0302 平治の乱のまとめ(その10)─「葉室光頼の生涯」(続き)

第302回配信を始めますタイトルは兵士 のランのまとめその10ハロの障害続き です えっとまず前回配信の補足ですけれども 前回 ハム室光りの障害としてえ 井上押しの論文 をですねえ途中まで紹介しました ユノイシ 非常に優秀な国学研究者ですけれども井上 市のですね1978年え観光の一時鉄鉄編 中世文学資料と論に乗った論文を途中まで 紹介していますえそしてですねえその際に ちょっとあの はあの読み方の間違いが少しありましてえ 2つあってですね1つはあ 外弁下便なんですけれどもおこ ですねえ 待機の初見は正月2日だがカ記事ではない すなわち実で正弁よりはあ外弁って読んでまったんですけどこれ下便ですねえー本当に基礎的なところを知らて恥ずかしいんですけれども お これまウキペディアですけれども下弁とは 即式野長が設営えジ雷などの頂定における 重要行事の際にえ会場の 会場のその門の外側でですねえ 外側における所についての責任者とそして 門の内側の方は内弁なわけですねでえ内弁 の方がああ 地位が高い区を務めて下便の方が少し下と いうことになるわけですねでえ まその点とですねあとあのこれあの え とですねえ坂太郎氏の論文を紹介する過程 でえ第3章のですね1番最後の部分うん これですねえこのようによりもの発言を 持って兵事の乱の真層救名を可能にする 決定的な資料お と は到と当て見せず帯に歌う860年の封印 をぶるかに見えた桃のこれ1やって呼んで しまったんですけどもあですねあの矢印の 矢であれば 一死を報いの一死ということなんですけれ けれどもここは一戦ですねただあの人命の 場合にはなんかあのねあの苗字由来 ネットでしたっけえそれ見たらあこれで ですね1夜と読んでえ読む家が新潟県を 中心に結構あるそうですねまこれここでは 一戦ですねえ ま私あの独学でやってるもんですからあ ちょっと 読み方などもですねえ きちんとお勉強してる人だったらあ しっかり読めるの基礎的な事項について 読み間違いと結構あると思いますので謝り があったらば指摘していただければと思い ますさてえ次にですねあのハムロの人々 一応紹介してきましたけれども 私がですねなんでこんなにつこくハムロ 藤原三光についてやっているかというと ですね実はあのこの三よりの孫ハムロ三 のに対する興味からなんですねで上級に 際しハムの密地下はあ祖父よりの兵事の乱 における行動を自らの真としたのではない かということでえこれですねあの上級の案 についてはあ以前かなりしつこくやって いるんですけれどもその際ですねなかなか 三川面白い人だなっていう風に思ったん ですねえ三地上級の欄での活戦長本 の1人として え処刑されてしまった人なんですね処刑さ れてしまったんだけれども処刑後になって ですね実は道地はあごばに何度も何度も 還元の所を提出していたと何度も還元した けれども言葉はそれを聞き入れなかったと で一旦言葉がですね爆を決意した以上ま 進化としてそれに従わざるは得ないって いうことでえ実務的な動きは確かにして いるので例えばあの 前を書いたりとかですねそういうことはし てるのでえ結果的にま処刑されてしまった のは仕方ないわけだけれどもしかしえ実は 処刑をあの賭爆をいめていたということが 後になって分かってですねええそれで法女 をヤす時は大変後悔したみたいなことがあ 鏡に出てるわけですねでえその三鹿 の人間像っていうのはなかなか興味深興味 深くてですねえ 2023年に上級の欄について色々考えて みたんですがその際も3つについてはあま この記事を初めとしてですね相当の分量で え色々書いていますのでえ私としてはです ね三地の方に繋がるんじゃないかなって いうような目ろみでも目ろみを持って今三 さんについてえ一生懸命やってるわけです でこここでちょっと並べておきました けれどもハム室家ですねえカがハム秋た そしてえその子が秋よで三よ三マ三地と 続いているわけですねあとですねあのこの ネットでちょっと検索したところ区内所料 部の小森明氏がハムロつぐ 商電というですねえロムを書かれていて これ書部器用73号に出てるんですけれど もこれ非常に良い論文なんですがこの1番 最後のところにですねハムロケのケ図が出 てるんですね アムロケ略ケズ秋た秋より [音楽] 三マ三地で大体その中ナゴで終わっちゃっ ているのにも関わらず3つよりだけなぜか ダイナゴなんですねそれ一体なぜなのかあ 特にその大ナゴになった時期がですねえ 兵士の欄の翌年 