【やなせたかし】毒母の末路/お母さんはずるく生きたつもりだったの? それはあんまりうまくいかなかったよね/四度の結婚【朝ドラ「あんぱん」】

[音楽] 母ときこはたしにこう言って聞かせている お前みたいに真正正直だとバカを見るよ 生きていくにはもっとずるくならないと その言葉をずっと後になってたは思った お母さんはずるく生きたつもりだったので もそれはあんまりうまくいかなかったよね と こんにちはSNS上で毒親と言われている 朝ドラアンパンデの母親トみ子が話題に なっている派手きで美亡を誇り奔法で暴弱 無人に振る舞う私実では矢瀬孝志に生きて いくにはもっとずるくならないとと言って いた今回は母親ト子のモデルとなった矢瀬 時子が4度の利別私再婚を繰り返したその 障害を探ってみました最後までご視聴 いただけると嬉しいです 涙のシーンドラマではトみ子が初めて涙を 流すシーンがあるた志が出世するシーン ト子がたに向かって逃げ回っていいから 卑怯だと思われてもいい何をしてもいい から生きて生きて帰ってきなさいと 泣き叫んだしかし実では母ときこが涙を 流したのは志しが戦争から帰ってきて何十 年ぶりに膝枕で眠っていた時だった顔に 暑いものが落ちてきて目を覚ますとそれは 母の涙だった母は横を向いたまま小さな声 で許してねと言った母ときこはたしにこう 言って聞かせているお前みたいに真正正直 だとバカを見るよ生きていくにはもっと ずるくならないとその言葉をずっと後に なってたは思ったお母さんはずるく生きた つもりだったのでもそれはあんまりうまく いかなかったよねと柳瀬孝志の刺繍から母 を朗読します 母は再婚しました僕が戦争から帰った時母 は再婚した人とも私していました母は随分 悪口を言われた人でしたお化粧が濃く 派手好きで自分の子供を捨てて再婚した僕 は母の悪口を言われるのは実に嫌でした僕 はちっとも恨んでいなかったのです僕には ない十分に社交的な華やかな雰囲気を持っ ていました母の言葉あんたみたいに真正直 に生きるとダメになるわよもっとずるく 行きなさい母はずるく生きたつもりだった のでしょうかあんまりうまくいかなかった ようです戦争から帰った時僕は母の膝枕で 眠りました暑いものが落ちてきたので目を 覚ますと母の顔がありました許してね母は 一言言いました ここからは母とき子の結婚離婚変歴を見て みましょう 最初の結婚最初の結婚は女学校在学中地元 の名家で合にとついだ高志の母と子は 1894年1月に生まれた高の父清と 同じく高知県上軍在村の出身である子は 柳家の三難の6人兄弟の事女だった兄3人 はた名だった柳家は合能の王子で生活は 豊かだった三姉妹は脳作業の手伝いなどは 一切せず贅沢に暮らした田舎とは思えない ほどやかな着物を着て神をゆっていた進学 する女子がまだ少なかった明治時代に3人 とも高知市内の高女学校に進んでいる時子 は高知県立高知第一高学校在学中に結婚し た美人で気くらいの高い人と評判だった 当時卒業前の結婚は珍しくなかった昭和 11年の大阪市販学校就寝の講議録女性の ための就寝教授力には女性の運命について 次のように記されている結婚して人の妻と なりさらに我が子を生むことにより母と なって子供を育てるということ教員を要請 する市範学校であっても女性の理想像は 細憲だったしかしこの結婚は長く続か なかった 結婚後3年間子供ができなかったことを 理由に今から理され実家に出戻りという形 で戻った当時の社会では女性が子供ない ことは重大な問題とされ利の理由となる ことも少なくなかった 2度目の 結婚時この2度目の結婚は柳瀬の次男で ある柳瀬清義と再婚した市の父柳清義は 1892年11月に生まれた高知県上軍在 村の木出身柳は江戸時代からの商夜で在村 で村長を務めたが高志の父清が生まれた頃 にはかつての豊かさは失われていた清義し は柳瀬自太郎と謝えの間に生まれた次男で 姉弟3人の妹がいた急人家族が2部屋しか ない狭い家で暮らしていたという兄はひし と言ったひも清しも学校の成績が良く2人 とも名門の高知県立第一中学校に進んで いるその後は京都府立医学専門学校で清は 東和文所員で学んだ東和文所員は中国の 上海にあった日本の高等教育機関である 私立の学校だったが学費や生活費は富や剣 