第13回浪江を語ろう!【編集版】

はいそれでは時間になりましたのでえっと 始めたいと思いますえっと本日は第13 回片郎にお越しいただきまして本当に ありがとうございます今日はね結構遠方 からも来てくださってる方もいらして本当 にねいろんなあの町内だけじゃなくま いろんなところからこう集まってくださっ て本当に嬉しいですいつもありがとう ございます で私あの本日司会を務めます三原幸子ですよろしくお願いします ありがとうございますはいそれでですねあと本日の報告者は西村慎太郎さん近江町の農業二宮司法は成長したのかというテーマで今日はお話しいただきますよろしくお願いします はいそして鈴木さん受け川流域の農業要水の歴史的展開をについてお話しいただきますよろしくお願いします はいそれではですねまずは西村新太郎さんよろしくお願いします はいただご紹介に預かりました西村でございますよろしくお願いいたします えっとま毎回報告をさせていただいてるん ですけどもえっと今回はあの波江町の中で も農業っていうところ今回あの1さんが メインですんであの農業っていうことを軸 にお話しできたらなという風に思っており ますよろしくお願いいたしますそれでえっ と実はサブタイトルのとこが重要でして なんであの二宮司法は成受したのかって いうタイトルにしたかと申しますと実は 自分の中では2つの素朴な疑問がありまし てまず1点目ちょっと2年前の話なんです がえ第27回全国法徳サミットの総マ市の 大会においてえ立也あ市長がですねえ発言 がなさってるのをちょ自分の中ではあの 不思議に思ったとか違和感に思ったのでえ ちょっとそれを皆さんとして共有したいと 思いますえっとこれえっと民法さんに載っ てるお話なんですけどもえ東日本大震災と 東京電力福島大子電子力発電所事故発生後 市民生活の状況や対抗策を振り返り市民ら の知性と有効自治体からの水まいわゆる このどちらも後でもお話ししますけども いわゆる二宮司法えのお話なんですがの 支援に励み復興を進めることができたと いうようなお話がございましたでこれだけ 聞くと全然なんかあの悪い話ではないん ですがそもそもあの井宮と震災復興を 重ねる根拠ってのがよくわかんないなと いう単純な疑問がありましてちょっと僕の 中でもこの辺りを少し考えたいなって思っ たのが素朴な疑問の1点目でございました でもう1個の2つ目の素朴の疑問はこれ ちょっと自分も関わった話なんですけれど もえっと2025年の波浪山町の景官計画 のパブコメの話がございまして実はあの えっと僕も協力させていただいております え一般社団法人波浪地域文化フォームって いうところでパブコメ出させていただき ましたでその内容ってのはえっとまいくつ かあるんですけどもえ景官計画でかなり方 を持ち上げてるような話がございましたで ただとは言っても町内におる井二宮による 水電の広上がりっていう評価のエビデンス ま要するに根拠となる実は顧問が全くな いっていうのが現状でありますでそう言っ てみるとま捏造された歴史認識と言わざる を終えなくてなんで二宮市の評価っていう のがあるのかって考えるとま明治事態に 至っていわゆる国民の金労とか近面意識 っていうのを推進するために想像された もってのはあのすでに歴史額で明らかに なってるのでこの辺りはちょっと違うんで はないかっていうことを景観計画の中でお 話しさせてあのパブコメントの中でお話し させていただきましたでそれに対して街側 としてはえ調子の中に書いてますよって あるんでで調子改めてめくってみると実は やっぱり店長になる資料が定示がなくて かなり推測に近い部分になってるなという 風に思いましたでそういった点に考えると 今回のこの二宮司法ってこの波江まダメ 懲役っていうのは全然商売になってから出 てきた懲役ではありますがま今回一応波江 の皆さんと一緒にこの問題考えたいなと いう風に思いましたんであえてこの長域に こだわりまして二宮仕様とはどういう風に なものなのかっていうことあとどのような 成果が上がったのかっていうのを確認して 今回のえま僕の疑問ですねを解決できたら なという風に思ってるとこであります で今回えっと時間といたしましては30分 40分お時間いただいておりますのでえっ とこの4つぐらいのことを考えたいなと 思っておりますまず総馬の人口減少と移民 政策これ何回か前のえっと郎で調査さんに お話をいただいた部分ともちょっと絡むん でそこを改めてお話しさせていただきたい と思いますであと江戸時代の波江懲役の 人口について考えようとあと二宮社 そもそも何なのかっていう点を考えようと で最終的にこの懲域において二宮司法って いうのはどういう風な影響があったの かっていうのを皆さんと一緒に考えてみ たいなという風に思っております でまず最初にえ相馬管量の人口現象と移民 政策というお話あの非常にえ基本的な話で あの町民の方々は結構あのご存知の方も 多いかもしれませんしあの太郎でも詳細 さんからお話をいただいておりますのでま ちょっと改めて復習的な部分で考えていき たいと思います案は人口減少っていうの実 はかなり激しくてえ江戸時代の真ん中 172年に人口相場半量においては大体 9万人ぐらいの人口がいたということが 確認できておりますでそれがええっと18 世紀の真ん中ぐらいになると6万9000 人ぐらいまでえ少なくなってしまっており ますあすいませんあのいつも言う話だった んで今日省略しちゃったんですがあの全部 今日え出るデータとか写真とかはもう巨落 撮ってるものなのであのスマホとかで写真 撮っていただいても全然構いませんので あの是非利用いただければという風に思い ます でそれが点名3年すなわち点名の基金が 起こる直前で大体5万人弱ぐらいまで減っ てるという状況がまこれ研究で既でに 明らかになりました でそういった点で言うとこの相馬班の人口 原子を改めて考えてみるという点で言い ますと歴史人格っていう研究分野があるん ですが大体江戸時代の真ん中の方年間 いわゆるアバレ防将軍のあの時代でござい ますけれども1716年から1736年 あたりから天名の基金であります1780 年代までの間に東北地方全体では20% 人口が減少しているっていうのはすでに 歴史人工格の中で明らかになっております でお話ししました天名の金ってのは点名2 年から点明7年の間でございますけれども これにつきましては実は総馬班の中の人々 でバースコントロールま簡単に言いますと 打体などがかなり広く行われていたって いうことが研究の中で明らかになっており ますで一般の人たちがえま生活ができない ため生活が困窮しているっていうことを 含めて特に生まれてきた赤ん坊の中でも 女性の場合捨てられるあるいは殺されて しまうというような打体が非常に進んで おりましたでただそういうことすると本当 に人が減ってしまうっていうんで反の方で は反が対策をしました名6年1786年に 打体をすることに関する現金まその原罰化 というのを行ったりとかあと妊娠したら 着体届けと呼ばれるそういったえ届けを 出さなきゃいけないっていうのを義務化 するあと母子安全のお守りというのを反 独自にえ実際に発及する発するということ を行いました多分この辺はもしかしたら 地元の方々からするとえ著名なところかも しれませんでも波浪神社の神社のえっと経 の中に幼馴染神社っていわゆる小安なんか もあったりしてこういうところにま関係り をしてでお子さんがちゃんと育つようにと いうようなことなんかもっております ちなみに全国的にあの歴史人口学の研究で 申しますと人口の変化というのは18世紀 前半から19世紀仲間まで西日本はえ人口 は上昇しておりますかなりパーセンテージ とは大きくて10%以上上昇してる一方で 東北とか含めた東日本ではえ10%ぐらい 加工しているっていう現状が明らかになっ ておりますでまたいわゆる三大基金という 風に呼ばれます転名転方の基金においては 九州四国中国地方以外は減少していると いうような状況がすでに研究の中で明らか になっております でその中で相馬班の移民政策ということに つきましてちょっと少し考えてみたいなと 思っております少し深ぼりさせていただき たいと思いますえ19世紀の頭の段階で 当時の過労でありましたという人物は 新百手を取り立てということの検索を行っ ておりますこれどういう検索かと申します とえ簡単に言うと次難房3難房取り立てて いってそしてその人たちをえ100勝とし てえ12万にさせていくというような政策 を行うという動きがありましたただこれは 当時の阪種でありました総マスタレという 人物によりまして拒否されていてまそれを 受けてという感じで過労が食実ということ が行われておりますでこの過労はま自分で 実際にじゃあちょっと半は関係なく自分の 財産で持ってえ移民政策っていうのを実行 しようということを行いましたでその時に 行ったのがこの東福案というお坊さんで ございましてこのお坊さんからに依頼をし まして北陸地方から対応の移民を周知 しようというようなことを行っております あのそれこそこの後でお話しいたします 鈴木ひさんのいまさに移民のでございます のでそういった人たちもこうこの タイミングでえやってくるというような 状況でございましたで3年から4年の間に 50個の人々が移住してきているという ことが成果として挙げられたのでじゃあ もう1回このあのお殿様の方としては じゃあ彼を取り立ててやっぱりこれ反の 政策として移民政策やろうじゃないかと いう風に行っていきましたでさらに移民 政策進んでいきまして分年間1818年に 基まあるいは気発建という風に呼ばれて