A略元年の8月なんですね一体なぜその 時期に道よりがダイナゴになれたのかって いうのがあ今日これからですねえ読んで いくところで1つのポイントになる部分 ですでちょっとこのケ図ついでに見ておき ますと三の子供に三マと胸よりがいてえ そして三マの孫が三地ですねで三大変古沢 さんでえーその 息子に 三年これあの家人として非常に有名な新官 のことですね鎌倉に行ってえঠিক新脳の 歌の師匠となった人ですねあとこのハムロ 佐も非常に有名な人ですよねえこれはあ ごサガの側筋ですね で三地の娘たちすごいんですよねでこの中 にえ土とさ道室がいて中のいい道イラ室が いてっていうことでえ 村上現事とも相当抱えを関わってくるん ですねただこの3つ地下の家計っていうの は後に 断絶してえそしてえ後々までハムロケとし て残るのは胸よりの掛け論なんですねで この胸よりの子供に胸方がいると でえ三地と胸方はえ上級の乱でえ河線長本 の 6人のうちに入ってるわけですねで胸方も 処刑されてしまっていると いうことですねえまちょっと先ばっち知っ てしまいましたがあ ハムロケというのをハムロケはそういう 一族だっていうことをちょっと改めて確認 しておきますそしてですねえ前回の ハロ三入三よりの障害その1その2として え紹介した部分のまとめですがあ三よりは 図の面積え政務に連達し有速に詳しいと3 次検態の人ですねでたしその非常に遅刻が 多くてえ短期で不作法な面もあるとで一切 したのをどってえ来れ方との中は非常に 良好だとであと親族関係はですねより長に 違いんですね藤原の永長の室 講師は秋た娘を母としていてえ三よと講師 は従の関係になるわけですねであと三よの 妹はあの着なモナあ妙員モナですね 非常に大きな運命を辿った人で高生におい ては音楽家として著名な人ですけれども このモナビアの名主ですねえそのモナと 三地の妹が失礼三よりの妹が結婚してるん ですねえということでえ親族関係は近く そして仕事の上での交流も本当に頻繁だっ たということでですねえ石間家の不体率 が言の欄に発展する家程でですねえそれを ま3つよりは間近に見ていてえなかなかあ 考えるところは多かったと思うんですね ただあ結果結論としてえ3つよりはあ より長につくことはなくより長と一緒に ですね滅亡することはなくた道側そしてえ ご ええご大天皇側につくわけですね でちょっと面白いのはより長日記で結構3 つよりに信辣な秘評をしていることが多い んですね方た道は割と密寄り評価していた らしいということですねでじゃあこれから 第2節の方に入ります こちらも丁寧に読んでいきます方言 115633 歳え3月6日参議6月12日美出家えこれ 方は法音の名によってえ出家の技の席を 失られた両院からの森は厚い7月2日法業 8日都暗落順位に法の物事をするに散図え 11日方法言の乱代大料り目られて金のり と共もに備服モインに使いした死したえ9 月13日13日17日 右への神を兼ねえそしてその時にえこれは あ失礼えどボテのこれ方はゴの宇宙弁 剣サイ門のゴの之助ということでえこれ方 とですねえ3よりはあ ませあの人事移動の時にですねセットで 動くことが結構多いんですよね それも方言もちろんこれは方言えの年で7 月2日にトばが死ぬとそのわずか9日後に 方言のランが起きるわけですね まより長が無惨に死んでいくのを見てえ3 つよりも色々考えるところがあったと思う んですね まそれともかく先に行きますと方言2年 34歳正月24日あ大の兼ねると で言3年35歳正月10日小賛三日同日 長金業行省イ後級標によると効果もイごと いうことでこのイごっていうのは多分あの 区業部人の表現だと思いますがあこの時点 で委と言うとですね ドバイはもう死んじゃってますよねそれで えストックインは流されてしまっていてえ ゴ白川はこの年の8月に対してインになる のでえ正月の時点ではまだイじゃないん ですねそうすると一体このイっていうのは 誰なのかとでこれ標機によると交換って なってんですねえっとモインストックの奥 さんですけれどもまこれちょっと ウィキペディアですがあ 効果モはた道のえ娘なんですねでえ方言の ランンっていうのは効果モイとってえ夫と 父親が戦って父親が勝利したあそういう 内乱なわけですねえだから本人にとっては 本当に辛い経験だったと思うんですけれど も ま父親がただ道なので委員はその方言の乱 の直接影響を受けることなくですねえその 地位は保全されてえま本人には出刑する わけですねであとこの人はですね結構な 財産持ちなのでえ 