江戸東京写真帳134:中目黒・祐天寺・上目黒・東山
散歩写真スライドショー、一人で気楽に散歩する。恵比寿駅から駒沢通りを渡って恵比寿西、#恵比寿神社 に行く。戻って恵比寿南の窪地から、稲荷坂、階段を下りて、#道しるべ の交差点から、#観音坂 を上がり、庚申塔から#別所坂 を下りて、中目黒、段丘崖の別所児童公園に上る。#目黒川 に出て、中目黒公園、#目黒川船入場 を見て、明治通りを渡って、正覚寺に行く。裏手の台地に上がって、#中目黒八幡神社 に行く。池があり、大木が茂っている。さらに台地に上がり、祐天寺に行く。参道が美しく、仁王像も良い。駒沢通りを渡り#上目黒天祖神社 に行く。裏の窪地を下りて、#中目黒銀座 に出る。東急東横線をくぐり、#蛇崩川緑道 を行く。それて台地に上がり、#鳥森稲荷神社 の裏、段丘崖の上から入る。手水舎があり、木が茂っている。旧鎌倉街道に折れて、西照寺から階段を上がる。小沢坂に出て、それる。切通しの野沢通りを渡り、東山公園から下りて、東山児童公園、貝塚公園に行く。竪穴住居模型、池がある。隣で工事している。目黒川に出て見る。池尻大橋駅から帰る。
恵比寿神社、恵比寿駅の西、市街地に鎮座する。旧社名を天津神社(あまつ)、戦後の区画整理で、駅前から遷座されて改称された。創建年は不明、景行天皇の御代(111-113年)、昭和34年に遷座の際、ヱビスビールにあやかって、兵庫県の西宮神社から事代主命(恵比寿神)を勧請して合祀し、恵比寿神社に改名された。
道しるべ(恵比寿南3)、江戸中期の安永八年(1779)に建てられた。中央に「南無阿弥陀佛」右に「ゆうてん寺道」左に「不動尊みち」と書いてある。「ゆうてん寺道」は、中目黒方面から別所坂を登り、麻布を経て、江戸市中へ通じる道、「不動尊みち」は、目黒不動へと続く道、台座に道講中と刻まれ、道路の指導標というだけではなく、交通安全も祈願した。江戸時代、渋谷広尾町に、小規模な町並みが存在したが、町並みから外れた道は、人家も少ない寂しく、宗教的意味をもった道しるべが必要だった。
観音坂、坂上のマンション「テラス恵比寿丘の上」の前に「目黒の新富士と新富士遺跡」という説明板がある。目黒の「新富士」と「新富士遺蹟」、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地、江戸後期、蝦夷、千島を探検した幕臣、近藤重蔵が 付近の高台の自邸に、ミニ富士を築造、目切坂上の「目黒元富士」に対し、「新富士」の名で呼ばれて、見物人で賑わった。近くの新富士ゆかりの地下式遺構が発見され、石の祠や御神体、大日如来像が出土し、「新富士遺跡」という。 坂道の上に、新富士があって「新富士坂」と名付けられた。江戸期は将軍家の狩猟地で、庶民の近づけぬ「お留め山」、管理をしていた中山間右衛門の屋敷があった。「中山坂」と呼ばれて、「観音坂」の名は,坂の途中に馬頭観世音がある。
#別所坂上の六基の庚申塔 、新編武蔵風土記稿「庚申塚、除地五坪、村の東の方、小名別所通に在り」とある。別所坂は江戸時代から多くの人が通り、複数の村境であった。「庚申塔」は、庚申を信仰する庚申講の仲間が建てた。60日に一度来る庚申の日に眠ってしまうと、三尸(さんし)という虫が、体内から抜け出し、神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められると言われ、集まって飲み食いし徹夜した」という。
別所坂 「別所」とは、新しく開いた土地のことを意味し、目黒で、つきあたった所、行き止まりを「べっしょ」といった。 目黒学園高校の南東から、北東に進み、左右に屈曲し、急な坂を上る道。
目黒川、流域は、農村であった時代に、各所に水車が設けられて、製粉や精米などに利用されていた。近代に、品川から水運を利用して、物資を運搬していた。工場を建設する計画が持ち上がり、川幅が広くなっている「船入場」が、その名残である。戦後の高度経済成長期に、工場や家庭の汚水流路となり、ドブ川と化した。環境浄化意識の高まり、各種の取り組みで、今日の状態に回復した。
