大枚の金銀もろともか。その前に春日山城を取り戻さなきゃいかん。道満丸様も今年は元服する。亡き御屋形様の詔を世に知らしめる時が来ぞ」
「亡き御屋形様の書状はすでに全国の諸将に送ってござりまする」
「鳴海院様も覚悟をお決めに成ったのだろう。決戦が道満丸様の初陣とはめでたきことじゃ。
今年は何年じゃ」
「年が明ければ十五年となりまする」
「謙信様の詔は加地城の土中に丁重にお隠ししよう。阿賀北衆のこの地にあった方がいいぞ。
そう鳴海院様に伝えよ」
「源二郎殿の最後の文が届いておりまする・・・。鳴海院様と源太殿にござります」
「最後じゃと?一体どうしたのじゃ」
「中風で倒れたとかで、生前に記されたものでしょう」
「勘五郎、読んでくれぬか」
「謹啓鳴海院様、新発田重家源太様信長様がお亡くなりに成られてから、
幾久しくご無沙汰しておりましたことお許しくださりませ。さて、越後の国ではその後如何されたでございましょうか。御屋形様の詔は諸将の皆様方にはお伝え申されたでしょうか。道満丸様は無事元服の儀を済まされたでしょうか。心配でたまりませぬが、他ならぬ、鳴海院様、源太殿でござりまする。いつしか、道満丸様を国主にされ、天下に号令をおかけすることでござりましょう。国内では秀吉殿の天下に諸将が追随しており、紀伊、四国、飛騨、備前も次々に平定し、九州も手の内にあり、あげくの果てには朝鮮・明国への出兵も思案するなど、自失呆然とする次第でござりまする。御屋形様のご意思が乱世の終わりを迎えることを切に楽しみにしておりまする。敬白 垂水源二郎」
「あの源二郎殿がなぁ。残念でござる」
 今は不安と希望が交錯するが道満丸様と源太殿を信じるしかござらぬ。
 拙者にあるのは、鳴海院様が然るべき時がくるまで土中に匿っておれというご下命を戴くまでの十年の記憶だけじゃった。
 阿賀野川以北の阿賀北衆にとっては、御館の乱は遠い地の出来事と思っていたに違いござらぬ。それが越後の隅々にまで争乱の火種がくるとは誰が想像したであろうか。
 確かに謙信様は鳴海金山と青苧による潤沢な軍資金がござったが、鎌倉時代からの国人衆が構える地とは折り合いが良くなかったのじゃ。
 それ故、姻戚関係を強く結び、感状送りの戦略で彼らの心を捉えることに成功したのでござる。川中島の五度にわたる争いでも阿賀北衆の活躍は他の衆を圧倒しておったことでもおわかりでござろう。
 女犯を禁じ毘沙門天の化身としてのカリスマを演じねば、諸将の心を繋ぎ止めておくことはなかったであろう。道満丸様にはその素質は備わっておると亡き謙信さまは見抜いておったのでござる。