おりますからこの気釈書という風なことを 行っていて文系を省例するという動きを 見せましたこれちょっとすいませ時間が ないのであの省略しながらなんですもま 簡単に言うとどんどん文系を育てていこう と文系の人たちをえちゃんと1人育てる ような政策をしようというような動きを 見せましたただとは言ってもやっぱり なかなか移民政策なんかも進めてやって いくんですけども一方で移民としてやって くるんですがまもう1回いなくなって しまうお金がもらっていなくなっちゃうと いうようなことなんかもあったりしていっ てはまあ一応160件の取り立てはいった んですがなかなかうまくいかないという ような現状が見受けられましたですんでと してはなんとかしてこのお金をできる限り かけないでいって移民政策進めていきたい なというような動きを見せましてこのお 頼み立て100勝という動きをしていき ますこれ分12年の話なんでもうちょっと 後の時代になりますが1829年に地域の 在人すなわち地域にいる武士であったりと かあるいは百省の中でも特殊家の人たちに お金を出してもらってそういった人たちが 世話することでえ新たな文家とか移民を やってこうというような動きをしました ただ半としては一応お金を出さなきゃいけ ないということで金500両を準備しまし てで1点ごとに新しく取り立っていったら 金10両半が支出するというような動きを 見せております でとして50件をとにかく取り立ていって 320国の開拓を進めようというそういう 動きを見していきました例えば今日皆さん がいらっしゃっていますのあの波江町 ご前道村の場合ですとお頼み省の受け入れ 人としましてえ渡辺人在門これあのそそ 埋め田商店ですねあのガソリンスタンド さんの5天文の家だとかあと八たあと小畑 だそういった在人プラス100勝の省門 さんこれこの100勝の人なのかちょっと 分からないんでこれ是非あのご存知の方で お教えいただければと思いますけれども こういった人たちによって新しい100勝 の人たちの取り立てというのを進んでいき まし では当時の波江の宿場ですねこの辺 りっていうのはどういう風な感じだったの かっていうことを 大原優学という千葉県のまいわゆる特家で あり農学者である人物の日記から彼の大原 曰惑という人物はこの辺りを回損してこの 辺りの地域どういうとこだったのかって いうこと一気に記しておりますので ちょっとそれ見てみたいと思いますえ 熊川区より2里鎮山を超えか原のごとく なるは278年以前3村津波に取られ核の ごと言えるなりまた猿る基金の説これは あの天名の基金の話ですも猿る基金の説死 耐えたる家ごとく破れあるいは電池荒れて 武蔵野にかぼしそ中にも高野区これ現在の 名のことが荒野しと当時言われておりまし たの前後は取り分けて鼻しく電池は野原と おし中にわずかに1/10もありなし者と いかにも哀れなる様なりていうかなりあの ひどい状況だったというのが記されており ますこのところの道に右にえ道の区の高瀬 の清水着てみれば青いの茎の北に子慣れの 日がありの歌と言えこのところ青井の松 とて名所なりこれもこの度知らず通りのと いうことであのヨ原にも全然知らなかった んだけどそこを通りましたってこれ書いて ありますでそれより高屋恵比寿や恵比寿や 忠なりお昼ご飯を高屋敷で食べいうこと ですねで新山よりこの新山というのは現在 の二倍機の辺りのことが新山という宿場で ありました新山より荒や次義犯りという風 に記されていて今日お話の中で言いますと これ大原枠書いたのが憲法年間なので 1830年代にこういう風に死に耐えてる 家があってでそこがもはや原になっちゃっ てるんだよだよということを日記中に記さ れておりますでこの今回赤字で記してます 高と呼ばれる現在の波江の辺りにつきまし てちょっと今日は深掘りして見てみたいな と思っております今日の2つ目のお話で ございますも江戸時代の波江町あくまでも 波江域に今回限定してお話をしてみたいと 思います波江懲役の人口がどういう風な 推移をしたのかということを皆さんとして 見てみたいと思いますこちら現在の波江の えっと外枠が全体の波江の場所でござい ますで赤くなってるところは現在の大技 ですね今日先ほどあの万山房さんいらして いただいてえっと大技市江町権源堂である とかあの僕は執筆しております大技市あ 大技市ボテであるとか売っておりますので よろしかったらご覧いただきたいと思い ます赤でクリックとかは全部え大技レベル すなわち金村金世の村のレベルのところで ありますで今回まず最初に天名の基金以前 のこの辺りの地域の人口を確認しようと いうことでえ天名3年の基金以前の人口を 見てみたいと思います基本的な市場とし ましては子と言われますえ現在の東京大学 資料編産で所属されております社本を用い た確認あとそれに掲載されていないもので 申しますとえ先年ですね東北大学東北 アジア研究センターの方でえ村雨というの を作っておりましてそちらの本からの店長 あとえ今日の先ほど話は万山坊さんの出し ております大渡市に物た1号に物た村の話 も載っておりますがこれらを全部駆使し ましてえ現在の波浪の人口の天名3年版を えちょっと確認してみようという作業を まずさせていただきましたちょっとあの えっと全体広いので全部で4分割しており ますまず海側浜川の方見ていただきたいと 思います例えばこんな感じで棚を受け戸諸 という地区の辺りですね全体でこういう風 な感じの人口がおりましたというのは現在 でもあの女行として非常に盛んであ現在も すいません先進前旅行としても非常に盛で はございましたけれどもえ多くのま漁村と いうよりもえ東回り高路非地として非常に 有名なところでありましたここから様々な 物流がに担っていられるようそういった 場所でございましたまちょっと簡単にこれ ぐらいな感じの奇数というかえ人口があっ たと思っていただきたいと思いますあと 少し内陸の方ですねえ北清橋とか木橋と かっていうあのいわゆるあの町場の方です ねなんかもこれぐらいの数があったと思っ ていただきたいと思いますあのこの辺り ざっくりと見ていただければと思います あと中心地のゴ源村の辺りとかその後に 近くの西台と言われる辺りとかですね こんな辺りはあの後でまたこれとの比較を お話ししたいと思いますがまあまあこれ ぐらいの自数がありましたよというお話 だけ確認させていただきたいと思います やっぱり中心地のゴドラは当時85件 ぐらいの奇数があったというのが確認でき ております後でお話しいいただきますえ1 さんのお住まいの川沿い村ですね16件 あったというのは確認できておりますあと それ以外にちょっと山川の方ですねまあ まだまだ平置部分なんですけどもカリアと か室原とかその辺りの文字数あと山川の えっとお丸とか井とかあと相ま駅で有名な 大とかかこれぐらいの人口がいましたよっ てことを確認していただければと思います あと山川で言いますともうこれ津島の方に なりますが川物とかこの辺りですね あと山川の津島地域でございますえ千年 大技市が観光されました赤木とかですね 34件とかいたなというのが確認できるか と思いますちなみに現在の南津の辺りは これ見春業なんで今回の資料にはすいませ ん残念ながら載せておりませんでこれが 転名3年18そう17843 年のえ人口でありますでこれから爆末 1861年ですねの辺りの資格を確認して いただきたいと思いますえっとここでは軍 とか移民政策も進んだりとかあと二宮仕様 なんかも進んでますよという時期に該当 いたします先ほどと同じように海側から見 ていただきたいと思いますが分かりやすい にするためにちょっとあのえ黄色でなっ てるものっていうのは人口が上層してる ところあと赤字になってるのは人口が 15%減ってるところで赤字で河線が引か れてるところは25%になってるとこで さらに赤字プラスちょっとなんか黒っぽい 感じのとにかくあの人口がめちゃくちゃ 減ってるところはさらにそれにえを引い てるという風に思っていただきたいと思い ますで海側の地区で見ますとえっと二宮 司法をやったりとか移民政策をやっても 基本的にこの辺り全体に人口が減ってます えっと物が1番ひどいんですが35% ぐらい人口が減ってたりとかあと受け戸と かも減ってるんですも先ほどの下町であり ます北の辺りもやっぱり25%ぐらい人口 が減ってるというような感じでございます でさらに街のあたり確認していくと 実は平治部になると人口が増えてるという 条項ど状況が確認できます例えして いただいております原さんがお住まいの ご前道というとこなんかも人口増えており ますし先ほどえっとこの後ですねお話 いただきます北根さんが住んで いらっしゃる川沿なんかもやっぱり人口は 増えてるというような状況先ほどの海側の ところはかなり減ってるのに平置部になる とむしろ上がってるということが確認でき ますさらにちょっと山側のところを見て いただきますとま兵気が繋がっているま 田尻りとかその辺りは若干増えてるんです がむしろどんどん山肉に従がって人口が 減ってるという現状が確認できるかと思い ますでさらに山の方を見ていただきますと 津島地域ですね人口はやっぱりこっちは どんどん減ってるえ赤木であるとか津島 なんかはかなり人口が減っててで初覧と もう人がいなくなってるというような状況 が確認できますでこのような状況から考え ますと18世紀から19世紀にかけまして の波江懲役の人口の変化を特徴としてえ 確認しますと権道村すなわちこの波江エシ があった辺りから大堀の平野部は夜数が 非常に上昇している天面の基金で落ち込む もののやっぱり移民政策によって回復して