一橋と繋がって幕府の上知に抵抗する危険人物 松前道廣の生涯【大河べらぼう】
こんにちは。歴ショックです。今回は 江戸地挙げちの動きが進む中で自ら軍勢を 率きいて外国戦と戦いに行く天下3の野望 を噂されるなど破天候なエピソードを残し た松前道博の生涯について紹介します。 沖つぐの江戸地挙げ地計画をきっかけに 幕府では松前市から江戸地を取り上げる 動きが進んでいきましたがこれに真こから 対抗したのが道ひでした。道ひは1つ橋 春田と組むことで挙げちを回避していまし たが春田の大護所への野望のために働いた ことで引居拠させられ外国戦の接近により ついに挙げちは実現します。幕府に危険 人物と睨まれる道は挙げちに抵抗しない よう永居という思いを下され幕府の監視化 に置かれ完全に動きを封じられてしまい ました。今回はその優秀さから傲慢な性格 となり幕府に対しても奥することなく 立ち向かったため危険人物として封じ込め られてしまった松前道の障害について紹介 します。 両親を早くに失い、乱性を望む危険な人物 に成長する。松前道博の執。松前道博は 1754年に松前班7半守松前博と性質 ペンの間の長男として江戸の福山館で 生まれました。父が28歳の時の子で 一つ橋春田の3歳年下ず茂秀の6歳年下に 当たります。松前市は元は柿崎氏を名乗り 欧州の安藤士の邪家でアヌと攻撃を行う 勢力の1つでした。戦国時代に江戸の支配 者として独立し、豊秀吉から江戸地1円の 支配者と認められ松前市に改正しています 。江戸幕府には米が取れないため当初は 大名として数えられていなかったものの 攻撃で大きな利益を上げており事実上の 大名として扱われるようになりました。 全国の大名の中で最も特殊な事情を抱えて いたことも道ひが当時代の大名の中で特に 気立つ存在となる要因となります。は後 10日で母をなくし、11歳で父が 亡くなったため家を継ぐことになり、両親 の影響をあまり受けることなく成長しまし た。16歳で 原70年には父と同様に今日ので大臣の 火山の員常の娘住姫を迎えています。住姫 は1775年に会認しますが三ひは同年 家臣の娘である即質シとの間に長男を設け ていました。住姫はそんな状況の中で男子 を出産しますが、資産となり住姫自身も 3後の日立ちが悪くなくなってしまいます 。22歳で性質を失った道博はその後新た に性質を迎えることはなく吉原友を見受け するなどして歴代反種の中で2位となる6 人の即室を迎えました。特に友女の身は 2度も行い弟の1人松前ふたは7代目川を 見受けするなど一族揃って吉原にどっぷり 使っていました。三ひは自身に批判的な 学者である大原先後の記録において も芸容において大した努力なく奥義に達し 学問は好まないが1度読めば絶対に忘れ ない記憶力を持つと表されるほど優れた 人物でした。しかし一方で幼くして阪と なったことと優秀さが結びつき傲慢な性格 を形成し、世の中の全てが自分の支配に あると考えるほどになったと言います。茶 の湯や行動死などの共容を多くたのも自身 の趣味ではなくあらゆる分野で誰かの下に 置かれるのを嫌がったためでした。性格も 全く平和的ではなく、範内天下のことを 問わず、何か騒がしいことがあれば大喜び する男性型の人間です。その一方で社交的 な性格で島漬け伊家といった大名や水戸 徳川家、そして一つ橋春田など徳川一門と 幅広く交際していました。こんな道が 納める松前班はアイヌとの攻撃を通じて 毛川や解散物など本州で重宝される品物を 入手し莫大な利益を上げていました。アヌ を通じて中国やロシアなど海外の品物を手 に入れることもあり松前は長崎と並んで 江戸時代では数少ない海外の玄関口となっ ています。米が取れないため、ファンデは 家臣の治療地として農地の代わりにアヌと の攻撃拠点である空内場を割得て公益の 利益を与えるという独自の制度を採用して いました。松前阪士たちは自らアイヌとの 攻撃を行っていましたが、三ひが生まれる 反省機ほど前から本州の商人に攻撃を委託 し、一定の売上金を徴収する場所受け置い 性が主流になっていました。