後々ですねその財産を九条金ザネの方に 伝えていくんですよねえだから苦条家の 財産の一部になっていったわけですね まそれともかく続きんでいきます 2月21日午中なうん4月2日門作標への 神えクロードの塔これ方は右表への神と いうことでえ4月2日あ同日付けでえ 3よりが作標への神これ方が右表への神に なったわけですねええまそれでこれ集に 2人の間の増頭家が入っていますこれ ちょっとですね読みづらいんですけども この 矢印でくったものこれあの原部にはこの 矢印じゃないんですがあ原部というかその 井上市の論文にはこの矢印じゃなくてこれ あの小さい字で書かれているっていう風に 私があ 駐車時で書かれていることを示すために私 がつけた記号なんですねでここの部分って いうのはあ密寄り集に書いてあるわけです ねだからちょっと読みづらいんですけども これ種だけを読んでみるとクロードの塔 にて右表の神に成りはビりしを成りはりし をその時ニュードダイナゴン差の左のど神 にて同じ神にて喜び言いつかわしたりし 大りにもうしたりしということでえこの ニュドダイナゴンっていうのが道りのこと なんですねえ三よりはハムデアは珍しく ダイナゴにまで上がってえーそしてその後 割とすぐ出血したんですねそれでニュー道 大ナ軍は三よりのこととおそしてえ このこれもちょっと無視してえこっち読ん でいくと思いきや成り遅れにしこの身にて え教柏ぎの並ぶべしとはということでえ柏 の並ぶべっていうのはこれは表栄の神にえ 並んだということですね兄弟して並んだと でえこちらがあ三よりの返事でイニシエも タグイも嵐我が野に枝をつる柏の森とこの 枝をつる辺りでえ兄弟一緒にっていうこと を言っているわけですねでここ実はですね あの三より右脇は三寄りこの小さい字で 書かれているって書いたのは密よの方だ そうなんですがこれ見るとベッドニュー動 まこれ方のことですねえークロードの塔 にてえー右への神になりてアベリケルを左 の同じ司さの神にて喜びすとでえ で道寄りの方はどうもこ道色の歌は明らか にこっちなんでこれ開始ってなってます から三りが先に読んでえこれ方がそれに 返したように 読めるんですけれどもこの点ちょっと不審 なので後でですね三寄り州を確認したいと 思います密寄り州って20数種しかないん ですねえ 今日ちょっと準備できなかったのでえまだ 未確認なんですけども後でちょっと確認し てみたいと思いますさて続きですイシエも の歌は玉業1092見ええ松の森が影に なっているこれですね柏木の影とおそらく 4月2日以後間もなくであろう5月21日 以前であるのは確かだ5月21日上門の神 ということでですねえ3よりはあ4月2日 に作標への神になってえそしてよく5月 21日上のになるんですねだからこの2人 の増家っていうのはそのわずか1ヶ月 ちょっとぐらいのですね非常に短い期間の 間になされたっていうことがはっきりして いるわけですね え 8月10日これ方参議11日ご白川森人 2条に上位11月26日え門の神これかっ た作の神なお三光よりは4月21日計とし てザに着しぐ遇行 成罰器 え清払いの方がいいんですかね清払い諸国 幹部 優勝員のことを行うなど簡易類に応じてえ 職だちょっと味方自信ないんですけども あとですねあのえここですがあ えっと8月11日に2条が即え2条戦争と なるわけですねで11月26日にえ門の神 でええつい最近までサ門の神であったあ 密りの感触をこれ方が受け継ぐという順番 になってますよね一なのでえ基本的に道り の方が 先に上がってその地位にこれ方がすぐ 追いつくとそういう順番になっていますね え続きですうんこれ方は8月17日ご会員 の因事を目一方三門の恩博博多また恩など いいてえダイナゴン常え別これ方などいう 2人と今鏡の下 の別れにある三角門の恩型というのは母石 え工事2年え 1143 年6月2条艇を生み間もなく母の兄常でえ 従ってお目のとるのはこれ方であろうかあ すなわち母 にとっても自分の母が2条の目のに当たる ということですねでこれから方からは常と 結びまた因の心のぶよりとも連携して因側 の実力者神勢入導と対応する勢いを示した こういう母のエコに遠を踏まえてその力量 によって正解に重きをなしつつあったこれ 方に対して兄の光よりは実務官僚としての 地震と裁判とによって地味で着実な地位を 保とうとしたようだ兄大仲良かったらしい が成功はかなり違うということでまこれは あの2条天皇黒幕説の立場からはこの辺り はちょっと別な評価が可能になるわけです ねえ続いてえ平事元年1959年36歳3 