いるという状況が言えるかと思います一歩 で沿岸部とか三カ幹部では夜が減少してい てえ35%以上落ち込んでる地域なんかも あるということが確認できますまた元々 夜発が少ないんですも発手なんかですと もうそこが配損化してしまってるという ような現状が明らかになりますでこういう を見ますと今あまりの単にえ人口の定け だったんですがじゃあ二宮司法って一体何 をもらしたのかっていうようなお話を今日 この後ですねしてみたいと思います二宮 司法とは何かという点ですよくやろ二宮 金次郎という人物はおそらくま僕も東京の 出身ですけれども小学校ですと二宮近畿老 があったりとかするのでなんとなくなんか 二宮法徳地法という言葉を知ってることが 多いかと思いますでこれ何かって申します とちょっと自称的な説明をまず最初にさせ ていただきたいと思いますえっと二宮司法 あと法徳資法なんても呼ばれますけども 二宮徳ま二宮金次郎ですねの思想を寄り所 にすらした村や家の復興政策あるいは復興 運動のことを二宮を法徳しようという風に 呼ばれておりますで法徳仕の原理っていう のは金権約分度水上という風に言われて おりますこのうち分度というのは各自に ふさわしく支出の限度を占めること水上と は将来に備えてまた他人のために収入の 位置を譲ることでありますで後輩した損落 の復興を図るものでそれはしばしば極めて 有効であり近代化していく日本の地域社会 に形成されるべき秩序のモデルという風に されましたこれ国士大事点というま歴史 研究やる立場からしますとあのよく使う 時点なんですけどもそこでえ思想しを決定 しております安丸吉尾さんが執筆してる 部分でございますではこの井宮っていう ものをこの相馬班はどういう風に導入して いったのかというのを見ていただきたいと いう風に思いますこちら清橋小学校の二宮 金労働像ですね現在でもえまもう小学校は なくなってしまいましたけれども現在でも 残されております まさにこん中でも出身者の方も いらっしゃるかと思いますけどまず二宮市 を最初にどういう風に導入したかと申し ますと1839年9月に阪市であります富 富田高吉富も呼ばれますがえ二宮の凡人に なっております そしてその後え過労でありました草の精神 という人物が二宮金次郎に面解をいたし ましてそして実際にえ二宮金次郎のま教え というのかなあの反の中でどういう風な 全習があったのかという調査というのを 1665年のものからずっと調べていくと いう話を反の中でやっていくことがあり ましたそしてその結果あ二宮金次郎先生が 言っているこの文度っていうのはよく 分かるなと是非これをやってみようという ことで井宮仕の導入というのを実施いたし ますでここからがちょっとカルトっぽく なっちゃうんですがえっと2年にとにかく まず反の方の山川のところで二宮をやって みようじゃないかというので現在の飯立て の草野というところの草野村をやって みようということに実施するんですがこれ いきなり二宮ছিল郎はいやそこやめよう とそこじゃできないぞというので実際に 津田と成田っていうところにしてください という風に近郎が連絡がありますで ちょっとこれを少し場所で見てみますと これGoogleアスから持ってまいり ました今お話ししました草野という場所は すごい山の中の部分でございますこれです ねこちらの場所は草野というところですえ 現在の飯立館村の中にあるところでござい ましたで今こう二宮健二次郎がちょっと ここ山なんでやめてくださいというんで やり出したのがこの成田と壺田っていう 結構街中な場所えまある意味いいとこって いうかでやっておりますこれがちなみに今 まるで囲ってあるところがこれが相馬の殿 様がいる中村町のところであります結構 城下町から近いところでありましたでなん で二宮金次郎はこの草野村でや るっていうことを反対したのかって申し ますと えっとこれ二宮金次郎の書いてある文書 そのまま持ってまいりました地方法の道は 善を消し不能を教わる で人風俗ともに全備をして軍中の悲観とす べき村を選ぶ で草の村についてはこの村は浄化を 隔立てることを名り山 の中にありとたえ天の恩恵音託を敷き数年 を経って 給復すると言えども両村なんぞ分の無料 などを見分することを縁ということでもし 草の村でやったとしてもそれをしかも復活 させることができたとしてもそれがもう殿 様の恩に破するということは言われること がないんじゃないかということで二宮 金次郎はまある意味草じゃなくてもっと 恩恵ができるとこでやるべきなんだという ようなことをしましたこれ実はある意味 二宮版の復興の選択と集中に他ならないと あんまりあの実は二宮金議をみんなに平等 に復興しよってんじゃなくてもやれるとこ だけやろうというような発想でございまし たまとは言いましても井宮金郎の成果って 悪くはなくてえっとやっぱり開拓した スペース開したスペースっていうのは全部 で1379兆あったりとかあと夜活も増え てます1135点になって人口も2万人も 増えてるという意味ではまある意味成功は してる部分がありますでただ両内相馬量 226仮想あるんですけども二宮司法を やった村ってのは実は101しかなくて 半分行ってないでしかも成功したのは55 なんで1/4にしかなってないということ でございますで今日の最後のそろそろ締め の方に行きたいと思うんが波江町域におい てじゃあ二宮をどれだけ成功したのって いう点のお話を最後にしていきたいと思い ますえっと冒頭にもお話ししましたが実は 町内において二宮仕様に関する資料って いうのがあまり残っておりませんえっと今 ちょっと調査してる中で言いますとこちら ですねあますかえっとこれあの梅田商店 さんですねあの渡辺Aさんの渡辺えっと ガソぎさんあそこの小文所なんですけれど もあの渡辺は二宮にま頑張って人力をした んで褒美をもらったりしているっていう そういった資料がわずかに残ってるだけで 実は懲域の中ではあんまり資料が残って おりませんでま今後またあの我々活動する 中でえちょっと町内の顧問もうちょっと 色々と確認したいなと思って今進めてい たりとか教育委員会さんと一緒にやって おりますけれどもやっぱり二宮仕様に 関する顧問所ってのは少ないで冒頭でお 話ししました通り長子で書かれている評価 がやっぱりなかなか天不明だなという風に 思っておりますでまた先ほどと同じように じゃあ二宮町内どれぐらいやったかという お話をさせてもらいたいと思いますえっと 黄色が司法を実施して実際に成功した場合 あとプロジで書いてるところはこの後え 司法は実施したけれども性格上がんなかっ たとこ性格上がったとこで赤字はそもそも 二宮をやってないというような感じで分類 しますと 塩とかもたっていうのはそもそもやって ません受けるんですけどもそもそも成果が 上がってませんでしたでその点で言います と高瀬ですねえ先ほど高瀬の清水なんて話 もおたかしましたけどもあそこは実際に 成功してますでそれ以外は実は成功してい ないってのはこの浜側の場合でございます もうちょっと内陸の方見てみたいと思い ます権のなどは実際にやったりもしており ますただ実際の成果っていうのはちょっと 分からないというのが現状ですでそういっ た意味で言いますと後でお話しいただき ますえ人根さんのお住まいの川添なんかは 成功してるという事例として出てきており ますあと牛とか日渡しとか来月ボンドに ありますがボンドに参加しますがとその 辺りの牛とか日市の辺りも成功していると いう事例がありますでこれがもうちょっと 山川行くとどうかと申しますとこんな感じ ですねえ田入りとか末の森あと大堀の辺り はやって実際に成功してますがやってない とこも多いという感じでございます さらに山川の方を見ていただきたいと思い ますが津島地域は一切やっておりません どこも法徳市をやってないま先ほどの話な んですけども隣の飯田の草野なんかですと 全然やらないというのと同じようにこちら も全然できていないということが伺えるか と思います でそういった意味で言いますとこの懲役に おける二宮司法の特徴ですね ざっと出したいと思いますがえ南江町全部 で31箇所江戸時代の村ま今で言うと大技 がございましたこれ南津島覗かして いただきたいと思いますで地方をやったと ころってのは18過損ま半分ちょい超える 感じで成功したのが先ほど終わらした川添 とかわずかま3割いかないぐらいで そもそも司法やってないっていうぐらいも かなり多いという風に思っていただきたい と思いますで早い時期に司法をやり始めた のがやっぱ平野部人口が増えてくような 平野部のみでございましたで沿岸部とか 三カ幹部はそもそも指標を行わないか爆末 の再末期にやり始めてるということが確認 できております でえ実際にをやって成功したところとその 夜数が増えたところっていうのを簡単に まとめて落ちましたまこんな感じで夜数が 増えていってある程度の発展が見込めた ところなんかもあるかと思います 一方でま実際に二のを行ったけれども制御 しなかった成功しなかった村というのも ございますでそもそもやっぱここなんです ねそもそも実施してないやってないって いう村がかなりやっぱ多くてえそもそも そういったところは人口減少してるんです けれどもそもそもなんかやる必要があった のかどうなのかってのはやっぱりよく わかんない感じになっておりますで ぼちぼちちょうどいい時間になりましたの で最後指名の終わりにということで考えて いただきたいと思います相馬資料のあ相馬 班における二宮仕様っていうのは何だった のかという部分で言いますとまずそもそも 内で二宮司法をやったところは25%に 