『愛・旅立ち』(あい・たびだち)は、1985年に公開された、フィルムリンクインターナショナル製作、東宝配給の映画である。監督は舛田利雄。近藤真彦、中森明菜主演作品
製作
企画:
企画はフィルムリンクインターナショナル代表・山本又一朗
中森明菜は1983年のシングル、アルバム、カセットの総売り上げが67億円で[8]、松田聖子を抜いてトップ
所属レコード会社・ワーナーパイオニアの1983年度の売り上げ150億円の半分近くを稼ぎ出した
興行関係者から、映画に出れば、かつての山口百恵、同時期の松田聖子クラスの興行力を持つと評され
東宝、松竹、東映、大映の4社が「中森明菜主演映画」を巡り激しい争奪戦を展開した
しかし中森本人が映画に乗り気でないという理由で、所属事務所の研音も二の足を踏んでいた[8]。山本は中森がプロデビュー前の『スター誕生!』(日本テレビ)出演当時から「将来の大物」として中森を高く買い中森主演映画の企画を盛んに中森サイドにアプローチをかけ、シナリオも数回持ち込んでいた。
山本又一朗は「トライストーン」の創業者で会長。現在の社長は小栗旬。
本作品をきっかけに近藤と中森は交際を始めた
山本プロデューサーが「ぎこちないカップルでは映画を撮ってもシラケるから、クランクインまでムードを高められるように交際して欲しい」と2人に勧めたという説もある
山本は、ジャニーズ事務所のメリー喜多川さんから、映画の撮影が始まるに際し「山本さん、2人を一緒に連れて行って、食事でもして」と言われて、2人を誘って会食に出かけた日が2人の交際の始まり、と述べている
製作発表
1984年10月9日、東京虎ノ門のホテル・オークラで製作発表記者会見がありお互いの事務所が主導権争いで揉め記者会見は前日の深夜に正式に決定したにも関わらず報道陣250人が詰めかけた
近藤と中森の婚約発表かと思わせるほどの大混乱
2人の共演映画を一部新聞誌上が事前にスクープしたため、主催者側が激怒し、その新聞社の記者を会場に入れないと発表してひと悶着があり、会見予定が40分遅れた
当時のマスメディアにとっては、マッチ、明菜の顔合わせは夢の共演。
主演5作目の近藤は余裕で「こういう機会はほとんどないので、共演できて嬉しい」などと、中森は「分からないことは彼に聞くつもり」と
報道では映画の出演を渋っていると伝えられてきたが、会見では「前々から映画はやりたいと思っていました」と話した
記者から「映画に関して話し合うとか、2人きりで会ったことは?」という質問が飛ぶと、近藤は「その聞き方は上手いね」と笑いながら「ありませんよ」と完全否定した
また「オレは映画の宣伝のためになるなら、何でもするよ。ホントに噂になって良かったと思う。演る前からいい宣伝になってるもんね。と発言。
マッチは「これまでの映画と違って今回は、自分がとにかくやりたいと出演を決めた」と話し、明菜について「映画をやって思ったのは、明菜ちゃんって結構几帳面なんだね。そういうコじゃないと思ってたんだけど、やさしさを新しく発見しました」と、明菜は「彼は周りの雰囲気をすごく大切にする人。すごく冗談を言ったりスタッフを笑わせたり、とても気を遣っている人だと感心しました」などと話した
オーラスの夕焼けをバックにマッチが明菜を背中で担ぐシーンは、この日スタジオで撮影
マッチがセリフを何度もトチリ、「こいつ、結構重いんだよね」と言ったため、明菜が背中をぶって「いじわる!」と言い、OKが出たら「ご苦労さま」とマッチの腰を揉む仕草を見せて、呼吸もピッタリの熱愛カップルらしいムード
明菜の意識が遠のく中、マッチが「君はゆっくり休んでくれたらいいんだ。働くのは男のオレの役目だからね」と、今日では採用されないセリフを喋るが明菜は「映画で一番好きなセリフ。ジワーッと来ちゃった」と話した
1984年12月15日クランクアップ
公開
封切日の1985年1月26日の東京日比谷スカラ座では、マッチと明菜のカップルの舞台挨拶があり、報道陣が大勢押し寄せる異様な光景
最前列から通路から壁際までビッシリ
舛田監督は「これは単なるアイドル映画ではなく、愛のメルヘンです」などと話した。
ソフト化状況
『愛・旅立ち』(東映ビデオ、VHS/β: TE-B143)※1985年12月5日発売。DVDは発売されていない
中森 明菜(なかもり あきな、1965年〈昭和40年〉7月13日 – )は、日本の歌手、女優。本名同じ。1982年5月1日デビュー。1980年代を代表する女性アイドル歌手であり、数多くのヒットナンバーを世に送った
1981年7月11日、16歳の誕生日目前に出場した日本テレビ系列のオーディション番組『スター誕生!』合格を機に、ワーナー・パイオニアとのレコード契約を締結した。
1982年5月1日、16歳の時にシングル「スローモーション」でデビューし、2枚目のシングル「少女A」がヒットした。
翌1983年には、「セカンド・ラブ」「禁区」などもヒット
スター誕生!