が負担した清も憲費で学んでいる柳義と 時子が結婚したのは1918年隣同士の 集落に住む上海帰りのモダンボーイと 華やかな地主の娘との結婚だった 関東特輩柳瀬清の死しかし幸せな結婚生活 は長く続かなかったが誕生したのは両親が 結婚した翌年の1919年2月小さく 生まれた未熟時で時子はあなたのおは とても楽だったお腹もあまり目立たなくて 誰も気づかなかったのと言っていた父の清 は1916年に当文所員卒業後日本優先 上海指定に2年間勤務しその後江公江者に 移った1921年4月にはヘッド ハンティングで朝日新聞社の記者となった この年の6月に弟が生まれた翌1922年 清は関東特員を命じられ単心不妊した父が 不在の間母と千ひの3人は在村の母の実家 で暮らすことになったそんな中清は不妊 から1年半後の1924年5月急病で試し た31歳の若さだったこの時子は30歳 高志は5歳弟の千ひはもう少しで3歳に なるところだった父を失ったことで時子と 高志千ひの3人の運命は大きく変わった弟 の千ひは父の兄であるひの家に引き取ら れることになった 県内の5面町で内花科と小児家の会議をし ていたひと妻の君には子供がなく清の生前 から千ひが容姿になることが決まっていた たしは時子祖母と高知市内で暮らすことに なった母は外出がちであまり家にいなかっ た離の道を見つけようとことシミ陽極茶 の湯池花要塞諸動など帯びた正しい数の 習い事をしていたのだた志から見ても化粧 が濃くいつも香水の匂いをさせていたギリ とした太い眉に大きな目華やかに聞かざっ て外出するので田舎では評判が悪かった 改活で目の前にいる人とすぐに打ち解ける だったがしけには厳しく高志は物差しで ぶたれることもあった昭和初期日本は関東 大震災にターンを発する金融教皇や世界 教皇の影響を受け深刻な不景気に陥った 庶民の暮らしは厳しく特に未亡人の生活は 困窮を極めた昭和7年の調査では彼女たち の平均収入は13円85戦で一般家庭の約 33に過ぎなかった母とき子の気の強さ をしは受け継がなかったが幼いなりに母の 望む子供になろうとしたこんなエピソード があるある時アデノイドが晴れて切除する ことになった医者がメスで幹部をえぐると 大量の血が流れて洗面器が真っ赤になった それを見た途端横にいた時子が泣いちゃ だめと言いたしは懸命に泣くのをこらえた 医者は驚きこんな小さなお子さんが泣か なかったのは初めてですと言ったまた芝居 や映画が好きだった時子は夜たしを連れて 出かけることがあった母はスクリーンの代 を見ていいわねとうった冬の寒い日には 帰り道で自分の勝を外してたの首に巻いて くれた甘い香りに包まれて賑やかな夜の 市街地を母と帰るのは夢のような気分だっ た時子の周りにはいつも何人かの男性がい たそのことで周囲の人たちは母の悪口を 言った幼いたしの耳にも色々な噂話が入っ ただがたはよそのお母さんより綺麗な母を 自慢に思っていた暮らし向きは楽では なかったがたしは世間知らずのお坊っ ちゃんとして育った近所の子たちの中で 自分だけが幼稚園に行っていないのを 不思議に思うことはあっても家が貧乏だと は夢にも思わず母が財布を開けばそこには いつも十分なお金が入っていると信じてい た時子はたしにこう言って聞かせていた お前みたいに真正直だとバカを見るよ生き ていくにはもっとずるくならないと 3度目の結婚 時子の3度目の結婚は東京に住み内務省に 勤務する官僚だったこの官僚には前との間 にすでに子供がいたが高知私立第3小学校 2年生の時に時子に2度目の再婚話が 持ち上がった何の心配もなくただ甘えて いればいい暮らしはある日突然立ち切られ た母に連れられて高知駅から記者に 乗り面町にある叔父ひの家に行った時は そのままそこに置いて行かれるとは思って いなかったお前は体が弱いからおじさんに 丈夫にしてもらうのよそう言われてたは 素直に頷いたそして帰っていく母を千ひと 一緒に見送ったこの時は母が再婚すること を知らされていなかったそのうち迎えに来 てくれると思っていたので悲しくはなく涙 も出なかったよそ行きの着物を着て白い パラソルを刺した母を綺麗だと思ったと 実感しているこの別れは矢瀬孝志のその後 の人生や作品に大きな影響を与えたと考え られているこの3度目の夫との関係につい