満たないということが言えますで波江長域 ではまあまあそういった意味でと3割 ぐらいですけれどもやっぱりそんなにやっ てないと成功していないという状況が 言えるかと思いますで南江懲域で考えます と司法の成功事例であったりとか人口の 上昇ってのはやっぱ平安部のみもみに限じ られているという部分でございますで沿岸 部3カ幹部はそもそもやっていないか爆末 の再末期にやり始めてるという状況が確認 できております でそういった意味で言いますとえ長域 センターで考えていますと顧問所が残され ていなくてなかなか成果がま判断できない むしろ人口の現象の方が分かりやすいのか なという風に思っておりますで最後締め ですけれどもちょっと問題定期的な結論で 終わりたいなと思うんですけどもちょっと やっぱ二宮司法の課題評価っていうのを 取り除いてやっぱり1点1点顧問条を確認 するっていうことをしなきゃいけない だろうという風に思っておりますで そもそも二宮金次郎の皇帝と呼ばれるま1 番の弟子っていうの4人のうち2人は実は 相馬反であって相馬班の中で検されてる 部分ってのが多いだろうなという風に思い ますでさらにこの二宮 金次郎の皇帝のうちのえ富田光景富田高義 は二宮金次郎のえ娘の嫁であってそもそも 富田光景のお兄さんで富田あそうえ斎藤 高幸っての父である人物っていうのは相馬 班の知の中でかなりこの司法がうまくいっ てるっていうのを検んでちょっとかなり 作られてる部分が多いだろうなと思って ますでそういった意味で言いますと近代の 勤動とか近面意識を邪させるために地方の っていうのをこう1人歩きしてる部分って いうのがあるかなという風に思っており ましてちょっとそういうのを取り除いて1 回相馬班における二宮というのを考えてく べきだろうなという風に思ってる次第で ございますえ以上で僕の報告はお会りにし たいと思いますご成聴ありがとうござい ましたはい西村さんありがとうございまし た やっぱりね二宮四法とかよく聞きますけどこういう現実を教るとまた歴史の見方も変わるんではないかと思いましたそれでは鈴木ひさん受戸川留域の農業用紙の歴史的展開についてよろしくお願いします あそうごめんなさいすいませんちょっとなんでボけちゃったすいませんあそうですねここではい 西さんのあと休憩10 分ということでえっと今がえっとそうですね 2時4分なのであ今2時5 分になりましたので2時15 分から再開したいと思いますので 10 分間休憩したいと思いますよろしくお願いします はいでその間ですねあの受付の近くに万山坊さんが本を販売しておりますので是非ご覧ください はいそれでは後半に入りたいと思いますえっとそれではえっと次はえっと鈴木さん受戸川流域の農業水の歴史的展開についてお話 いただきますよろしくお願いします 皆さんこんにちはただいま紹介ありました木と申しますどうぞ本日はよろしくお願いします着立座てお願いしますえっとあのこれを確調べてですね私のちょうど 20歳頃ですねま大垣ダムが行するっていうことでま施設がなくなるってことでと法 11 年にあの調査した市場に基づいて今日はしたいと思います ま歴史はあの受戸川の農業水の歴史はですね戦国時代が終わりましてまこ泰の時代になるとですね水滴発や進んですねま波町で古いのは水とか青川の水が非常に古い 1600に解説されましたもう 1 つは先ほど言ったようにあのこのご守法の時代ですね それに一環として小田が開発されてすごく 成果を見ておりますでその中にはま細かい 席がいっぱいあるんですがそれも随写真を 見ながらですねご説明したいと思いますの でどうぞよろしくお願いしますまこの式は ですね香水量っていうのはま自然の今平均 当時ですね私が調べた1400mぐらい 日本平均が1600mって言いますので 非常に少ない工夫量でそれから様子用と ためが非常に発達した地域ですま瀬戸内会 も結構全国発達してるんですがここもそれ で負けないぐらいにあのため池が発達して おります池と要請路非常に密接な関係を 結びついて水量を爆上したであると思い ますそれではですねあのまず 高瀬川だ受け止川本流っていうか受け止川 高瀬川の支入があるんですがまず受け止川 のグローバラがも言いますし海流では泉だ て言いますそれの上流分からの写真を見 ながら説明したいと思います 1番上はあの1663 年小田高っていうのがま休年 ですかに開発して完成しておりますこれは あの相馬がやっぱり南宮さっき言ったご方 ですねの水路開発の一環としてま相当な 費用を投じて3年あまりで車高から進める るっていうことです戦いについてはですね あの橋のビルとですね最上流には位置して おりますそれでその下にはすぐタの席が 古い時代に開発席がございますでお腹上の 出水にあたっては席上げてはいけないと いう条件がついたそうですその時にだから 写真にはですねちょっと席西石コ並べで 木材が引っかかってるような写真が あります写真見るとで上げてダメだって いうことでで主水口は直接ズロになって おりますこの写真今何ページかな3枚目に 写真ついてますので小田高 のガロの関森地区っていう関盛って昔関森 がそこに住んで石を感じしてましたそれ 地名森という名前が出てますであの高い橋 ありますね連携がなすぎるとあれは席盛り まして通言ってるんですがそのちょうど下 のとこに席がございましたと今の現在の 大垣のちょっとカ除ですそこが1番上流の 岡田これはあのほとんど波では水は使って ませんのであの小田川の鳩原までずっと 続いてる水です現在も新しく大垣ダムの 施工にあたっても同じく小川で別は行って おります反時代にあったのと同じく改良さ れて新しい水色路でなってます今現在は不 施設は全て閉ざされまして使っておりませ ん多分管理次第から奪ったとこもあります し非常に荒れてると思いますがその当時の 写真はこれ現実を捨ててる時の写真で ございますほんで必ず出席した後には洪水 入っても大丈夫に寄せてのが動きましてね 水路を壊れないように非常に細かく設計さ れておりますでこれを手掛けたというのが あのニアたんでえあ先発荒宗茂っていう あの鹿島大部やった方があ卒業をござい ましてあと出てくも同じとやってますで 同時に作ったていうことですね と概要申します あ小田だね 天名前方の後の危機にま人口減少した時に 着行した小田ですえ 最終的には小田川と宮側にまで水が出まし たと それで えっと延長はですね18kmございます 水路の中水道が17箇所え約長さが 2200mですね水道あの作業員っていう か日本ですね 費用は9700かかったそうですの南工時 で手水分水にあた流に出水があるからです ね再流の手水というような特別な形態で 出水しております 次にですねあのそのすぐカにあのベカだっ てご存知な方言いますかねあの114線 登っていくと 風港部屋があるとございますがそこに席が あります写真で言いますと あの という席になるんですが2番のは でタの絵はあのちょうど3枚4枚目の コンクリート席になってますねこの当時 51年はそれも岩板を組に行ってあの この車線ですねあの水門が見えますよね奥 の方に主水口ですそれここ石を抜いて裏の 方まで水道で行ってんですで水道を抜けた とこに妖精水があってまったみんな川に 落とすということでなってます じゃタネはあの1600年と ね1681年が年ですので本当に戦国時代 終わって江戸時代になった頃の施工になり ます当時はあの八田の求人でありました 八田日生産本土って言うんですがこの方が 特用とかその公人とですねま1人ではでき ないんでみんなでやったと思うんですが 中心に施工されましたまあと高値に出て くる後青沼的も一緒でございますえっと 続きましてですねその下に行きますとこ 地図地図から行きますと崎っていうのは あの不動だけの下にございました現在は 使われてませんが写真も見ながらと見て くださいこの写真には名前入ってると思う んでえこれは原力111年1698年ま 比較的古い時代に流れた桜的技術 格的はま桜地区あの川沿いのちょっと感じ ですねと川の入ったぐらいの地区の比較的 低い土地の様子 これもうと サが川だね火が左側 を考え様すですでそれがまったは川沿の方 まで流れて大量されております さらにですねあの海跡坂田的って1つに なってますが当時はですねあその前に室ボ っていうのが出てましたえこれ明治年間 にって年代わかんないですが明治時代に 作られたと言ってますのでこれは室原地区 のう本当にあの低い114線から ちょっとした川セの間ぐらいのとこをうろ してる小さい要精でございますで写真を 見るとま牧光みたいな昔のコンクド的に なってその当時はですね でさらに加流に行きますとえっとカアと逆 ってこう今私調べた時はもう2つのが合併 されておりましたその前にあの台風があっ てえ 1つにまとめたていう風に聞いております で明治年間に坂ができましてで逆田は遠方 年間って古い時代に2つの席があったのを 昭和の災害で1つになってカリア様水と いうのであのカリアの山岸の高いところに 流れていくのが火宿様水でございます さらに火流に行きますと ずっと火流ってカ紋っていうま鉄道の 100番線の加流がなんですねこれは 田小地をうろしてる席でございますえ 文休年 1822年過門さんっていう正の方が中止 になって したそうですこれもこれも水道があり改正 があり足の高下のところも流れてたに行動 をしている様水です 一応高瀬側じゃない受け止についてはま これだけのがございましたその間にま考え として様子以上も結構あったようですね 昭和になってからはポンプで水を強制的 に上げて使ってたっていうとこもございた さらにはですねあのこの高瀬側に行きます と 