明建国はMake China Great Again運動か?(世界史探究講座041)

世界史探究講座の041回です

今回の問いは以下の通りです。
「パクス=モンゴリカ後の中国は冷戦後のグローバル化後の米国と似てる?」
「朱元璋に人気がないのはなぜ?」
「洪武帝の政策はMake China Great Againなのか?」
「明の儒学重視と、トランプ政権のキリスト教ナショナリズムの台頭は似ている?」
「永楽帝のグローバル気質はどこで育まれた?」
「洪武帝のキレるポイントは?」
「なのになぜ国の名前が「明」?」 ↓参考文献参照

登場人物
小磯先生   …パンを外したパン人間。ダジャレは嫌いだが年号語呂合わせは好き。ペストに罹患。
ジョーズさん …サメ、ロマンチシズムと批判精神を持つ。
クロさん   …クマ、リベラリスト。日本史は知っている。論理学黒帯。
シロさん   …クマ、目立ちたがり。いじられる。声が安定しない。
イヌ子さん  …イヌ、明るい。働きたくない。ラップ練習中。

主な今回の参考資料
『中国の大盗賊・完全版』 高島俊男
・朱元璋、男四人女二人のきょうだいの末っ子。名前は重八、長兄は重四、次兄は重六、すぐ上の兄が重七。名前というより番号。父の名前は五四、産まれたときの父母の年齢を足すと54という意味の名前。おじさんは五一、その子が重一、重二、重三、重五。
・明という僧侶を連想させる国名。明教というのがあった。マニ教の流れ。弥勒教と白蓮教がごっちゃになって「天下大乱ののち弥勒仏(もしくは明王)が現れて世を救う」と説く俗信になっていた。

『中国史 下』 宮崎市定
・モンゴル支配で中国人が生命軽視、趙匡胤はむやみに殺さず、死罪でも嶺南に配流するにとどめたあ、明代には大臣官僚が殺害されることが珍しくない。それを始めたのが朱元璋。開国の功臣こそ君主独裁の最大の害。血の粛清。
・建文帝のやりかたは、先んずれば人を制すという戦術で、進んで波乱を起こした。朱元璋に皇子が26人、最強なのが燕王(第四子)。狙われていることを察知した燕王は反政府運動を起こした。建文ていは討伐軍を集めたが、大将をまかせられそうな人物は粛清で皆殺され尽くされていた。65才の老将をたてる。敗北。
・官僚受難は明が最もはなはだしかった。事あるごとに大量殺戮。朱元璋のときの官僚は、一日が終わり門を出るとこれで一日生き延びられたと、互いに慶し合った。
・永楽帝の北伐は元のような世界帝国の再興であった。
・鄭和、最終第7回はアフリカ東海岸のモゲドクス(木骨都束、ソマリアのモガディシュ)。
・永楽帝の政治は、古代的な専制政治の復活。中国近世の君主独裁とは、君主が最後の決済を下す政治様式を言うのであり、すべての政務は官僚が案を練りに練り、次に大臣、最後は天子。天子が自ら積極的に発議するのはまれ。古代の専制君主は自らの意志で大臣に問い、提議が気に入ればこれを実行させる。しかし永楽帝以降は宋的な君主独裁に移行。そこで宰相の職が必要なのだが、朱元璋の命で、丞相を廃していたので、祖法に背いて任命できず、天子の私設の秘書という形で内閣という制度を作った。
・洪武帝、建文帝は宦官を冷遇、その中に怨望を抱くものがあり、靖難の役に永楽帝に内通。永楽帝も独裁徹底のため密偵政治を強化し、宦官を利用。

『悪の歴史 東アジア編下 南・東南アジア編』 上田信編
・明と中華人民共和国とは、類似点が多い。両方とも農民主体となる革命軍が打ち立てた政権。朱元璋も毛沢東も、農村社会に基盤を持つ理想の国を作ろうとした。里甲制と人民公社という枠組みで農民を組織し、農民の労働奉仕によって国づくりを進めようとした。それぞれの理想が現実の前に腐食されようとした時、夢を現実に引きもどそうとする人々を粛清と文革で殺した。胡惟庸と劉少奇。
・朱元璋が目指したのは貧富の格差を生み出す貨幣経済の抑制。モンゴル帝国時代、商取引に関われない農村が→朝貢のみ。
・朱元璋は功臣を粛清したが、親族には信を置いた。息子たちを王に封じて、次期皇帝を助けるようにと遺訓を残した。その中には佞臣が皇帝をまどわすようであれば、その難を靖んじることを命令した。
・建文帝が北京の(のちの)永楽帝を包囲、発狂したと見せかけようとしたが、失敗。病が回復したとして祝賀の会を催し、包囲している環軍の指揮官を招待。勝利を確信していた指揮官は不用意にも招待に応じ、殺された。→靖難の変。
・朱元璋と建文帝は宦官を抑制したが、これに反発した宦官が、南京の情報をもらした。
・衛所制、農民などの一般民は「民戸」とされ編成され、兵士を徴用する対象は「軍戸」とされ、世襲的に成人男子が軍務に従事することとなった。経済が復興する16c後半から維持困難。富裕層が官僚と結びついて負担逃れをし、人民のしわ寄せ、階級格差。

『悪党たちの中華帝国』 岡本隆司
・洪武は「洪(おお)いなる武」、それを承けて「文を建てる」というのは対極のワーディング、大きな方向転換。江南の知識人が政権を担ったし、建文帝の政権は祖父の体制デザインに背いていた。
・南海大遠征の目的は朝貢の勧誘だから、朱元璋のデザインした朝貢一元体制と背反しない。

『明清と李朝の時代 世界の歴史12』 岸本美緒 宮嶋博史
・建文帝16才で帝位に。徳治的政治を目指す。燕王が軍事的な色彩の強さや多民族的な社会基盤において、元を継ぐ性格と持っていたのに対し、建文政権は文人的純漢文化的な色彩。1402のときも明に降伏して北京周辺で衛所を構成していたモンゴル人集団が燕王のもとに集まった。
・北京遷都、遷都後わずか4か月後に、落成したばかりの新宮殿に落雷があり3つの建物が焼失。天の警告とされ、北京に留まるか南京に戻るか官僚の間で論争。

取り扱う世界使用語
パクス=モンゴリカ 明 朱元璋(洪武帝) 南京 1368年 一世一元の制 里甲制 魚鱗図冊 賦役黄冊 衛所制 海禁政策 建文帝 靖難の役 永楽帝

Write A Comment

Pin