本州商人への 移任が行われた背景には経済発展により 商業が複雑化し商業に不慣れな武士では 対応できなくなって負債を抱える武士が 続出したことがあると言われています。 ですが商人たちはアヌの漁上経営にまで口 を挟むようになり、アイヌは攻撃相手から 労働者同然の立場となってしまい不満を 貯めていきました。集まにとっては商人の 売上が上がる方が自分たちの収入も増える ためアヌの利益を考慮することは一切あり ませんでした。こうした商人の代表格が ひ屋で日屋など江戸に関わる商人は琉球を 通じて密望駅を行うさ磨ともつがってい ました。島は遠石関係で一つ橋は春田と つがっており、道博は徳川家本の暗殺疑惑 もあるこのグループの一員と呼べる存在と なっています。また松前班も抜けにより 外国と直接取引を行って利益を得ており、 やがて道は田沼による江地挙げちの対象と なっていくのです 。挙げちの抵抗勢力として幕府に目をつけ られる。幕府と道博の対立。江戸地の開発 論自体は徳川吉宗の教の改革の頃から爆犯 体制の行き詰まりの打開策として存在して いました。それが田沼置き継ぐの時代に なって本格化した理由はロシアの江戸接近 という外部要因です。江戸の鉱山開発や 公益拡大で国を止ませることが観であり、 これを放置することは危険と解いたのが 仙台犯の工藤平介で田沼家の要人三浦商事 を通じてこの思想は田沼沖津まで達しまし た。そして沖津は福審の環状部業松本秀持 や組頭の土山総治郎に命じて江地の調査を 始めます。この結果は幕府に禁止されて いる抜けを行っている疑いを持たれて しまいました。道ひは幕府からの抜けの 追求に対しを切ったため1785年になっ てついに幕府の調査体が江戸地にやってき ます。調査隊は江戸地の開発により爆府量 400万国を上回る米の収穫が可能と報告 し、田沼は8から9年後目に江戸地開発を 進める方針を固めていました。また幕府は 松前班が日谷に委託している東江地の場所 での攻撃を中止させ、日屋から別の商人に 変更させています。これは抜けを含む 江戸地での攻撃の利益を独占しようとする 幕府の動きの第一歩であり、松前班は窮地 に立たされました。田沼による松前班から の江地の挙げ地はこのまま進むかに見え ました。しかし1786年の徳川家春の市 た田沼沖つぐの失客で沖つぐ主導の江戸地 挙げ地計画は凍結となり道は窮地を出し ます。そして道が金手から親しくしていた 一つ橋は春田の息子家成が新将軍につきは 春田が要立した松田サ信が老者として政権 を担当することになりました。佐田自身は 道ひと繋がっているわけではありません でしたが、佐田はあえて江地を開拓しない ことがロシアに対する最大の防御という 思想を持っており、田沼政権の挙げ方針を 引き継ぎませんでした。 最も信でも挙げ推進派はおり、松前は 佐田信の方針のおかげで挙げちを免がれて いる状態です。そんな松前班を揺がしたの が120年ぶりとなるアイヌによる武力 放棄し目なしの戦いでした。この放棄は 松前班が攻撃を委託した商人が労働者の ごとくアイヌを刺激し続けた結果アイヌの 不満が蓄積し武力放棄に至ったものです。 アイヌは元々かなりの古力を持つ勢力で あり、江戸時代前期には尺社員を中心に大 規模な判断が起きていました。今回は 江戸地頭部を中心に計130人のアヌが 放棄し、攻撃のために訪れていた和人が 71人殺されるという事態になります。 三ひは即座に260人の鎮圧軍を派遣し、 新松前のアイヌを味方につけて判断を鎮圧 しました。普通の大名なら怪液ですが、 アヌは特別とされており、松前班は前回 同様音ガなしとされています。ただし幕府 はアヌの背後にロシアがいることを心配し 、森岡班、広崎犯準備も命じており、この 一件で北法の脅威に一層の危機感を募ら せることとなりました。そしてこの3年後 、ロシアのラクスマンが通称を求めてネロ へ来幕府の懸念は現実のものとなります。 挙げ地とはならなかったものの佐信は松前 班だけに江地を任せるのは心もないとして 森岡広崎両班を北国軍代として江戸地防美 に加える案を進めるなど松前班は田沼時代 とは別の角度から幕府の圧力を受けるよう になりました。