ては詳細な情報が少なく数年後に利別した あるいは夫がなくなった可能性が示唆され ている 柳瀬孝志しの刺繍から母との別れを朗読し ます母との別れ僕らはある日母と別れた僕 らは体が弱いから良くなるまで医者をして いた叔父の家に預かってもらうと母に言わ れたおじさんの言うことをよく聞いて早く 良くなるのよお母さんはすぐに迎えに来 ますからね母はそう言った母は清掃して 白いパラソルを指していた秋の初めの頃 だったかな僕と弟は素直に信じたそして母 を送っていった母のパラソルは蝶のように 麦畑の中を遠ざかっていった母は何度か 振り返った僕らはその度に手を振った あなたのお母さんは悪い人やこんな可愛い 子供を捨てて再婚するなんてしかし僕らは 信じた母を信じた本当のことが薄う 分かりかけてきた頃になっても僕らはまだ ずっと信じていたそして早く丈夫になろう と霊水摩擦をして風を引いたたしは母が もう戻ってくることはないと気づいてから パラソルの城姿を思い出すたびに母さんは あの時心の中で僕にごめんねごめんねと 言っていたはずだと自分に聞かせていた ごめんちで暮らすようになってからも母の 悪口が耳に入ってきてたはそれを聞くのが 何よりも嫌だった自分を置いて再婚した ことを知った後も母を恨む気持ちにはどう してもなれなかった 消えなかった時と千ひとのつがり7歳弟5 歳で時これた後この母子たちのつがりは 全く途えてしまったのだろうか再婚してい た時子が偶然にも叔父の柳瀬正が務めてい た銀行の近くの東京背田区大原町に住んで いたようだ高と子は時々会えていたのでは ないだろうかまた千ひは京都帝国大学法学 部に在学していた時に時子と映っている 写真が残っているこのことから清と死に 別れた後も時子は子供たちと全く縁が切れ てしまったわけではないことがわかる 4度目の結婚その後詳細な人物像や結婚 時期は不明だが時子は4度目の結婚して いる晩年の情報として時子は4度目の夫に も先立たれ60代で故郷の高知に起したと されているこのことから時子は夫に先立た れた盤年は戦争もあって故郷に疎会し 過ごしたようである成下から少し離れた双 の家に1人で暮らし地元の女性たちに池花 や佐藤を教えて整形を立てていた地元の方 の回層では息子が漫画家だと嬉しそうに 話していましたと語っている当時孝志は 東京の三越しでデザイナーをしながら漫画 を手掛けていた いかがでしたでしょうか最初の結婚で出り という挫折から始まり2度目の夫との私別 そして幼い子供たちを手放しての3度目の 結婚さらに4度目の結婚とまさにハ乱万丈 の障害でした時子は当時の常識に囚われず 自身の人生を切り開こうとする強い意思を 持った女性だったと言えるのではない でしょうかこの複雑でドラマティックな 母親の存在が矢瀬孝志の捜索活動特に困っ ている人を助けるというアンパンマンの 根源的なテーマに大きな影響を与えたとさ れています最後までご視聴ありがとう ございましたよろしければチャンネル登録 高評価コメントをお願いします [音楽]

SNS上で毒親と言われている朝ドラ「あんぱん」で、嵩の母親・登美子が話題になっている。
派手好きで、美貌を誇り、奔放で傍若無人に振る舞う。
史実では、やなせたかしに『生きていくには、もっとずるくならないと』
と言っていた。
今回は、母親・登美子のモデルとなった柳瀬登喜子(ときこ)が、四度の離別・死別・再婚を繰り返した、その生涯を探ってみました。

【引用】
アプリ Vrew

【楽曲提供 株式会社光サプライズ】

#朝ドラ #あんぱん#今田美桜#やなせたかし#小松暢#北村匠海

3 Comments

  1. 結婚した相手が次々と死んでいく、男は短命だったのですね。でも生きながらえるには好都合な方向に人生を持っていかないとこれも頭の良い女でないとやれなかったでしょう。賢い女性ですけど少しも幸せとは言えない人生でした。やなせたかしさんの奥様はとてもお美しくて聡明で理想の人でしたが健康に恵まれなかったのが残念です。

  2. 清さんさえ生きていれば、はなやかで、幸せな生活をずっと送れていたのかもしれません。

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