1番上流から行きますとさっき言った田尻 的ですね田尻りこれは本当にあの自然の滝 をした敵ですあの目立きっていう滝があり ましてそこの裏をくり抜いて水道でずっと 田水の森の地まで高台まで水を引いた様子 ですこれもあの原先切発あの米茂さんが 中心になってあの公司法の一環の中でやっ たそうです これでこの当時の測料技術っていうのは 非常にこう今現代と変わらぬような技術が ございましたすごくあの特料にした方だっ たそうですと見たあてと初代鹿島大館 方で最終的には平の町長を務めては向こう でも様子に整備をしたっていう風に聞いて おります ですぐ下の方に行きますとあの青根まで っていうのは原間にあの改札されてこれは かなり苦労した様子よらしいですねそれで これも八田金城さんが手掛けたと言われて おります それはあのね青場八田と酒の高 1番高いところを通っていきまして 16 筒水で行ことが入りますで一部は北斗の土で双葉町の渋にも様水が引かれてみますさらにそこからまた分水していてね六光線の下を超えてあの中浜竹の方まで行ってる様子水でございます [音楽] [音楽] それとその次ですね青番の下が大堀のです ねえ大の八木層の付近だったと思いますが そこに大の地をうろしる大募できますで さらにその下に小田 波江ま波の話がまちょっと出ましたで八田 もかなり小さい面積ですけどかなり乱列し てましたそれでほとんど木光神商校のま敵 で現在はほとんど重かはないと思います で最終的にお山の工事であ受けですね左右 1番受け受けの通り受け席で原間1864 年に解釈されました この受け取ですね現在も国事業の一環で席 は残っておりますあと それでその大垣ダムの着行しては現在計画 ダってなってますが今現在は大ぎダブとし てあの毎個 の水を取っていきますまただ今考え面積が 当時は35兆ぐらいの面積ございましたで タリ の上に焼肉投資ってのが新しくできてます それが最上流になるこっからバ移動で地図 になるようにですねトンネルで全部ま最新 でこれはあの施工されておりますのでま 走行費まではちょっと調べてませんので それが全くこの統地と同じようにですね 様子がされましてえ様子色のう今現代の 様子についで利用していますそれであの かなり田尻と水の森は高台にあってですね あのかなり水はで川口地区でもあの上のと 緑がま高台なんですねだから水にはなって ないんですねが働く来ただから水の水は あの目沢と桜側と 肘の波側の様水に落ちるように計画されて そこにはため池もみんな付属してくっつい ております ためと上沢ためといじ沢ためとは書いては ないんですが多面が連動してあの様子を 利用されたからそれ終わると発まで再され てます [拍手] それであの1つですねあのに回りますよう に立の水のとこの話をちょっとしていき たいと思いがですねあの 高取沢石 っていうパッと書いてちょっと書いてある んですがあの要水の下にこれ昔ここに ため池を作ってあの立の地区に水を引く ようにやった結果ですねまその当時 技術不足であの台風大雨の時に結したと ですで結回したんですがブロバの反対側 まで流れて犠牲者が出たと聞いております でそれ以来ここにはため池けはできないっ ていうことで作っておけま調和腕になって から作る計画はあったらしいんですが反対 というもので作れなかったそうですとあと もう1つですねあのカヤ道様水のあのここ にちょっと坂田と体のあるんですがあの それも西大地区の高に水を引くために作っ たんですが結回して空うになって空という ことで今名前残っております あとですねもう1つはエピスっていうか あと夏の予水の中の具合1番高いとこを こう分析していってるんですね これはあの六線欲の水環境上に見えると思うんですが あれは要水 その当時の それで神奈川森の水ためまで 導いて棚の水を潤ろしておりますまそもそもそこを引いたくはあの相馬 班のあの 8 月であの大小時の裏に高原御で電という殿を作ってまして引居拠居したそうです それでそこに船みをするために水を引いて ま農業を使ったという風に聞いております その当時だから一緒に来た人が9発に いっぱいたっていうは言っておりますだ から受け取に向かっていくと道がこう クランクでまっすぐ曲がってますよね 釣化下特有の作りになっております そういうところでございます と それであのひょ 表紙にはですねまちょっと写真は古い写真 ちょっと乗せて川沿市の波水テラマイトの ク筋だっねこれ ちょうど詳細時の前の辺だしのためですね でこの川は昭和29年頃は30mぐらい あって大川っていう風に川呼ばれてまして まうちの親父が子供の頃には泳いで遊ん だって金30mぐらい川ばあってでま村人 が顔を匂をしてでそれを昭和20年の時に 補助整理で今のような論の形にしたていう は聞いております と卓の地区要するは最近の施工ってこと ですね現在こうこう魚が積むような正路 作りってことでなんかやったみたいですが なんかうまくいったみたいなことなです あとですねま細かい写真の説明はしなかっ たんですがあの当時ですねやっぱり人間の 手であのガ板を組み抜いてあのそれですね あの甲府ですね昔のトンネルっていうん ですかねそういうのも手作業で掘ったって わけですねあと戦国時代に火薬も一部使っ たっては聞いてるんですがまどの程度か 分からないんですがその当時なんですね今 現代だと本当にダイナマイトとか使って 買ったではないんですけどやるんですが 本当に本当に石をあっためて割ったり いろんな苦労して掘ったっては聞いてます ね 下はとあと 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それでま続みたいな形でも今も語られる人がいますで先の組み合いは伊側の組み合という で ブロバラ側はブロバラチとブロバラ側にまれてます で津島行くと津島側ない日本だりもしますがあくまでも景式は受けとか でちなみに漁原川高瀬川漁業共同い名称でございますうん の組合いがまあるのはなかなか珍しいってことでま側は酒だけの組み合です うんあ でどこにも従業はあのグローバルが卓川業名が管理事してます ただ今放射性の問題で釣りはできませんが あ7月5 日からとりあえず申し込みの方にあのモニタリングのための釣りを あゆりですねさせることになっております あそうなんです 間に合うのかどかわかんないですが協力に申し すごいなそれは ただ範囲は上下まで行けませんので大の辺も までですあでも大までは早いですねあ 結構範囲広いですね 期間だけなるので事前に車の登録とか人の登録必要になってきますのでそれは 4欲でま対応しております あ大変ですね これは3年4 年前ぐらいからこの銀をま後方にも載せてるんですがなかなか集中知されてないんでま釣りの本当好きな人は ちょっと興味 ただ魚は持ち替えてはできませんのであの業欲が解消することになっております あそれ釣ったものをやっぱあの測定するって感じです 測定しますあなるほど ただわかんないな人もいいかもしれない ちょっとどれぐらいの専業かは気になる部分か専 業は大丈夫ですあについては大丈夫 そうなんですね ただ山根岩についてはまだまだ高くてあの上流分に生息するもんですから やっぱ上だとそうですよねも 今茨城大学の方たちと 1513年の調査ず前 高瀬川とこっち受けるの小村沢っていう川で 調査してるんですがうん ま真っさ魚入れても結構洗ってきます やっぱりねもそうですよね まべくりまず行く魚もいます おお ただ山の女性がやんない限りは下がらないと思います ああそうですねそうですね 皮蒸を食べますのでじゃっぱを食うのでお腹場が流れたと食べて食物にまにそうですね 山岩に蓄積です このまま何もしないでおけば 66年なくなるまでかかるそうです ああ66ま高い値のを参考にしてですね 1番最大で66って聞いてますうんうん ただそれば釣りを解除できるとかってのはする方法で考えてままず会場と釣りもできないので それそうですよね確かにね 将来的にはキャッチャれですというな考えも答えばので協力会ではなんか検討はしてるですああやっぱそうなるはいありがとうございます あのそんな人さんにこれあのえ今回あの 昭和51年の写真を非常に大量に出して いただきましたが学生時代のえ様水路や席 を歩いて写真を撮り記録を残されてい たっていうのは資料ありがとうございます とその調査の際のエピソードなどったら 教えていただきたいという風にあるん えっとご苦労とかやりがいとか面白されて ですねその辺のお伺いこれ聞いてみたいと 思います確か私大学時代ですねこれしたの はま卒業論文の一環として書きました 一応全国的には各時代は全国の石様水本当に全国上りました 調査研究ずいぶやってですね先生と一緒にやってま卒業は地元をやらなくちゃないと思いまして あの受け止について書いてまとめましたただ間違ってることを今反省すると少しあの思ってますけど はいそんなきっかけでやってですね ま調査はもう歩いてのでどんどん結構歩い調査が良かったんですね へえまあ そうですねこれなんかううちらともすごい共通僕みたいに歴史やってるかも共通とやっぱりやっぱ元気歩くって大事ですもんね 昔の技術には感動します ああなるほど 確かに ここばっかりで国ろんな本当あります そうですねいやあ確かに でそういった意味で申しますとちょっとひさんの質問いくつかこれって宮原さん書いた あそうそうだ明さないでくださいよ ちょえちょっと待ってえっと国道 6 号戦の元リーガルかこ南相馬市との境あたりの歩道だと思っていたものが実は様子路だということを知って驚きました また席が想像以上にかなり古い時代から少時代の踊りきましたということでこれやっぱり地元からすると 