月27日兼別ケビ市別ですねえ10月10 日別士これ方ということでえこれ方は平士 の時点で厳しい別のわけですがそのわずか 2ヶ月前までですねえ三よりの方が厳し ベッドだったわけですねそして三よりに 交代する形でこれ方が厳しいベッドになっ てるわけですねで12月9日夜信より吉友 は上候5章3条殿の野球打ち13日新自殺 14日の吉と天皇してお家によるあ17日 神前の首をさらす熊のモーデに下行してい た清森が急ぎ落したの16日夜ま17日 ってですかねえ常これ方と連絡を取りつつ 対策などを格策した密教の3大は平事 物語りの本によっては15日とあるが19 日の苦業戦技であるというこれ15日じゃ おかしいんで19日ですねえその堂々たる 態度は平事物語の作者が明らかに新時代の 貴族の理想像として学校としていることを 示しているよりもこれ方もこの時には清森 と密かな接触がありその勢いの兄大さを 知り特に繰り方としてはライバル神勢が 倒されておりその後が信ではやりきれない という気持ちもあったに違いないとまこれ あの1970年代の論文ですから歴史学の 水人も ま要するにえ神勢とそして信寄がそういう 謹慎感の争いがあったというそういう認識 のもになってるわけでえ井上もそういう 認識を反映されているわけですね受け 受け入れられているわけですねえ 三よりは 三よ教の3大は三よりのこれ方に対する 言えば確認のための強直なめでありこれ方 がこれによって天皇を用してえ盛り方に 変信することを最終的に踏み切ったものと 見て良いだろう密よりは秩序を文じ合理的 にますぐことを処理する上の官僚であり そういう立場からの三より教の3大に示さ れているような問答はあったと見て良いで あろうということで井上は未教の3大事 物語の道教の3大の物語えストーリーを エピソードを基本的には事実と考えておら れるわけですねでこの部分っていうのは二 条天皇黒幕説に立つと 2条天皇の説得ということは極めて重要に なってえそれを三よがうまくやってくれた ということでえーこの道よりの説得があ 平事の欄の転換点になったわけですね 25日よる常これ方は密かに天皇を内より 脱出させロカ原の清森に移し も忍じに重いたこれ方は体が小さく帰り中 をしたのでえ中古別と 照せられた平事もらったりとこれちょっと ですねこの買い方集めたい ですねあのこれ道藤原のこれ道があ ちょっと面白い冗談めかしたことを言った という形で物語には出てきますねでよく 26日王の戦いで信よ友は敗北するこの欄 によってえ新前信よりという因果の実力者 が失われえ常くれという天皇型の謹慎が乱 の奇数に大きな役割渡したため正解の実力 者としての地位を占めるのである 平略元年11637歳正月1日平乱に より長輩以下の例を止めえ敬語のうちに 疑げありFの苦業は所持物騒により戦を 大した 中ナ兼え門の神光よりはあ1人 これなんて読むんですかね1人水泳 Aでいいんですよねこれはあのエ干の ところにつけるこう垂れ下がってるやつ ですよねえ水泳を なすと云々有識の人なお抜群かこれは玉用 に出てるわけですねえっとま事象5年です からちょっと後の話ですけれども3より だけえたった1人 水泳にしていたと えっとこれ ちょっとですねえ図がないと分からない話 なので ちょっと後でですねえまたあ もう1度ええ確認してみたいと思いますえ 要は 有識有足個日にえ非常に詳しい人だって いうことですねこの辺も有業と豪差と示し ているのだろうとで2月28日参議作標へ の神これ方あゴナゴの常と共に下関3月 11日長へ入る出家え天皇の申請波として 上がり攻撃されて失客ただし両派の逃走は なお続くとまこれも当時の歴史学の認識を 反映されているわけですねえこれ以前二条 天皇の疑いにこれ方下三よりは8月11日 これ近道を超てえ大な略 元年の8月によりはゴ大ゴになるわけです ねで8月22日早計え9月2日体験10月 11日12部人にえ業行 委 に行ですかね別 とありこの日の長金業にイ別として務めを 果たした賞なのであろうよりのこの累は 政務に有能ながら正極の混乱に深く介入せ ずこれ方と関係なくしかもご知ら会員の森 があったからであろうということでこの点 ですね からは正局の混乱に深く介入せずどころか ですどころかあそのこれ方が引き起こし これ方もその仲間として引き起こした政局 の混乱をですね三よが収束させたという ことでえ大変な鉱石になるわけですねそう するとその鉱石に対してえー8月にえー ゴンダイナゴンと過十字流ハムロ一族だけ じゃなくて過十字中全体で初人だという