『スター誕生!』テレビ予選3回目(1981年)の挑戦で、山口百恵の「夢先案内人」を歌い合格した
1回目(1979年・中学2年):
岩崎宏美の「夏に抱かれて」で同番組に初出場。その際には審査員の松田トシから「年齢のわりには大人すぎて、若々しさに欠けますね」と酷評され不合格となる
2回目(1980年・中学3年時):
松田聖子の「裸足の季節」を歌ったが、またしても審査員の松田トシから「歌は上手だけど、顔がとても子供ぽいから無理ね。大人の歌を歌うより、童謡でも歌ってたほうがいいんじゃない?」と前回とは逆の酷評を受けた。中森はこれに対し「『スタ誕』では童謡は受け付けてくれないんじゃないんですか!?」と抗議したため客席で見ていた母が「明菜、やめなさい!」と制止した。松田は出場者の中でも中森に対しては特に辛辣であったと言われる
3回目の出場 1981年:
『スター誕生!』チーフ・プロデューサーの金谷勲夫は、番組スタッフの中には中森が常連の出場者であるため、出場に難色を示す声も出たという。
しかし3回目の時の中森には、1回目・2回目の挑戦時以上に光り輝くものが見え、美しさの中にも翳りが感じられ、強く推して出場させたことを語っている。司会の坂本九は前回の松田トシとの応酬を覚えていたのか、歌に入る直前の中森に対して「今度は少し、ほら大人っぽく行っちゃおう」と励ました。
1981年:
『スター誕生!』本選3度目の挑戦となった8月2日の放送(7月11日収録)で、中森は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、同番組の史上最高得点となる392点で合格する
合格後、スカウトを受ける場となる決戦大会までのおよそ1か月間、日本テレビ音楽学院でボーカルとダンスレッスンを受ける
11月29日放送(11月11日収録)の決戦大会前の事前審査にあたる下見会を経て、12月6日放送(11月18日収録)の決戦大会で再び「夢先案内人」を歌唱
合計11社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった
デビュー当時のプロフィールでは、身長は160センチメートル、血液型はA型。体重は58キログラムほどあった。
近藤真彦:
1979年10月、TBSのテレビドラマ『3年B組金八先生』の生徒「星野清」役でデビュー。同じく生徒役だった田原俊彦、野村義男とともに「たのきんトリオ」として活躍。
その後、1980年12月12日に「スニーカーぶる〜す」でソロ歌手としてデビュー。1980年代を代表する男性アイドルとして、『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』などの歌番組を中心に活躍した。1981年、1983年のブロマイド年間売上成績で第1位を獲得。また、1982年には『ゴールデンアイドル賞』を受賞。1987年の『第29回日本レコード大賞』において「愚か者」で大賞を受賞した
代表曲として『スニーカーぶる~す』、『ギンギラギンにさりげなく』、『愚か者』などがある。
自身のジャニーズ入りのきっかけは13歳の頃、出身地で所属していた少年野球チームの監督の娘が、チーム全員の集合写真をジャニーズ事務所へ送付した際に、社長のジャニー喜多川がその写真の中から近藤真彦の顔に○印を付け、チーム監督の娘のところに電話をかけて近藤をスカウトしたことによるものである。
1989年7月11日:
近藤の自宅マンションで中森明菜が手首を切る自殺未遂事件を起こした。中森は一命を取り留め、中森が復帰するまでの間、近藤も活動を自粛していた。同年12月31日に中森が復帰会見を行う際、当初は出席の予定がなかった近藤も同席。
(wikiより引用)
4 Comments
悲しくてやりきれない😢😢😢
切なすぎる・・・・
なんもいえんわ。誰が悪いんん?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・