マンの来光で国内が揺れる 中、三ひは同年に38歳の若さで突如引居 し、17歳の息子秋ひに家得を譲ります。 この突然の引居は北法問題以上に一つ橋 春田の最大の野望であった王書の地位を 巡る損合一見問題に関わったためのもの でした。スコを将軍の座につけたはサは 自身は将軍を経験していないにも関わらず 家康や吉宗と同じように応護所になること を狙っていました。そのために家なりと 同じく様子として行為を継いだ広格天皇が 父の会員の宮人新脳に大場天皇のくらいを 送ろうとするのを支援しようとしますが 両者の橋渡し役となったのが道ひです。 一博はラ制裁の実家火山の延期を通じて 頂側の担当者中山なるとつがり春田に 引き合わせ頂点が幕府に大上天皇の剣を 打進するよう動きました。佐田は大場天皇 も大御書も両方きっぱり拒否しましたが この厄介な問題を春田側の人間として 引き起こした道ひを引居に追い込んだ形 です。一は単に引させられただけでなく、 通常引居した大名が江戸に住むのとは 異なり、国元での居住を義務づけられ、 春サ田との接触を封じられていました。 これで道博の名運は月たかに見えましたが 、ただ引居させただけでは道ひを 封じ込めることはできませんでした 。外国線の接近を前に問答無用で映像を 挙げされる江戸地挙げ とひ道ひは陰居後も国元で反省を牛じり 半種の秋ひを始め誰も道ひに逆らえるもの はいなかったため江戸に行けない以外は 以前と何も変わりませんでした。しかも この時期松前に招かれていた学者大原サゴ は道ひがロシアを後ろに天下を納める野望 を持っていたという噂まで記しています。 この噂によれば道博はラクスマンが通称を 求めて来た際に密をかわしたとされてい ました。真実家はともかくこうした噂が 誠やかに語られるほど広なら天下を狙って もおかしくないと当時は思われていたの です。松田平サ信が1793年に出客して も幕府の道への扱いは変わりませんでした 。そんな中1796年にはイギリス戦が 東江へ江地に来ますが道は中心の反対を 押し切って自ら280名の兵を率きいて 出人します。七の軍勢の到着前にイギリス 戦が去ったため衝突はなかったものの道博 は超罰的に引居拠させられた身には ふさわしくない行動を取ったことになり ます。この出来事の直後三のロシアへの内 を疑っていた学者大原サゴは松前を退去し 水戸へ移りここで道の無本疑惑なども含め 松家の実情を記した地偶団を表しました。 この書物は幕府にも広まり、幕府の北法 問題への懸念は強まっていきます。一方で 1797年には2年連続でイギリス戦が 来光し、松前浄下まで接近する過去に例が ない事態となり、広崎犯が幕府の名で函館 に 出われました。この非常事態において自ら 出人するほど行動力がありロシアとの内通 疑惑もある道を江戸にとめておくことは 幕府にとってむしろ危険です。その結果 同年に道博は江戸出を命じられ国元での 引居から江戸での幕府監視化での生活へと 処分が変更されました。外国戦接近を巡る 一連の事件への対応からこの頃までに幕府 は松前班だけに得地を任せておくのは不 可能という結論に達しています。そして道 が江戸にとめられてから2年後の1799 年についに東江へ江地が挙げされ爆府量と なりました。最も発表時点では具体的な 内容は決まっていなかったため、道ひは 江戸見て様々な手段を使って少しでも松前 班に有利になるよう主張を続けています。 ですが無駄な抵抗に終わり、それから8年 後の187年には残った西江地も含め江地 前度が挙げされ爆府量となりました。松前 班は事実上の原方となるム柳川急戦国に 移され臣の大リストラを行うはめとなり ます。しかもこれだけでは終わらず挙げ 発表直後には道ひは幕府によってA実居と いう思いを 下前班に対し裂な処置が下される中危険 人物としてマークされている道は完全に 動きを封じられてしまったのです。その後 アイヌとの攻撃という収入源を失った松前 班はエとしても活躍する過ろ松前博が自ら の絵を売って工作資金にするなど復帰の ための努力を続けましたですがAチとなっ た道平にはもはやできることはありません でした。