ことで大変な名誉なわけですね ゴンダイナゴンというのはあじゃあなぜ 道寄りが慣れかなえこういうえ役職を もらえたかって言ったらあそれはやっぱり 平事ので大活躍したからじゃないかという のが私の考え方です ちなみにこの子の3つよりはごらか別とし て下しみに署名している因側にあったので ある11月8日道より母の姉 としたら娘えこれ道の全没するにより服 ゲ設置 を建るところ自体え12月4日甲府相との 申請美院法業による拝長の下費を苦業に 過問あり道より消束を持って答えるという ことでえ11月23日にですね美院が なくなっちゃうんですねビッグモインは 1117 年生まれなのでえまだ 50あ失それ44歳の若さだったんですね でえ A略元年11月に亡くなってしまうわけ ですがこれは一体なのかとまなぜなの かっていうかあ 一般的にはビクモインはずっと2条天皇側 にいたという風に考えられてるわけですが 私はですねえ趣旨二条天皇と趣旨内心の 関係をずっと検討してですねもう趣内心を 悲しませたあ2条天皇を備福モインは 決して許すことはなかっただろうとだから 平事のでもう美福モインと 2条天皇の関係は切れてしまったんだろう とでいわばですねこの法業と44歳の若さ での死というのもま噴死ですねき通りに よってですねえ 本当にそれで悶々として悩んでそして死ん でしまったんじゃないかというのが私の 考え方です 美服の関係はあ も崎優一郎何も言われてなくてですねえ そのビッグモインと 趣旨内心のについてのさっき言っと私の 考え方っていうのはま超絶短独説なわけ ですね さてえ続き読んでいきます 応方が安年116138 歳2月28日に春行事4月1日平座は三よ 16日の再員式士内心の5の全区について 定めがあり3よりは自分が明日物事を 指するのでえ身ぼ地に定めたいと言って 指示と苦を混動することはないとして定め られえ全国道よりも加わることになり16 日には地産下が三止してるとこれちょっと よくわからない話ですけどもやっぱり ちょっと3つより頑固なところがあるなっ ていう感じですよねで遅刻してるわけです ねなお8月1日はこれは過十字の間違いだ と思いますが過十字に入って発行を始めた ゴ大な言小 龍の人としては極意極感に登りこの頃仏像 をに心を潜めつつあったのかもしれない ちなみに歌手に次の歌がある過十字の発行 を留守してえはめりける時 路定そうですかね梅の底を草の花という ことを読んだということでえすがるなく秋 の野花の萩が花ゆつゆかけて 俺不に蹴りということでえ あその前ちょっと大元ですけれども 一般的には 一般的にはと言いますかその前年エリア 元年2月 に差事件があって3月にえ 大香門と常ハムの来れ方が流されてえ そしてえ ご白川の ま2条2条の側近2人がいなくなっちゃっ たわけですからあ普通に考えればこの時 からですねゴシカーの陰ということに なって全然おかしくないわけなんですけど も実はこの後ですねえゴ白川2条そしてえ 咲のカ白の道玄博の元ザえこの4人がです ねえ 断固たる決断を誰もしようとしないでえ いわばたら回しみたいなことをやってです ねグダグダグダグダ した政治があ応方元年の8月か9月ぐらい までえ大体1年半ぐらいですねだらだら 続くわけですね非常に奇妙な期間が続く わけですでこの期間まこれ自体がその ダラダラダラき自体が謎なわけですけれど もお 密りがゴ大ゴになるのはそのだラダラきな んですねえまた小2に 登ることができたのもそのだらダラきな わけですそしてえ8月内し9月にどうも 政治的変動があったということでこの 過十字での歌っていうのはあ直前の時期な んですねその政治的な変動がある直前の 時期ですね8月1日だからあなら考えると 結構微妙な時期ではあるんですよねでこの え歌の方はですね最初のすルなクってのは ちょっとよくわかんないんですが 私も若は全然ダめ本当はダメなんで本当 はっていうか こういう歌があるそうですねえすがるなく 秋の木原朝旅行く 人をいつとかまたですは自バ 腰が細いので女性の慶用士となるこの歌で は蜂の覇と理解されている秋の初めの時期 であれば早朝でも飛ぶす軽なく秋の小原は あ宮人から見ると爽やかな美しい風景えな んだそうですねえ ということでえ爽やかな秋の美しい風景を 歌った歌なんでしょうねよくわかりません けど さて続けです7月28日東大事の神聖参加 についてこれ道正田本源本 の正田三よス永あに家紋があった 有に詳しい人々と思われる8月14日北条 11月3日東党員三女拷問門代理譲渡の