三味線を弾く前に知っておきたい『鯉(鯉つかみ)』の情景
★鯉の演奏
歌舞伎『鯉つかみ』スタディガイド
三味線出囃子曲『鯉(鯉つかみ)』スタディガイド
1. 時代背景と上演の場所・時期
『鯉つかみ』は江戸時代から人気があり、特に江戸後期に歌舞伎や浄瑠璃で好まれた題材です。現在よく知られる形は1914年に東京で初演され、本物の水を使った迫力ある演出が評判となりました。物語の舞台は近世の近江国(滋賀県)琵琶湖周辺で、夏場に上演されることが多いです。
2. 元になった歌舞伎演目と登場人物・背景
『鯉つかみ』は、歌舞伎外題『湧昇水鯉滝(わきのぼるみずにこいたき)』のクライマックス場面です。物語は平安時代の俵藤太による大百足退治とその毒血による鯉の王子への祟りが遠因となっています。数百年の時を経て、俵藤太の子孫である釣家とその家宝「龍神丸」を巡る騒動の中、鯉の一族が復讐を企てます。
主な登場人物:
•志賀之助(しがのすけ): 俵藤太の末裔である釣家の若君。勇敢な青年武士で、許嫁の小桜姫を守るため鯉の精と対峙します。
•小桜姫(こざくらひめ): 釣家当主の娘で志賀之助の許嫁。偽の志賀之助(鯉の精)に騙されてしまいます。
•鯉の精: 琵琶湖に棲む年老いた大鯉の化身。先祖の因縁から釣家を恨み、人間に化けて復讐を企てます。
•篠村次郎(しのむら じろう): 釣家家老。釣家を守る責任感の強い老臣で、怪しい出来事に気づき鯉の精の正体を問いただします。
•堅田刑部(かたた ぎょうぶ): 信田家の使者。釣家に政略結婚を迫り、裏では釣家の内紛や宝刀の奪取を狙います。
物語の展開:釣家の館で小桜姫が偽の志賀之助(鯉の精)と再会しているところに、信田家からの使者が訪れます。家老が名刀「龍神丸」を披露すると、奥座敷の障子に姫と巨大な鯉の影が浮かび上がります。正体を現した鯉の精が釣家への恨みを語る中、本物の志賀之助が現れ矢を放ちます。傷ついた鯉の精を追って舞台は琵琶湖畔へ移り、壮絶な水中戦が繰り広げられます。
3. 想像される町並み・自然風景の描写
物語の舞台は近江国・琵琶湖のほとりの城下町、釣家の館とその周辺です。館の奥座敷は夏の昼下がり、穏やかな雰囲気が漂います。しかし障子に巨大な鯉の影が浮かび上がる場面では、静かな座敷が一転して怪異なムードになります。後半は琵琶湖畔や大滝へと舞台が移り、水草の茂る浅瀬、岩場、そして雄大な琵琶湖が広がります。舞台装置として本物の水を使った滝が登場し、轟々と水音を立てて水が流れ落ち、激しい水しぶきが飛び交います。
4. 歌詞(物語)に込められた感情や物語上の出来事
物語は恋と闘争、そして欺きからの驚きと因縁のドラマを中心に展開します。序盤の小桜姫の偽者との逢瀬には恋心と幸福感が漂いますが、鯉の精の正体が明らかになることで恐怖と混乱に変わります。鯉の精の先祖への恨みと釣家への復讐心、本物の志賀之助の家族と愛する人を守る使命感と怒りが物語の感情を揺り動かします。矢が命中する場面にはカタルシスがあり、水中での死闘には緊張感と勇敢な若武者への応援が生まれます。恋が鯉へと転じる言葉遊びも、物語に奥行きを与えています。
5. 五感に訴える要素
『鯉つかみ』は観客の五感に強く働きかけます。
•視覚: 障子に映る影、本水を使った滝や水しぶき、大鯉の人形、役者の動き、衣装などがダイナミックな視覚効果を生み出します。
•聴覚: 三味線や太鼓などの鳴り物が水流や戦いの緊迫感を表現し、効果音や役者の声、観客の声援も一体となって聴覚的な臨場感を高めます。
•触覚(体感): 前方の観客への水しぶき、空気中の湿度、滝の風圧や太鼓の振動などが物理的な体感をもたらし、夏の涼や熱気を肌で感じさせます。
•嗅覚: 本水の使用により、水や湿った畳、木材の匂いが漂い、琵琶湖畔の自然の匂いも想像させます。
•その他: 妖怪じみた怪魚の姿への恐怖心や、舞台全体からほとばしる熱気、役者の気迫が観客の第六感や想像力に訴えかけ、劇場と観客を一体化させます。
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クイズ
1.『鯉つかみ』の題材はいつ頃から人気がありましたか?
2.現在よく知られている形の『鯉つかみ』は、いつ、どこで初演されましたか?
3.『鯉つかみ』の物語の舞台となっている場所はどこですか?
4.『鯉つかみ』は元になった歌舞伎外題のどの部分にあたりますか?
5.物語の遠因となった平安時代の出来事は何ですか?
6.志賀之助は誰の子孫にあたりますか?
7.小桜姫は物語の序盤で誰に騙されてしまいますか?