 拙者には今一度これまでの事を振り返って見ると謙信様の偉業が誇りに思えてくる。死を予見した謙信様は前もって跡継ぎを決めていた。鳴海院様が生前の謙信様からある書状の巻物と青苧(からむし)の衣を賜っておった。
 家督の記載と今後の越後の財政に関する重要なもので、それが無ければ景勝殿としても正式な国主としての発布は不可能に近かったのじゃ。道満丸様と野斜丸様は双子の兄弟で諸将には見分けがつかなかった。
 いま想えば謙信様はそこに光明を見いだしていたのかも知れぬ。謙信様の戦の軍資金は鳴海金山などが主な財源だったが、実に日本の約半分近くの金の量を有しておった。拙者の見立てだが、七十回にも及ぶ謙信様の歴戦の賄いは鳴海金山のおかげと間違いござらぬ。
 越後の青苧(からむし)の織物は二度の上洛で流通網が拡大し、京や大坂では良い噂が広まっていた。日本の半分ほどの埋蔵量を誇る鳴海金山は謙信様の外征に無くてはならないものだった。だからこそ謙信様にとって阿賀北衆の国人の力は不可欠だった。御館の乱が勃発して、秀吉殿に臣従し支援を受けてまで景勝殿や兼続殿が執拗に阿賀北衆を追いつめたのにはそういう理由もあるが、何よりも阿賀北衆が手にする謙信様のご遺言の書状を闇に葬らなければならなかったのでござる。
 乱が始まり、翌年になってから、勝頼殿の仲介により上杉憲政殿と道満丸様が和議の交渉で春日山城に向かう途中、景勝側の手の者に惨殺された。殺害された道満丸様は実は双子の弟である野斜丸様でござった。
 そのことは鳴海院様・源太殿・秀綱殿以外誰も知るよしもない。斬首を見て景勝殿が認めたほど風貌は似ている。御館の乱は景勝側の勝利により収束したかに見えたが、阿賀北衆への恩賞はないに等しいものだった。景勝殿や兼続殿の子飼いの上田衆には手厚く扱い、阿賀北衆へはわずかばかりの恩賞となった。
 新発田長敦殿がお亡くなりになり源太(重家)殿への家督相続の承認だけに終わった。源太殿や加地秀綱殿は阿賀北衆の取り纏め役だったので、景勝殿への反感が日増しに強くなっていた。源太殿は当初、兄の長敦殿と安田顕元殿の執拗な景勝側への要請に従わざるを得なくなっていた。
長敦殿は当初劣勢であった景勝殿を救うため勝頼殿との和睦に成功をおさめ、三郎景虎派に反転攻勢をかけ乱の収拾に一役をかっていた。源太殿は元々三郎景虎支持だったが、安田顕元殿の調略に嵌まり景勝支持に回った。安田殿は奇襲で本丸を攻めたのは、三郎景虎側が先と不義の流言を吐いたので、源太殿は嫌疑を抱きつつも景勝側で戦った。その後、鮫ヶ尾城で三郎景虎様と華御前の自害の報を受けたが、これも安田殿の調略で堀江宗親殿が寝返った為ということを知らされる。
その上、安田殿と景勝の誓約書が表沙汰になる。源太殿の怒りは最高潮に達していた。落胆しながら、兄に従わざるを得ない状況にあった源太殿は、三郎景虎側にいた本家の秀綱殿を攻め一旦加地城は降伏したが、それは見せかけの四面楚歌でもあった。そうすれば景勝側に目くらましが出来る。三郎景虎側にいた鳴海院様にとってそれは織り込み済みだった。源太殿の安田殿への逆調略でもある。
源太殿は本家に攻撃したという名目を兄とその家臣団に知らしめる。降伏の書状を認めればそれで事は済んでいた。景勝殿の高圧的な態度に阿賀北衆や景勝側で戦っていた諸将も次第に反抗の狼煙をあげてきた。道満丸様も元服を迎え逞しく育っておった。
 謙信様の遺言の書状を見た源太殿はあらためて、道満丸様と鳴海院様への忠誠を強くし景勝・兼続軍打倒へ向かうことになる。景勝殿が秀吉殿に春日山城にある多くの埋蔵金を進上し、臣従したことが諸将の反感を買っておった。越後国主の器ではない景勝殿はそれを軽んじすぎた嫌いがあった。秀吉殿の再三の和睦交渉にも源太殿は頑として応じるはずもなかった。
 和睦の条件が景勝殿と同じ阿賀北衆への単なる助命の布告にすぎなかったからだ。兵力と士気では景勝・秀吉軍に充分勝っていた。 阿賀北衆軍と景勝・秀吉軍との最終決戦はもはや避けられないこととなった・・・。
 足軽小姓の仲川と麻倉は、決戦前夜に鳴海院様に呼ばれておった。

「そなたたちを呼んだのは他でもない。言わずとも分かっておるな。此度の決戦では勝つとは思うが、先のことはわからぬでな。この後元服した道満丸が此度の初陣で勝利し、越後を束ねるときがきたらこの兄上の遺言状が必要ぞ。それまでは、この加地上の土中深くに埋葬しておくのじゃ。わらわのザクロとジャスミンの香り袋も一緒じゃ。この匂い袋はそなたらにも渡しておくが、城下の農家に落ちのびても遺言状の在処を示した絵図とともに、代々誰にも明かしてはならぬぞ。絵図とその匂いで掘り当てる目安ともなろう。家宝というのもなんじゃが、どうかそなたたちに守ってもらいたいのじゃ。戦いに勝ったあとは秀綱がそなたらを迎えにゆかすでな。それと、麻倉の息子、玄吾殿と仲川の娘、ヒナ殿が先の戦いでなくなり、祝言をあげられずさぞ無念であろう。わらわも胸がいたんでおる。息子秀綱とわらわを赦しておくれ」
「鳴海院様、恐れ多いことでござります。我が息子玄吾もヒナ殿も想い合っての最期でござりました。二人共悔いはありませぬでしょう。あの世ではさぞ幸せにござりましょうぞ」
「それがわらわの救いじゃ。さ、いそぐのじゃ。これが、そなたたちとの最後の語らいになるやもしれぬ。ふたりとも末永く息災であるのだぞ」
「ハハー、この麻倉と仲川、命に変えましても鳴海院様のお志しを決して無碍にはいたしませぬ」
そうして、拙者はこの二人に、城の土中深くに埋められたのじゃ。
 天正十五(1587年)年八月、秀吉の援軍を後ろ立てにした景勝・兼続軍を前に、加地秀綱・新発田重家連合軍は阿賀野川を挟んで対峙した。その陣には女武者姿の鳴海院様も馬上に構えていた。その隣には亡き三郎三郎景虎さまの正室だったお香の方(松幻院様)の姿があった。秀吉殿は源太殿との和議を唱えたが、それは単なる助命の保障だけであった。源太殿にはさらに怒りが増していた。
 小姓の麻倉と仲川は青苧の遺言状を埋めたあと農家に落ちのびた。無事生き延びればこの二人は末代まで秘密を守ってくれるはずだ。
 最終決戦は土中におる拙者にはその行方はわからぬ。

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