その間にもロシアとの五浪人事件 など外国勢力との衝突が起きましの副良の 望みはどんどん薄れていきます。そんな中 で役に立ったのが道ひが長年かけて気づい てきた一つ橋は春サとの関係でした。 松前市は三ひ抜きでも春田に運動を続けて おり、江戸地挙げちを進めた老の松田信明 が1817年に亡くなった後に春田は松前 市の訴えを受けて松前市の副良に動きます 。そして1821年に松前市は江戸復帰を 成し遂げました。 ですが67歳になっていた道博のAチ居は 解かれず、阪種秋ひの訴体えにより処分が 一部緩和されるにとまっています。副良後 の松前班が混乱を極める中、道ひはついに 動きを封じられたまま1832年に江戸で 78歳で障害を閉じました 。最後までご覧いただきありがとうござい ました。参考文献は概要欄に記載しており ます。他にもたくさんの日本市情報を発信 していますので、よかったらチェックして みてくださいね。
田沼意次の蝦夷地上知計画をきっかけに、幕府では松前氏から蝦夷地を取り上げる動きが進んでいきましたが、これに真っ向から対抗したのが松前道廣でした。
道廣は一橋治済と組むことで上知を回避していましたが、治済の大御所への野望のために働いたことで隠居させられ、外国船の接近によりついに上知は実現します。
幕府に睨まれる道廣は、抵抗しないよう永蟄居という重い罰を下され、完全に動きを封じられてしまいました。
今回は、その優秀さから傲慢な性格となり、幕府に対しても臆することなく立ち向かったため封じ込められてしまった松前道廣の生涯について紹介します!
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参考文献
松前町史編集室編『松前町史. 通説編』
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001704630
新藤透『北海道戦国史と松前氏』
https://amzn.to/4kEDj1H
秦新二,竹之下誠一『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』
https://amzn.to/4gmro5G
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https://twitter.com/Reki_Shock_
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【画像引用】
大河ドラマべらぼう公式サイト
【目次】
1:13 松前道廣の出自
6:37 幕府と道廣の対立
12:34 蝦夷地上知と道廣
#大河べらぼう #べらぼう #松前道廣 #えなりかずき #大河ドラマ
31 Comments
レキショック様
今日は松前だと思いました。
大河ドラマ放送後のタイミング、ありがとうございます!
松前かずき君という配役がどうしても憎めないw
大河のえなりは下衆の極みだったな。まああの余興は創作だろうけど。
この道広の孫?ひ孫が老中になるんだよな… 罷免されたけど。
ドラマ中は悪人顔してたなぁ、えなりかずきw。
幕府が貿易を制限し自らも開国に反対なのに
密貿易で財を成す島津・松前と仲が良い治済って一体…。
どんなに頭脳が優秀でも、自分が世界の中心でないと気が済まない性格の人は迷惑です。松前通廣という人物は戦国時代に生まれていれば性格的欠点も違う形を取っていたのかもしれませんね。
いつもながらのタイムリーな解説、助かります。傲慢だが優秀で、有力外様藩や御三卿とも広い交際のある人物であり、本州では貴重な物品を商える松前藩主では、いかにも暗躍しそうな立場ですね。抜荷のおいしさは、大きかったことでしょう。長崎と並ぶ海外交易の地だったのに、これだけ好き勝手ができたのは長崎奉行のような役職がなかったから、米作ができずアイヌとの交易のみが知行の代わりとなったからでしょうか?長崎のように直轄地にすれば幕府の管轄に入るので、一番益となると素人考えでも思いますが。蝦夷地の積極的な開発の要因が外因ロシアの蝦夷接近であったことは、切羽詰まった感があります。それが将軍家治の死と田沼の失脚で頓挫し、松平定信の時代にはむしろ開発しないのがロシアを刺激しない良策と考えられたのが面白いですね。ついに上知され、後に蝦夷が復領しても、道広の永蟄居だけは解けなかったのは辛いですね。