それぞれ消計となる11月13日伊世業直 を報じ12月5日発 朝方三田三方三あた孝成売ら の一家の人々も多く下行したということで え釘を直死っていうのは伊勢神宮に お願いに 苦業が行くっていうことですけれどもこれ やっぱりかなり明誉な食なわけですねで ありかつ重要な責任の思い 仕事ではあるわけですねで三よりがそれに 出発するのに際ええこれらですね一族弟と か息子たちですねえが多く月行したとえ 神宮訴訟のことの占命を携えたとでえ9日 が3宮の日でえ13日には気落し3大した あ16日少子内心の八条員としに道寄り 以下 も変わったえ少子内心のこれあのはえトば と美福の間の娘ですねえそしてえこの日 8条院になったと如員合戦があって八上員 となった ダイナゴに至ってかなり多忙であるさて 蒸気の見つ方は次難であるがあコキコ文獣 まきさんに見つかった のにてえ着田の祭りごとにつきたりけるに 雨の雨の降りたり蹴るに奥義をさしたり 蹴りえ誠実夕日に向かいてこそ刺すこと にて思いざりケルニアあ父な見物しるが 帰りて三方が事情をかけて立祭り蹴 戦闘あるまずきものなりと言われける 果たして特薄に蹴りということでですねえ 見つ方がですね次難の見つ方が全然その9 時の作法を知らなくてですねとってつま なく変なことをしてしまったとそれを父親 である光よりはですねえしょうがないやつ だなっていうことでえこんなやつでは将来 出世の見目は全然ないっていうことでえー もうやめさせたということなんですねで 見つけた割とすぐ死んじゃったということ ですねで上金12月5日の上に右のす え三方と見え文脈党を見やせても上門之助 と思われるからあ著文中の記事が事実だと したらこの後であろうか家を残すためには レ理の子こそ引き立てるという哲学を三ゆ は確信し実行したことになる で応方法2年 1262 年ですね62年39歳え正月23日目 2342月5日高松陰号定めえ3人直しさ ですねあの高松院これ趣旨内心の2条天皇 の中宮ですねえ二条天皇中宮である趣旨 内心の同性っていうのはあ兵事の乱でえ 2条と一緒に 代理を逃げ出したと逃げえ平事物体によれ ば二条は助装していたっていうことなん ですけれどもその2条と同車してえ趣旨 内心も代理を出たとそしてロに入ったと ここまでは分かるんですがその後の同向が よくわからないわけですねえそしてその 翌年8月に 出血してしまうんですね また21か2の若さで出血してしまうと いうことで非常に謎なわけですねえじゃ なぜそんな事態になってしまったのかって いうのはあ2条え2台の木崎との関係でえ 前に色々考察したことがあります ま私の考えが正しければですねえ高松に えその趣旨内心があ出刑した後もま中宮で はあったわけですけれども 2月5日に高松院の陰号宣言があってこれ でえ中宮であることをやめるわけですね で私はここになかなかのドラマがあったん じゃないかなという風に思っていてそして それを三よりも見たんだろうなという風に 思っているわけですさてえ続きです長官 安年116340歳暴月防日事情を 立て祭る 2年前に ゴ大ゴになってさらに その翌年小2位になるわけですねえ 過十字流としては初めてとハムロケだけで はなく過十字中全体としても初めてという 大変な名誉ある地位これをですね道よりは 割とあっさり捨て去っていくんですねで 長官元年にまず事表を出してそして長官2 年え翌年41歳正月21日許されて大な実 とでその年の8月14日に出血する本名は あ公前後年ですかねえ後離行で現大ナゴ言 から歌を送られたと いうことで40歳で出してしまうんですね で亡くなるのは50歳なのでえまだまだ 40歳の時点では元気いっぱいだったはず なんですけれども非常にあっさりと出して しまうこれは一体なぜなのかと ま私はその え方言の平常のランと争いを見ていてです ねまそれで自分はうまくその波を乗り切っ てえ非常に身分あの身分高い身分を得る ことはできたけれどもしかしなんかそれが 虚しくなってしまったんじゃないかな なんていう風にちょっと想像をしている わけですまそれは小説出なくちゃかけない ことなのかもしれませんがえ次ですねえ A満年196542歳この年以後の春下 ハムロの3章にて出家の後はあなの ちょっとこ混乱があるみたいですねを見て いざやなお花にも染めし我が心さても 浮きよに帰りもするで2元年1166年 43歳3月29日これから召喚されると いうことでえ大かわずか2年でえ戻ってき たんですけどもレムネは6年かかったわけ ですねなぜこの違いがあるのかっていうの