興味深い話ですかそうですねはい そうですね私あのいつもそのあのね6戦 あの南総に行く時小田まその時は小田です けど小田との酒境酒のところに今もうない ですけどスポーツリーガルっていうねあの ところがあったんですけどそこをねやっぱ 6号線通る時にあの上にこう歩道みたいな のがあるなってずっとちっちゃい頃から 思ってたんですけどそれは今日今さんのね お写真見てあれ上に水路が上にあるって いうことにちょっと驚いたんですけどあれ はなんでなんですかうんやっぱり水が1番 高いとこいうこに使いますので あの本当に織高と波の本当に染めの高いところを流したと思いますただあれはお高水じゃなくて滝の妖水の水が分水されてきますので だからあそこに行くまでは弁気穴のまで行かないと水が乗らないっていうことです あ 途中川があって再になってるとこもありますので ああ 結構上通って実は中世以来ずっと同じ感じで通ってるってのが中世の小演のやつなんかとあった あれはそう僕もなんか歩けるかなみたいなあれあ確か面白いですね 今だとですねま測料な技術も名星使って GPS 測料とか色々進んでるんですがその当時は多分工程さんか非常に難しかったと思うんですね ま長につけて高さって話もございますし ま本当にあの勾配やかな勾配で高いとこに持ってくるということはすごいよ です じゃあそうに話ありがとうございますでちょっとこの辺り少し僕の歴史の話とかも絡めながらあのひさんのお話さんからちょっと色々と知を伺いたいんですけれどもえっと席の工事にあたってえ技術者ですね例えばなんか半田銀山なんかの技術者がえやってきたという話がありますかっていうちょっとその積事の担当者の話ですねというお話の質問をいております あともう1 点工事費用のこれ関とかの工事だと思うんですがあの支払いについてなんか話があったのなんか資料が残ってると含めて何か知があったろ伺 江戸時代にされた知ですね悪松の青ネとか田じ あたれとた織小高ですか うん その時代にはなんかあの大阪の方から自社が来たって話を 大阪物 じゃないんですけど聞いた話をしてますね補多分だからあのもちろんその後戦後はね発電所の工事も随分ついて掘ってますのでまそういう全国から集まったんじゃないかと思いますねコールは うん この辺りもしか知ある方いらっしゃいました何かごをいただければと思うんですあ はいじゃあさんマイク持ってきますお願いします えっとただいまの質問は私なんですけど はい してもらねあの鈴木さんがおっしゃった うん青先輩がね大感めました北号 いわゆる鹿島町の出身です住んでます で私のすぐ近くに大できてるがあるんですけども あ大かああそうですか やっぱり荒先輩が関わってます うんうんそうそう でねこの席の場合はですねご存知だと思いますこの辺の側もそうだと思うんですけどもまあ現道の川石の私のところの間の川石ですね いわゆる皇帝差とでま下にある そうですねそうですね でその下の水をですね上に上げると その上に上げるのに動力を使わないであげるわけですから 先ほどあの鈴木さんがおっしゃったように金の水圧をかけて でその間で上にボンとあげちゃうんですね ああ でこれすごくて今でもですねあの残ってんですけども私のところの大外的の場合は うんうん半田銀山の 技術者が来たとうんあうん えそれからあとえ秋田県の兄かな 秋田県のともんだことをねこが言ってました で時間的には現事からあ慶王にかけて爆かそうですよねうん そうですね支払いなんですけどもう 支払いはですねやっぱりその論がありましてえっと費用としてはえ一見につきいくらと こうありましたんですよところがですね時間的に言いますとえできたのが慶王年なもですからね慶 4年で終わりですよねうんうん ですからあそしてさらにその後配地がえま明治年になっちゃうと思うんですから最終的にはチャラになったという話もあるんです あやっぱりだから そのタイミングかなるほど うん これもねその半とあの自分た地元の間にその交渉役やった うんあの人のねうん え方はま名前は佐藤勝和勝部藤原の信という大級人なんですけどもはいはい この方は非常にもう素晴らしい人だと へえ間に立った関係でね でそのおかげで後でえっと村の木入りその後上俊村の村長 それから軍議員と どんどん明になって活躍してます ですから先生が先ほどおっしゃったこの宮法をどうね評価するかとこれは最終的にもう [音楽] 1回聞きたいなと思ってます ありがとうございますてかあれお前の様子あれは完成はしたんですよねちゃんと腰水自体は完成をしてんですよね ありがとうございます ハダからって確かにそっかああいうコルうん技術じゃあね わざ来るんですやっぱりすごいすねはいありがとうございますポリですか?あそうですはい なんかその辺がすごいですよねやっぱねなんかその辺のなんか関連とかもね気になるところであります 大阪って面白いですね うんそうそうそう者来たって聞いて あれ技術者って ハーダーのものが来てもそのハのものが話して元々判断生まれると あそうそうそうそうそうすよね 確かに確かには生まれなくてねかもしれない 言うかもしれないですからねあおっしゃるそうですよね ね ちょっとその辺りの電子承も気になると現代にはこのトンネルフとあのグループされてねあの仕方あの誰もさんできないような状況になってるらしいですけど いやいやいやいやありがとうございますちょっと新しい時点を得ることができました でもう1 個ですねこれもしかしてちょっと僕が知らないなのかまたひさんに対する質問でえっと北の裏にこれ読み方ぶきの池って読むのかの水路はどれてでしょうかすいません あ原 これちょご質問いただいた方なんか補足ありましたらえっとコメントいただければと思いますが今どったかな ああすいませんありがとうございます あ今ありがとうございます ありがとうございますテありましたあの 正種 種うん でそこにこきの池つかれましたでしょ ま船した池やったますね はいあれはどっからなちらっとあのお尚さん聞いたらえっとバラとあいうとこからずっと持ってきてえっとこれで言うと地図どれでしょうかね これで言うとねう水里から分水したう あういですかそこって百沢 100円沢100沢ねはいこれと水 ですからこれはまさがそのプレスのこときの意見のために引いた水をその後でいいか同時にえ飲みの腰水として一緒に活用したっていう衝るとめですね あそうですか これちょっと心が入ったんですか まうと下ってもあんですけど下はあそこまで行かないから多分高いところの流れとがうん 岩側からしたわけですよね南の下の方に はい そうですねあとためもあるってからきとちょうどあの宝箱での これ水路残ってる 水色はね腰水ポりで多分さ×ぐらいの水色しかないと思う 直接引いた水路はちょっと影にできてた ありがとうございます逆にこぶきの池って知らなかったと思います ああそっか多分なんかこってますっていうか金持ちのあれから来てるんかもしれないですね勉強になりましたありがとうございます はいちょっとあの僕にもいくつか質問をいただいておりますのでこれちょっとえ結構つねどれもこれも重要だな質問でありがとうございます えっと二宮司法二宮司法に関してみんな すごいそんな興味あるんだえっと二宮司法 はなんとなく口込みで課題口込みと課題 評価なので多半の実施状況と成果はどう なってるんでしょうかってご質問もこれ あのいただきましたけどもこれ結構実はた 端的に説明すると実は他のファンでやって るっていうと小田原とあと日光の東業と あとまごく一部ぐらいと爆僚でやって るっていうだけで他のハではやってない むしろ なので相馬班の成功例がその後すごい宣伝されて近代なんか伝わってるって感じですですんであので今日お話しさせてもらったに実は相場犯でもそこまででもなかったんでえっとどういう風に評価していいのかっていうのは でやられてる反も本当に数少ないですねって感じですあの小田原なん中でそからに成果は出てますね 本当は1 回もそまには来てないそうですね来ですね 来ないです あちょうどいいとこでちょうどいいとこでお願いします 助かります補足お願いします えっとねそうなるとですねそれで大体パッと終わっちゃうんですね でもでもなぜ残ってんのかってことを虫を評価してでまた今お話ありましたけどもまずあの小田原半でやりましたけども小田原でやりましたけども近次郎の教恵をですね結局実施できなくて途中でやめてます やめて で様が亡くなる同時にその後の光継者はやめてます それから金次郎をあのモ田原班に入ることを許さないというそこまでやっちゃいます ええそれからあの各それぞれですね金事郎の支援を受けたところはそもそもあの金事論が葛藤した拠点というのはご存知のですね現代の毛科市ねえのところのですねえまずハ之付という旗本量から始まるんですけどもその周辺のところ各あの旗本などね [音楽] うんえまたあの半で言いますと山班と そうですね そういうですけどもただ徹底して近次郎の推しに基づいてそれを徹底できたのは本ま中村半と そういうことですだから金二次郎の知恵を極合してもいいわゆる核反はできなかった 1番のできなかったとは分土というのを あの守ることができなかったともうそれが崩れるとこの計画は全部ダメなんですねうん だからそういう点でも高くねその点化されてます そういった意味でありがたいのが分動をちゃんとやった相場が資料がちゃんと残ってくれるんでどういう風に財政が変化したかが分かるっていうのは研究者が大きり方ですよね 60年ほどねええじゃちゃんと 段階にしえちょっとあすいません さんの今あのご質問ちょっと引き続きなん ですけれどもえ頂いたのでちょっとそこを 紹介しながらこれは今日はいるかな地元の 人がてちょっと聞きたいんですがえっと 法徳機の牧の7に高瀬村の村民が二宮の 実施による復興に関してしあの実際にあの 高瀬はそういった意味でと復興してるんで 4万本の過ぎを植えたとありますがこれは どこに植えたのかその後どのようにやった のか教えてくださいってことですいません 高の人今日ないかな?