8.鯉の精はなぜ釣家を恨んでいるのですか?
9.篠村次郎は物語でどのような役割を担っていますか?
10.『鯉つかみ』の舞台で観客の五感に訴えかける要素として、特に強調されているのは何ですか?
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クイズ解答
1.江戸時代から人気がありました。
2.大正3年(1914年)に東京・本郷座で初演されました。
3.近世の近江国(滋賀県)琵琶湖周辺です。
4.外題『湧昇水鯉滝』のクライマックス場面にあたります。
5.俵藤太による大百足退治とその毒血による鯉の王子への祟りです。
6.俵藤太の子孫にあたります。
7.鯉の精が化けた偽の志賀之助に騙されてしまいます。
8.先祖(俵藤太)が退治した大百足の毒血により、鯉の王の息子が竜になれなくなったという過去の因縁があるからです。
9.釣家家老として釣家を守る責任感の強い老臣であり、怪しい出来事にいち早く気づいて志賀之助(=鯉の精)の正体を問いただす重要な役回りです。
10.本水を使った演出による視覚、聴覚、触覚(体感)、嗅覚への訴えかけが特に強調されています。
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エッセイ形式の質問
1.歌舞伎『鯉つかみ』における本水の使用は、観客の体験にどのような影響を与えているか、五感への訴えかけという観点から考察しなさい。
2.物語の序盤における穏やかな情景と、中盤以降の怪異な展開や水中での闘争との対比は、観客の感情をどのように揺さぶるか、具体例を挙げて論じなさい。
3.鯉の精が釣家を恨むに至った「因縁」は、単なる勧善懲悪の物語にどのような深みを与えているか、登場人物の背景を踏まえて説明しなさい。
4.『鯉つかみ』に登場する主要人物(志賀之助、小桜姫、鯉の精、篠村次郎など)は、それぞれ物語の中でどのような役割や感情を担っているか、詳細に分析しなさい。
5.出囃子曲としての『鯉つかみ』が、舞台上の情景や登場人物の感情をどのように音楽的に表現しているか、三味線や鳴り物の役割に注目して考察しなさい。
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用語集
•出囃子 (でばやし): 歌舞伎や寄席などで、役者や演者の出入り、あるいは特定の場面に合わせて演奏される音楽。
•浄瑠璃 (じょうるり): 三味線を伴奏とする語り物音楽。人形浄瑠璃文楽や歌舞伎の演奏として用いられる。
•外題 (げだい): 歌舞伎や浄瑠璃などの演目の題名。
•クライマックス: 物語や演劇の中で、最も盛り上がり、緊迫感が高まる場面。
•ケレン味 (けれんみ): 歌舞伎において、宙乗りや早替わりなど、観客を驚かせる仕掛けや派手な演出。
•近江国 (おうみのくに): 現在の滋賀県にあたる令制国。
•琵琶湖 (びわこ): 滋賀県にある日本最大の湖。
•俵藤太 (たわらのとうだ): 平安時代の武将。瀬田の唐橋での大百足退治の伝説で知られる。
•大百足 (おおむかで): 大きなムカデの妖怪。
•龍神丸 (りゅうじんまる): 釣家の家宝とされる名刀。
•許嫁 (いいなずけ): 将来結婚することを約束した相手。婚約者。
•息女 (そくじょ): 娘。
•化身 (けしん): 神仏や精霊などが人間の姿などに変わること。
•積年の恨み (せきねんのうらみ): 長年積もり積もった恨み。
•家老 (かろう): 武家で家臣の筆頭。
•政略結婚 (せいりゃくけっこん): 家や国の利益のために行われる結婚。
•奥座敷 (おくざしき): 邸宅の奥にある、静かで格式の高い部屋。
•障子 (しょうじ): 木の枠に紙を張った日本の建具。光を通すが向こうは見えない。
•立ち回り (たちまわり): 歌舞伎や演劇で、刀などを使って演じられる格闘シーン。
•本水 (ほんみず): 歌舞伎の舞台で実際に使われる水。
•鳴り物 (なりもの): 歌舞伎や邦楽で使われる打楽器やその他の音具。
•黒御簾 (くろみす): 歌舞伎舞台の向かって左手にある、下座音楽の演奏者がいる部屋。竹製の御簾がかけられていることが多い。
•下座音楽 (げざおんがく): 歌舞伎の舞台効果音や情景描写のために黒御簾の中で演奏される音楽。
•宙乗り (ちゅうのり): 歌舞伎の演出の一つで、役者がワイヤーなどで空中に吊られて移動すること。
•カタルシス: 演劇や音楽などを見て、心の中に鬱積していた感情が解放されることによる、精神の浄化作用や解放感。
•薫風 (くんぷう): 初夏の頃に吹く心地よい風。
•詞章 (ししょう): 歌舞伎や浄瑠璃などの台詞や歌詞。
•所作 (しょさ): 歌舞伎における役者の身ぶりや演技。
•勧善懲悪 (かんぜんちょうあく): 善行を奨励し、悪行を懲らしめること。物語などのテーマとして用いられる。
•同音異義語 (どうおんいぎご): 音は同じだが意味が異なる言葉。