は結構重要な問題だと私は思っていますえ 次王2年え1970年47歳今鏡になる この方兄に大ナゴりと聞こえたし 42ダに行くもあまり玉ざりしに頭下ろし てカラの里にこもりたをなれえそれは火用 のことにかかりうことなく何事にも良き人 と聞き立祭りしに糸にありがたき見心な 見心なるべしということでえ今鏡はですね 政治的に微妙なことは全然書かなくてえ みんな綺麗にまとめちゃっているんでま こういう表現になってるわけですね えジョ年117148歳漁の上に秋方あ 叔父吉 従子があ成に言としてえもうしているには 息子ですねあ失礼弟ですね三よりが最も 愛している胸より三よりはなりよりを用し としよりは道よりだ胸よりを容姿としたを 着損として立てえ日記文等をなりよりから 譲らせたいがあ三マが兄であり常老なので 言いがいおみの上よろしくといった記事が 見えるとここはちょっと分かりにくい話な んですがえっと 三よりの息子に三よりの弟に成よおよりが いてえよりはですねいきなり息子に自分の 日記文と伝えるんじゃなくて一旦成よりを 用姿としてですね弟成よりを用しとして そこに家の文章を継がしたとで今度成より がですねえ道よりの 息子の胸よりを容姿にしてるんですね だから随分遠回りしちゃっているわけでで 結局のところ日記門所党はあ ハム室の父であるところの三マにはいか ないんですね えまこれもおそらく 水よりにとっては 胸よりの方が優秀に思えたということでえ そちらに文章を伝えるために ちょっと面倒な手続きを取ったということ なのかなという感じがしますでなりよりが 兄より文章譲られたことは部人元念に 見えるとでこの何よりもすぐ出血しんです よね あすぐぐっていうかあま少し後で出血する んですけども上2年49歳12月24日 家明没家明会の歌が道に見え るっていうことでこれ家明っていうのはあ 家なりの息子なんですねえ後の市条家に なる ま委員禁止の中でも最も不裕として知られ た市場家の お 家なりま市場権家っていうのはちょっと後 の言い方になるらしいんですけどもま家 なり美院の側近として非常に有名なですよ ねとばあトばイ及び美院の側近として有名 な家なりの息子なんですねでこの家なりの 妻があ三よりの妹ま姉妹なんですねだそう いう関係でえ三よりはあ家明とも交流が あってそして歌いなどにも参加してる らしいですねでえ49歳この年よりヤむと で翌年死んじゃうんですねえ上半3年 197350歳正月5日ハロの谷の相和2 で没つう 母は現在であった正月6日玉 入道大ナ言より昨日公去と云々父言 えすなわち同日なり不同日公挙 そのちぎり最も あれむべきことかですかねあのこれ父親あ 父親があこれ別に同じ印なんじゃなくて もちろんそうじゃなくてあの同じ 年は違っても同じえ月日に死んだという ことなんですね正月5日に死んだとそれが ま素晴らしいことではないかという風に 玉業には書いてあるっていうことですね 三よりの弟三民 なりよりはよく上案4年正月5日兄府の1 階期にあたって出刑して荒野にこもったと え この辺り あの平形物語あ書いてありますねこれも 母大心であった39歳平物語さんにその 記事が見えるということでえこれ後で ちょっと紹介しますけれども平気物語の方 はあ なりよりに 同場的っていうかまあかなり詳しく色々 書いてあるわけですがあこの点ですねえ 自園の具にはものすごく即けなく書かれ てるんですねこの出の話があなりより出刑 の話がでやっぱりジはですねちょっと ハムロケに含むところがあったんじゃない かなっていう感じを私は受けていてえま それいっぱいハブロケに対する反発が いっぱい書いてあるとかそういう話じゃ ないのでちょっとま深読みすぎなのかも しれませんけれどもまちょっと微妙な話が え具にあるということですねでえ三よりは 三よの成よりは39歳で出血してしまうと で三田三マは順調に住んで文地元年黒労働 の党であったが12月29日室の創生した 寄友の追の戦事ハップを直接武業したので 下え変わってより友はあろ家の肝心として 胸を拠し胸よりの金ザ県家県に所した記事 が玉2年え正月27日の上に見えているえ 三よりの門電は成よりを経てその容姿 胸よりが持ち再悠長真層御民なのだがあ ご川員の疎により玄関足りえずシになって も無かんで寄り友の水居でえな教となった あ金ザは胸よりの洋父なりよりは我が家に 中であり胸よりに金座にさずに住めたのだ という なおおよそ過十字の夜から大大失世の 家より 身いですかねなんて読むのかあるに秋た 秋より三よりと人えに これちょっと読めないんですけども 