高の人はいないか なんか女とかじゃないですか?そんなことない違う 4万本だからね本瀬の敷 [音楽] ちょっと誰か ちょっと お願いします 実はあのご存知だと思いますけども明治 13年にね富田が 書かれた報法ね これを明治天皇に健上するんですけどもその中の薪のに書いてあるんですで高瀬村ってその手法するまでは女も男も爆自をするような村で時給のできるものは村の中に 3年し5人ぐらいしかいなかったと そういう村が司法した場面ですね復興したっていうことなんですけども でそんなこと書いてあってまあの明治天皇までですね呼んだ本の中にね高瀬村のことが書いてあってしかも感謝して 4 万本のね内容をね植えたってんだから形が残ってんじゃねえかなと思って前々ら思ってたんですけども是非 教えてください 高瀬の人今日はいないか 残念ですねちょっとちょっとこれでも大事だね 今後あの釣り台なんでではでもなんか戦後の職人だもんねあそこの今残ってる感じだから全然別すよね 確かにっぽいの北側には杉かな あれ?あれでも戦後のあれ戦後の職人じゃないかなと思ってるとどうなんだ 切ったよね今で公園になっちゃっ あそう公園でね ありがとうございますちょっとこれは4 万高速の典型的なねやってるわけ ですねうん ちょっとじゃあ次回瀬の人に来てもらってこの辺りをね はいありがとうございますすいませんさんのご質問もう 1 個先ほどちょっと僕のでもお話をさせてもらいましたがえっと移民政策を最初に実施するにあたって過労の区命がまその時に反手であります総の松田から反対されたっていうことをお話しさせてもらいましたがその資料はどっから引いてきたんですかっていうお話 これ実はあのスルーしようと思ったんですがこれ実は岩崎俊尾さんが書いてるだけで僕も前提がないんすよねあれって [音楽] であれどこにだからあれって相馬戦士も乗ってないし な何が挙なのかなと思ってますがえっと今回は天は岩崎とですすいません 岩崎先生はね先輩なんですけども はい あの民族学なもんですからアバウトにね あの使うとこもありますが ただねあの私はもしかしたらね あのマスターのお兄さんの後の あの村イ はい順員の方ですね 順員にもこの方使えてんですよね あそうですね実ねかぶってます被ぶってます もしかすると主員かもしれないですよ あ元々元々は行の時に提案してだけどもそれがねあの思いにならないで次のやるマスタの時に積極的に移民政策してきますから うん むしろの方案が拒否したんじゃねえかなと思ってた 元々そうですよねあのマスタになってまだ若いっすもんね全然ね だからそれねあのじゃこれからみんなで調べまし ないないんでいやいやちょっと資料の発掘 から始めましょ是非これははいありがとう ございますちょっとあの非常に重要な研究 的な話までいっちゃいましたありがとう ございましたちょっと二宮の話が結構色々 な方出していただいてるんで少しえ ちょっとこの辺で肉付けしていたらなと 思いますえっと二宮新実施村落では具体的 にどのような政策が行われたのでしょうか というご質問をいただいておりますこれ 結構えっと重要っていうかあのどこでも やってる話なんですも先ほどその分ドとか そういう話をしましたがまずは身のにあっ た生活をしましょうっていうことでえっと 出をどこまで抑えられるかっていう権約の ために数値化するっていうことをまずやり ましたであとそれを担うためにというか やるためにま協力した人協力したま特に その求人であったりとか偉い農民の人とか に対してま簡単に言うとえ褒美金とか褒美 のクとか褒美の米とかを与えるっていう 政策をしました で正直結構二宮のやってる村って先ほどああれあのいくつかえ町内でも半分ぐらいやっておりますけれども全体的には結構 思想論というか金労しましょうね 近辺勉 をやった人にはお金上げますぐらいな感じ が非常に多かったのとま実際にやった制作 で言いますと例えば要水路をどういう風に 作るかとかそういったところまではやった んですが個人的には結構なんだろうな思想 的な話かなという風に僕は考えております しあんまりね川沿いですか成功した成功 の場合ですけどあの自分の家があのある ところの前はずっと自分の に整理したっていう川沿の清の前 各 あそこは今はもう売ったり買ったりしてバラバラですけど私は自分の前はずっとあっちまで自分の ねに戦理されたっては聞いてます いや本当そうそれそうですよねでちょっとすいません 関係する資料関係する質問もいくつか来て おりましてえっと総馬班の人口政策として 僕の話なんかで出さ着体というのがあり ますこれ妊娠した方が届けを出すって感じ ですがどの程度実際に行われていたの でしょうか資源の残り具合またでもどの ような政策が実施されたのかについてもお 聞きしたいですってことでえっと着体届け に関しては相量の中で知ってるあの文章が 残ってるオタクがやっぱりあってその映し なんかもあります全体として実際にどの 程度行われたかって言うとあのとりあえず 資料としては残ってるっていうレベルです でただ客体届けって実は金星後期になると この会話の笠班とかあと平やしあとえっと 伊豆半島だと爆僚なんかでもやられており ます全国的に広がったかどうかわかんない ですがやってるっていう事例はあってそれ やっぱり人口統制あ人口ですいいですか 人口が減ってるところで特にこういった 着体投みたいなことやって管理をしてこう と妊娠に関する管理をしてこうっていうの は東では僕は見てるかなっていう風な気が いたしました うんどこまで実施したか確かに資料は残っ てるんですけどもねであのどういう風な 品型で書かなきゃいけないかみたいな反 からも出されたりもしておりますうんはい ちょっと色々と質問が来てんでさらに えっと進めていきたいと思いますこれ祈み 仕用に関してかな成功したしなかったは何 を持って判断しているのでしょうかとよく わからないことは疑問に思いましたって いうご質問ですこれ結構重要であの例えば 川沿村もそうなんですがあ川沿しそれ午は やったけども途中で終わっちゃったんで あの成功してない事例なんですが簡単に 言うとえっと終わりましたって言った段階 が成功です なんとあの数値でもって実は現れていなくて川添は成功しましたとかあとえっと末の森も成功しましたって言ったんですが何を持って例えば開した土地がどれぐらい広がったかとかそういうものでは全然なくてなんで成功したのかもよくわからない逆に言うと元々はなんで成功しなかったかのかもよくわかんない結構アバウトな感じで 住んでる人の価値観で決まって あえっと二宮仕用って全部反が管理してんで反の方ではいこれ制業したしましたね 終わっちゃうああそういうことなんです 結構アバウトな感じです ですんであのよくわからないでしかもどれぐらいのあの反全体で開した土地の大きさとか出てるんですがその村で何が成功したのかと人口増えたのかっていうのも実は今日出したように分からない ああ ていう点がありますでそういった意味でこのご質問も重要なんですが今日関係者大丈夫かな?大丈夫ね えっと顧問所が絵に少ないのは共同資料官のような施設が町にないことが影響しているのでしょうか 行政のやるべき政策などはありますか?ていうご質問を大事な大事なご質問をいただいてますめ られたんで あの共同博物館については是非今後えっと皆さん皆さんの力があの地元にいらっしゃる方の力でえ次回を動かしていただければという風に思いますんでその辺はよろしくお願いしたいと思います え初代館長になれればと思ってますんで 狙ってる狙ってます ありがとうございます であと同じようにあのえっと人口が減少した時生き残った人々はどのように上を死のうだんですかっていうご質問をいただきました これ実はその班の中でもえっと上をしぐ ためにというかえっと急行作物っていう風 に言ってあの例えば基金になって危金にな るっていうのは例えば教索とかになっ ちゃって作れるお米がないとかそういった 時にそこの土地でな何とかして食べられる ものを作る例えば鶴カの食物とかまあの芋 とかもそうなんですがあれをいかに作っ てくかっていうのをえっと本として出版し てで相場班の中ですとそれが出回ります半 の方で独自に無料で提供したりとかもして ますこれって元々合津班なんかがやっぱり 非常に基金が多かったんで合津班なんで やってることを相マの中に生かしていっ てるものもあって結構調査していくお オタクとかでもそういった急行作物にどう やって作るかみたいな資料が出てきたりし ておりますねまそういった中で上をしごう としてくっていうのが伺えるかなという風 に思っております さあどんどんどんどんもうそろそろあと 残り78分ですのでえ質問そ どうしよう えっと二宮についての質問です法という 名称ですがま司法ですねえ金路分水上など 基本的な行動指針であり具体的な政策が 示されているようにいるいないあされて いるものではないように拝見しましたと するとその指針のもにどのような具体的な 政策が行われたのかそれが地域ごとに確実 的であったのか個別的により成功失敗の差 が出そうですこれ先ほどのご質問とも非常 に関連しますねその辺りの精査は必要では ないのでしょうかまた相馬という土地柄え 検定されすぎた面はあるのでしょうか二宮 主の当時の有効性を議論するために各地域 でどのように実施されたのかえ成功失敗の