目黒川下流、五反田一帯は、地盤が低く台風や集中豪雨による洪水の被害を受けやすく、豪雨時に、目黒川の水を地下に一時的に貯留する治水施設「船入場調節池」「荏原調節池」を設けられた。
目黒の歴史、約1万6、7千年前の先土器時代から、人類が住んでいた。縄文時代の遺跡は、目黒川とその支流、呑川とその支流に面した、湧水に恵まれた丘陵縁辺、東山、諏訪山、油面、目黒不動、富士見台、柿の木坂遺跡など40数ヶ所、山の手台地で縄文文化の一つの中心であった。目黒の自然的条件では、弥生時代に、目黒川沿いの低地で、水田が営まれた。台地上は、武蔵野の原野が広がっていた。5世紀頃に、大和朝廷の東国支配が始まり、大化の改新から奈良時代に、武蔵国となり、目黒は武蔵国21郡の荏原郡に属した。この頃、宮牧、私牧が行われ、目黒附近でも馬牧が行われ、駒場、駒沢、馬引沢など、馬にちなんだ地名が残る。目黒の「め」は馬を、「くろ」は畔、馬牧の周囲のあぜ道のことで、馬牧からおこった地名である。平安時代、荘園がおこって、武蔵七党などの武士が活躍し、目黒付近は「菅刈荘」とよばれた。大鳥神社、目黒不動(瀧泉寺)、法眼寺(円融寺)は、9世紀頃に創建され、平安時代の目黒地域の開発や文化の発達は、社寺を中心に行われた。
けこぼ坂、昔の祐天寺道で,祐天寺を経て碑文谷裏に続く、目黒の主要道路であった。 かつて、急坂であったため、切り通しの工事が何回となく繰り返された。道の両側の土手は、高くなり、風雨にさらされて、赤土のかたまりが、ざらざらこぼれ落ちた。この状態を目黒の古い方言で「けこぼ」といい、「けこぼ坂」と呼んだ。
#実相山正覚寺 、日蓮宗、元和5年(1619)に日栄上人によって開かれた。碑文谷法華寺(円融寺)の末寺、元禄の頃、不受不施問題の影響を受けて、身延山久遠寺末になった。仙台の伊達家と関係が深く、4代藩主綱村の生母、三沢初子が、住職4世、日猷(にちゆう)、5世、日登上人に深く帰依した。客堂や庫裡は、初子の邸宅が寄進された。初子は、浄瑠璃や歌舞伎で有名な「伊達騒動」の登場人物「千代萩の政岡」といわれる。綱村も生母初子の菩提を弔うため、保護をした。鬼子母神堂に、伝教大師作、鬼子母神像がある。祖師堂に、11代将軍、徳川家斉が、江戸城中で深く帰依した日蓮聖人木像が安置される。三沢初子の墓があり、尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元に、昭和9年に建てられた初子の銅像がある。
「伽羅先代萩」、政岡の局は、脇谷帯刀(伊達安芸)の妹、幼君鶴喜代丸(亀千代)の乳母で、実子の千松と、主君を育てていた。食事に毒を盛られることを恐れた政岡は、主君の前で手ずから調理して鶴喜代丸に食べさせていた。そこに訪れた八汐が毒入りの菓子を贈り物として差し出した。毒見役の千松は、その菓子の一つを食べ、残りを蹴飛ばした。苦しみ出した千松を、八汐は、千松の無礼をとがめると言って懐中の刀で殺し、毒害の証拠をなくした。政岡は心中の苦しみを押し隠し、わが子を助けようともせず、幼い主君のそばについて守り通した。
中目黒八幡神社、中目黒村の鎮守、誉田別命(応神天皇)を主神、天照大神を合祀する、創建以来の火災で、記録や資料に乏しい。現在の建物は、昭和11年の落成、昔から十二座の神楽を奏する。毎年9月の例大祭に、演目十二座の神楽が奏される。本殿左側に、神社の縁起が刻まれている碑があり、書道家、豊道春海の書、境内に、高さ30mをこえる榎の木、いちょう、けやき、しいなどの古木が茂り、泉が湧き出ている。
#明顕山祐天寺 、享保3年(1718)祐天上人を開山、高弟、祐海上人が創建、当時、新しい寺院の建立は、幕府の厳しい制約があって、祐天上人の強い希望と、祐海上人の努力によって、享保8年に許された。将軍吉宗の浄財喜捨、特別の保護を受け、徳川家と因縁がある。本堂に「木造祐天上人坐像」が安置され、将軍綱吉の息女松姫の寄進、享保4年、大仏師法橋石見の名作である、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」が安置される。所蔵の「般若心経」「紺紙金字法華経巻第三」は逸品である。将軍綱吉、息女竹姫寄進の「仁王門」、阿弥陀堂や稲荷堂、将軍、家宣の夫人、天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など、江戸時代の遺構、建造物、江戸消防ゆかりの「かさね供養塚」などがある。「祐天上人の墓」や柳原愛子(大正天皇生母)の墓、「白子組並びに灘目の海難供養碑などがある。