総書ですね 云々の興味深い木地丸要は過十字の連中 っていうのは石管権に使えていたのにその 秋き方秋より三よりとのハムロ家の人たち はあ石管家とはちょっと距離を置いてです ね べったりだっていうことを言ってるんだと 思いますで三マは胸よりの兄だがあ父の 所用胸よりに及ばず 父の持ちゆるところを身るに及ばずですか ねとも見える隠して密けは三とえ胸より龍 に分かれえ明治まで続いたのは校舎である ということですね えっとこの後第3節に入ってカ人としての ハム室 についての若干の説明があるんですが ちょっと時間の関係でだいぶもう長くなっ てしまいましたのでえ今日の配信はここ までにしてですね次回配信でええ 家人としての寄りについてえ少し検討した 後 できればちょっと3土地との関係なんかも ですねもうちょっと深く 述べてみたいと思いますえ今回の配信は 以上とします

一、前回配信の補足

0301 平治の乱のまとめ(その9)─「葉室光頼の生涯」〔2025-06-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e70551d59f44bdac4d0602d9c45f261e

一箭(いっせん)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7441a29dafede740bcd85cf203e42465
※但し人名では「いちや」とのこと。

外弁(げべん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%BC%81

葉室家の人々

藤原顕隆(1072‐1129)…白河院の側近、「夜の関白」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%9A%86
→藤原顕頼(1094‐1148)…鳥羽院の側近
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%A0%BC
→藤原光頼(1124‐73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E9%A0%BC
→藤原光雅(1149‐1200)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E9%9B%85
→葉室光親(1176‐1221)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E5%AE%A4%E5%85%89%E8%A6%AA

承久の乱に際して、葉室光親は祖父光頼の平治の乱における行動を自らの指針としたのではないか。

流布本も読んでみる。(その59)─『吾妻鏡』六月十五日条と七月一日条の「申請」と「宣下」〔2023-07-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9da3b4b279bcc07a3ddfb652c4994a

「葉室光頼の生涯」(その1)(その2)のまとめ

頭脳明晰、政務に練達し、有職故実に詳しい。
ただし、遅刻が多く、短気不作法な面がある。
一歳下の同母弟・惟方との仲は非常に良好。
藤原頼長(1120‐56)の室・幸子は顕隆女を母としており、光頼と幸子は従姉弟。
妹は頼長の嫡男・師長(1136‐92)と結婚。
親族関係は頼長に近く、仕事の上での交流も頻繁。
ただ、頼長は日記で光頼に辛口の評価。
摂関家の父子・兄弟対立が保元の乱に発展する過程を間近で見ていて、考えるところは多かったであろう。

二、井上宗雄氏「葉室光頼の生涯」(続き)

資料:井上宗雄氏「藤原光頼の生涯」(その3)~(その5)〔2025-06-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ade35132f176461c61150b2095e17d6a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63852ef9ec4009c5e07418018c75f133
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/caa1c4b8b6e4ddc9d4d591ab48e8d46a

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