ドラマだけでは知ることのできない史実の人物の実像を掘り下げてくださるレキショックさんの動画は、毎回とてもためになります。
ナイスタイミング☺️
松前道廣の画像、福助人形みたい(若い人はわかんねーだろうなぁ)。
えなりかずきに似ていると思ったらえなりかずきだった
ちなみにあの水戸黄門も蝦夷に興味をもっていて、石狩周辺に調査隊を派遣したりしたらしい
水戸藩は可能なら松前藩から蝦夷地を取り上げ、水戸藩で支配しようと画策していたとか…
北方領土博物館の漁業権の書類を盗んだのはアイヌと言うことか。
復領できたのは後任の老中首座水野忠成に贈賄したから。
将軍、徳川家斉は大奥で子作りに励むのが精一杯。
欧州列強の植民地にされるかもしれないのにこのていたらくでは幕府崩壊もしかたない
アイヌは鎌倉時代に北海道に来た連中 歴史は浅い。 その何万も前に北海道に和人が住んでいた。 いわゆる縄文人。 さいきん縄文人はアイヌだという輩がいるが、鹿児島上野原遺跡は縄文土器縄文人なんだよな。 鹿児島人はアイヌだってよ。 朝鮮人が言う弥生人は朝鮮人だって。 だから日本はアイヌと朝鮮人のものだだとさ。 じゃあ地球はアフリカ黒人のものだ。 日本は日本人の物だ。ロシア中国北朝鮮 侵略軍送ってきたら 侵略兵殺すぞ。
蝦夷地復帰後も、相変わらずアイヌへの扱いはひどかったようで、幕末に堀利煕が率いる幕府の蝦夷地調査隊が、「このままではアイヌがロシアに味方しかねない」って報告してますね。実際には、場所請負商人が派遣している現地担当者の問題だったようですが。
外国の接近ということになれば、幕府が出ていかざるを得ないでしょう。
放置すれば確実に領土をとられる。
幕府の判断は正しい。
北海道はロシア固有の領土であることは明白ですね
松前 道広か諸芸を極め 政治力が高く 外交能力が高い 足利義満とものすごくイメージがだぶるな
ありがとうございます、勉強になりました😅
ひと目見て、ミスキャストかなと思いました。🙏
えなりくんは危険人物
大名も幕府にやられっぱなしじゃないんだな
弘前藩の紋が、違うような気がしますが・・・
松前藩は清で製造された高級絹織物の江戸錦を高値で売っていて、
この件で幕府は密貿易の疑いをかけ、間宮林蔵に探索させたようです。林蔵は常陸国筑波郡(現つくばみらい市)出身で幼少の頃から測量と算術に長け幕府の役人になり択捉島、国後島に派遣されていました。当時、ロシア船が頻繁に蝦夷に出没していたので、幕府より林蔵に樺太は島か半島かアムール川流域にロシアは進出済かなどの命がくだり探索しました。
林蔵は樺太に渡り樺太北部で樺太が島で有ることを確認した。また、現地人の二ヴフの集落に滞在し二ヴフ人がアムール川下流域のデレンに有る清の役所に献上品を持って行く旅に同行し、デレンの役人と筆談しロシアはこの地域にまだ来てない等を聞き、また、役人が地域の人達の献上品の見返りに江戸錦を渡している様を確認した。
江戸錦は松前藩がアイヌ人を利用して手にいれた物と幕府に報告しました。林蔵はその後も隠密として活躍したようです。
えなり君怖かった
こいつ50過ぎてから素行不良で幕府から蟄居謹慎命じられてるよな.
今回の大河ドラマで、ついに北海道の関係者が出てきましたね。朝ドラではチョッちゃん、マッサン、なつぞらなど、北海道は結構舞台になっているのに大河で全く持って出てこなかったのでびっくり。ひょっとしたら、間宮林蔵や伊能忠敬の大河の布石なのでは。
母さんそんなこと言ったってしょうがないじゃないか。
えなりくん、ここらでいっちょイメージチェンジを図ったのでしょうか。いろんなキャラを演じられるほうが生き残れますからね。
労働者の如く?
つうことは、松前藩のアイヌにはスト権もあるんですね。
いくらなんでもおかしくね?