上目黒天祖神社、古くから伊勢森という。天照大神を祭神、創建年代は不明、境内に、樹齢数百年の老樹が多い。昭和8年に新築され、毎年9月に、例大祭が行われ、伊勢脇町会、祐天寺町会が、氏子として祭事を行う。本殿右奥に、神輿蔵がある。宝永5年 (1708)道標をかねる庚申塔、享保元年(1716)の、2基の庚申塔がある。
地名「蛇崩(じゃくずれ)」の由来は、「新編武蔵風土記稿」によると「昔、大水の際、崩れた崖から大蛇が出たことから、この地名が生まれた」という。また「砂崩(さくずれ)、土堤崩という古語が「じゃくずれ」に転化した。蛇行屈曲した川の状態から「蛇崩」の文字を当てた。蛇崩地域の北側を蛇行する川が浸食した地形がもたらした地名である。
蛇崩川は、目黒川の支流、世田谷区弦巻から東流し、上馬、三軒茶屋、下馬を経て、東横線中目黒駅付近から目黒川に注ぐ。大部分が暗きょ化された、湧水に富み、流域は水田地、豊穰な土地であった。
烏森稲荷神社、上目黒村、宿山組の鎮守、祭神は蒼稲魂命、創立は不明。下馬引沢村の新堀新左衛門が、寿福寺の境内に祀ってあった稲荷神を移した。農耕神、宿山稲荷講の人達が、江戸新橋の烏森稲荷へ参拝に行って、狐が白い馬になって付いて来たのを祀った伝説がある。昭和29年、草葺屋根を瓦葺にふきかえて、雨乞い祈願をして黒馬が一頭奉納した。例祭は、毎年9月、境内に、老樹が繁り、清水が湧出している。
#小川坂 、烏森小学校前から北東に延びて、山手通りに通じる。附近を「小川」といった。坂下を「小川田んぼ」とよんだ。中目黒駅から、山手通りを大橋方面へ向かって、上目黒交差点から西へ斜めに入る。東山と上目黒の境を、烏森小学校のほうへと上る道、弓のような弧を描く緩やかな坂、周辺に、小川家所有の土地が多く、旧小字「宿山」と呼んだ。鎌倉街道が通って、宿駅という意味がある。小川坂も鎌倉街道の一部、目黒川に架かる宿山橋から、目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上り、寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉を目指し駆けた。
東山貝塚公園、付近一帯は、明治期から、貝殻や土器片が出土する。貝殻は、海のものが多く、淡水産は少ない。目黒川沿いの低地が、海であったことを示す。 ハマグリ、シオフキ、アサリ、イソシジミ、ヤマトシジミなど、海水産と、海水と淡水が交じり合う水域の貝が多く出土し、縄文時代に海で、入り江の奥に位置していた。クロダイ、アジの骨や鱗、いのしし、シカ、アナグマ、イヌ、クジラの骨も出土し、狩猟と漁労が行われていた。漁労の跡は、東山遺跡の特色の一つである。
東山貝塚公園、竪穴建物模型があり、公園裏の崖からは湧水が出ており、公園内に池を形成している。池の水は目黒川に注ぎ込んでいる。
#東山貝塚遺跡 、目黒区東山の目黒台北側斜面一帯にある。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代にかけての複合遺跡である。東山貝塚、東山遺跡という。 東山貝塚公園がある一帯は、明治期から、貝殻や土器片などが出土する。貝殻の種類は海のものが多く、淡水産は少ない。目黒川沿いの低地一帯がかつて海であったことを示していろ。竪穴建物跡が、1926年(大正15、昭和元年)検出された。当時、一帯は駒沢練兵場の北辺にあたり、、6地点、13箇所、竪穴建物跡が検出された。土器や石器なども出土した。上屋は、床から四、六本の柱を垂直に立て、桁をかけて、住居の周りから斜めに材を組んで頂点に棟木をのせ、茅などを葺いていた。一軒の住居には四、五人くらいが住んでいたと考えられる。