え原因はどこにあるのか知りたいですと いうようなご質問をいただいております これこれまでのご質問をすごい総合的に まとめていただいたご質問かと思います ちょっとこれ多分後とも絡むかもしれない んでこれ後で最後皆さんと残り数分でえ 議論できたらなという風に思いますで同じ ようなご質問の中でえっと二宮は成果が 上がりそうなところを選んでいたことが 分かってその成果は演出されたものでは ないのかと思いましたそうすると今の復興 のあり方と繋がってるように感じた 苦笑い みんな復興に対して苦わい 二宮方を美かしてはいけないと改めて思ったっていうあのご質問というかご意見を頂いておりますこの辺り三原さんどうですか あはいあま それ私の今あの意見なんですけどやっぱこう二宮のねさっき成果が上がりそうなとこだけなんか狙ってたんだなと思ったらちょっとなんかずるいなっていうかねなんかちょっといや今もそういう感じでこうまくいきそうなとことを組んでなんか演出してんなみたいなのをもうみの時もやってるんだっていうことをちょっと色々繋がってきましたはい はいそれはね5回5回5回ああ5 回ですはいお願いします この辺り議論したいなと思ったお願いしますあの部分をね呼んでみるとねかなり違うと思う そしてあのまご存知だと思いますけども 井宮健二次郎さんのお孫さんが尊さんと 言いまして北海道の開拓などをしてそのが 終わった後明治40年代に相に帰ってき ます そしてえ井宮のですね資料をですね整理してまそれが今あのえ 1 つの前書になったんですけどもあの前なんかのね その頃のこの受け入れの形のあの半当のいわゆるやり取りの処女などを見てると金も今のようなねあの見方ではちょっと違うんじゃないかと うん そもそも二宮金二次郎というものがねま当時まいわゆる爆身の 1 人としてですね侍はなってますけどもいわゆる 1番下の方の侍なんですよね うんうんうん そういう侍の考えを入れて反応としてやっていくという時にわゆる失敗は許されないわけです ああ その失敗を許されないその政策の時に遠くの 3 中号って言われてる草野で持ってやったんで今だって今はスマホとか色々あって今こんな状況だよなんてね見せられますけども当時はそんなことできませんだからやっぱりつでも見えるかという状態を作らなくちゃいけないっていう非常にね金次郎の慎重さ ああ これがねやっぱりね金次郎が生きてきた中での政策の仕方のねやり方んですよむしろそういうものをね我々は学ぶべきじゃないかなと思うんです うんうん例えば我々がいろんな国と外交を するといろんな人と付き合いをするとそう いう時にその慎重さねその先を見てのこと をむしろそういうところで慎重に資料を 扱った方がいいんじゃないかなと私思い まして今日は先生があれしたのはああいっ た数字は出てますでもね金次郎さんの行う 仕事って本当は60年間やるたんですそれ が結果的には27年であるわけですその中 で特に表の部分で分かりますように成功し てるっていう形になってるのはみんな火と か安静っていうね言語だったでしょところ がその後の文岐とか現事とかねああいう とこもうそれどころじゃないですよはね糸 だけで京都まで出かけなくてそんなその後 今度はねこの地域だって戦場にな るっていうそうそういう中での27年間 ですからそういうことも合わせながらそれ から午前先ほど言った資料がないとして その資料をねする時間もないとこれねあの こういうこときっかけにしてね実は あの二本そ電車なんかのあの入ってる所 なんもねうん 少しずつも読みながら私も最近呼んでるんですけどもあのむしろ違った目で うん 物を見時には最初から批判ってもいいんですけどもこの方が学校でま最点の時あり子さんって丸に批判ができる子ってね でもねそれだけダメと思うんですやっぱり素直に見ながらほらなぜそうなのかなっていうのがむしろ大事じゃないのかなって私最近都市が食ったもんですから感じているんですごめんなさいさすがです ありがとうございますあの実際やっぱり大事な部分として結構二井二宮金二次郎の所がようやく色々な形で今回あの研究中に対処になってるんで多分これまでってあの金議郎のこうやり取りしてるっていうよりも彼の書いたものとかそういうので拳銃が進んでっちゃったんであの今井さんおっしゃる通りで今後それはちょ一緒にやりましょうお願いしたいと思います [音楽] あの長よろしくお願いすいません 宣伝ましていただいてありがとうございましたすいませんえっとさもうそろそろ時間的にも最後の感じの質問になっちゃうますかねなったかと思いますあこれでもね結構ちょっとまた 1 さんの方の質問に戻ってあるいはこの話は僕の話とも絡むのかなと思いますけどもえっと席は当時誰が管理してたのかもそも運用ですね その後で誰が管理してたんですかって話とあとえっと推理関係の権利については村にあったんですかにあったんですかという話ですねこの辺りさんのこうなんかイメージというか知見がございましたらお願いしたいと思います えっとですね元はやっぱり登場と思うんですけどやっぱタはやっぱ農民直接感じするしかないんで まその辺はま今まで電話とかそういうないんでだから関置いたりまそういうな感じであのまたはやっぱり組み合い S 組合いみたいな組み合いが今でも波な残ってますので まそういうタンで 管理したみたいだと思いますねま地元の人が 1番するのが 当然使う人が管理事なきゃだね ちょっと僕相場班はま多分そうだと思うんですけど 私思ったけど私のね先ほど言ったあの 私北の方の場合ワインだったんです うんうんバワインは もあの文字には現れてま先形あるけども 例えばあのマノからね 7000国様水っていう 様水があのから髪っていうね大きなに入るんですよ そこのところの妖精水路ずっと見ていきますとね妖精水路のそばに在人の家が結構あるんですよ うんうん だからそういう人たちのところを相手意識してねあの投資んじゃないかなって 何人かで見たりもしてるんです だから例えば南江の場合もね南江の今行った要水路のところにかつて在合人とか合子なんかがどんな風に分布されてたのかなってことを見ると面白いんじゃないかと思います はい 実際そうですね今お話だいたように在合人の中から水部が選ばれてますんで水の連中はやってますもんね で結構同じ家がずっと水水やってるんで多分その業ね 多分あれですねその辺り住んでるところが近い可能性がありますよね十分ではいそうあすいません今お話だしましたようにあの水っていうのがおりましてそれがこの辺の急に必ずおりますんで多分その辺りなのかなという風に思います でちなみにあの管理っていう意味で言うと これあの僕相馬の事例は知らないんですが えっと例えば東京であるとかま静岡とか 自分が研究やったところで言いますとあの 今水組合いの話がありますが推義組合の中 でえっとお金を出し合ってでそれが管理し ているっていう感じでやっていたっていう のが多く見受けられる事例かなという風に 思います さてこんな感じでちょうど時間もいいのでえここでえ質問に関しては終了したいと思いますじゃあ一旦え申したいと思います はいえっと今日は本当にお忙しい中あの越しくださいましてありがとうございました質問もねたくさん来て本当ちょっと色々議論もできてすごいあのいい会におかげ様になりましたありがとうございます はいえっとあれですよね 何ですかああ次回のはい次回です 次回はですね9月20 日を予定していて今日もねあのいらっしゃってる矢野正也や君というあの江出身の牛出身のあのミュージシャンもやっている行政司子もやっているっていうねあのマルチナあの 40代私の3 つ下の後輩がですねあのついにあの 9月20日にして おじしてこちらであの日渡市と牛のねあの矢神社とかのあのお祭りのことですとかま色々今あのなんだっけ存会長あったんだよね はいとかまそういうの就任記念としてねちょっとあのお話していただければと思いますのでえっとえっと次回の 9月20 日はあの日吉地区についてあの矢野正君にお話いただきたいと思いますえっと今日は本当にあのお忙しい中お越しいただきましたありがとうございましたじゃあお 2人に大きな拍手をお願いします ありがとうございます ありがとうございますた ありがとうございましたこれであの第 13 回波岡太郎を終わりたいと思います本当にありがとうございました ありがとうございますありがとうございましたございます [拍手]

※鈴木仁根報告レジュメは下記のURLよりダウンロードしてください。

日時:2025年6月21日(土)午後1時30分~午後3時30分
会場:浪江町地域スポーツセンター会議室
(入場無料。現地参加者要予約。定員40名。YouTubeライブ予約不要)

報告者
 西村慎太郎(総合研究大学院大学教授・国文学研究資料館教授)
  近世浪江町域の農業―「二宮仕法」は成就したのか?―
 鈴木 仁根(東北土木(株)代表取締役)
  請戸川流域の農業用水の歴史的展開
 ※報告レジュメ https://drive.google.com/file/d/1nNJf_hbp0jmnlKcsmyIYvk7zTHl-r7Yr/view?usp=sharing

司会・コーディネーター  三原 由起子・西村 慎太郎

主催:人間文化研究機構広領域連携型基幹研究プロジェクト「横断的・融合的地域文化研究の領域展開:新たな社会の創発を目指して」国文学研究資料館ユニット「人口減少地域におけるアーカイブズと歴史 文化の再構築」
共催:浪江町教育委員会 / 一般社団法人浪江町地域文化フォーラム / いりの舎
後援:総合研究大学院大学

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