やさ禅金子謙三
皆様こんにちは やさしい前に親しむ会4月を担当いたし ます 佐賀県 不穏寺住職金子賢山と申しますどうぞ よろしくお願い致します 福岡市内の ホテルの会議室を会場に長年に渡って行わ れてまいりました やさしい前に親しむ会 ここ数年は この中の影響もありまして オンラインでの開催ということになって おります 直接会場に多くの方が足を運んで頂きお顔 を合わせながら 取り組んでまいりました時とは ずいぶん様子が変わってしまいました 会場の雰囲気や 言葉のやりとり窓ん あれが楽しかったなというふうに今改めて 感じたりいたしております オンラインでの開催ということになります と誰もがその環境や手段が整うわけでは ありません 中には オンラインになってからこの海と遠藤区 なられた方も終わりではないかと想像 いたします ことも残念なことです 一日も早く元の日常に戻ることを願って やみ それではこれよりお話を申し上げて参り たいと言う この会に足を運んでいただいている方の中 には入っ 時間の調整をしそして会場まで電車やバス を乗り継いで参加なさっていた方も大勢を 入れだったことと思います 夕方の乗り物が混雑する時間帯に またお仕事などでお疲れのところわざわざ お越しになられるのにはそれなりの理由が 終わりだったと思います は単に仏教に関する知識を増やしたいと いうだけではなく 文京や前の知恵を学びそしてそれをご自分 の日々の暮らしに取り入れて より良い人生を歩みたいとの思いが終わり だったからだと思います 誰もが豊かでより良い人生を願っています それをかなえようとするための方法は人 それぞれ様々です 物質的経済的な豊かさによって より良い人生を手に入れようと考える人も あります また一方では 精神的な豊かさ 心の豊かさによって人生を充実させたいと 考える人もあります 私が身近に接する人たちの中でも 年齢を重ねるごとに 心の問題に重きを置く人が増えているよう に感じます それは 年齢的な衰えがそうさせているだけでは なく これまでの経験や 世の中を見る視野の広がりによるところも 大きいと思うのです まさしく前頭 心の問題であ 形や分量で測ることのできない世界です そこで今回は 皆さま方の中にもご存じの方も多いと思い ます 良寛様についてお話し申し上げたいと思い ます 良寛さんといえば子どもたちとてマリオ ついて遊ぶ姿を思い浮かべられる方も多い と思います また ご存じないという方もおいででしょう 改めて生い立ちから晩年にかけてのご生涯 をたどりながらん そこに垣間見える前の世界に触れてみたい と思い さて良寛さまの呼び方です 多くの方が親しみをこめて良寛さんと呼ば れていますので a 今回も秒間さんとお呼びしたいと思います 私が良寛さんを知ったのは小学生の頃です が件の御詠歌の大会で 秒間様という曲を 30人ほどの子どもたちで歌ったのがその 最初です このもながらにその歌詞を辿りながら 昔話出てくるおじいさんのような人なの だろう のし方を想像していました そしてその印象は私の中で同じ姿のまま 十数年続いておりました やがて学業を終えて修行に入っ 送料伸びとなった20代半ばへ 秒間さんに関する本を読む機会がありまし て ヨウカンさんを実在の人物とし そして曹洞宗の僧侶という存在として認識 することになりました 秒間さんは江戸時代中期から後期にかけて の1です 越後 つまり今の兄が掛る 日本海に面した港町 出雲崎で生まれられました 当時は北前船による海運業がとても者間で 出雲崎もその船の寄港地とし とても賑わっていたようです 私も5年ほど9 良寛さんが生まれた出雲崎を訪ねました 今は当時の繁栄の名残も薄く どこにでもあるような 静かな港町といった見行の待ちでした ただそのせいかお生まれになった家の跡に は 両感動という小さなお堂が建てられてい 晩年の良寛さんの姿が 等身大よりもやや大きな銅像となってい 遠くにう家具 お母さんの噴射とである 佐渡島を静かに見つめているようでした 反映する町の名主の家 長男として生まれたのが山本映像こと秒間 さんです 当時世襲によって名主をついていました 順調にいけば将来は安泰だったことだろう と思われます 名主というのは今で言う蝶々さんや市長 さんがようなものです なぜそのような人がお坊さんにと誰もが 思うはずですよね 良寛さんは子どものころから学問が好きで とても熱心だったようです 今ずに言うなら 学習塾に刷り込みで勉強していたようなの です そんな良寛さんに親や周囲の人たちも きっと期待したに違いあります ところが青年期になり 名主の後を継ぐための見習いを始めると 現実社会の厳しさを味わうことになります 良寛さんの立場から言うと 厳しさとはつまり 権力や財力にまつわる人間の醜さや務所の ことです 純粋な気持ちで学問を積み重ねてきた良寛 さんに突 それらと向き合わなければならないことは とても耐えがたいことだったのかもしれ ません 私たちも純粋な子供時代屋 理想に燃える青春時代 大人の世界の醜さや 理不尽さを感じたことが ヨウカンさんと同じようにあったように 思います ところがいつのまにか そんなものだと受け取っていっ やがて疑問も薄れて大人になってしまった ような気がします 良寛さんにとってまずここが大きな転換点 となったのです その純粋な心が生涯にわたって貫かれて いったの言うまでもあります 子どもたちとまりつきをして無心になって 遊ぶ晩年の姿にそのまま表れていると言っ ても良いでしょう 次第に良寛さんの中で 政権の 矛盾に帯域0 ユッケをしたいというような気持ちが 芽生えてまいります 近くにあります曹洞宗の興正寺というお寺 に身を寄せまして そこからお坊さんとしての一歩を踏み出さ れることになります 22歳と言いますと私も 学校終えまして 御本山に腫瘍に挙がった年齢でございます 良寛さんとはずいぶん心持ちが違うような 気がいたしました なんだか恥ずかしいような気持ちすら いたします それでは良寛さんのことについてお話を 申し上げましょう さて秒間さんです 身を寄せていた交渉時にいて 折しも 備中玉島より 円通寺の住職 国仙和尚様が来ておられましたその人に 引き合わせられます 正式にと久保を受け 6度とはつまり正式に出郷することです そしてそこで量感という名前を授かった ことです 備中玉島とは現在の岡山け倉敷市になり ます 当時遠次は曹洞宗の修行道場として多くの 僧侶が修行をしていました 良寛さんも国仙和尚様について園2日に 入っ 12年もの間 そこでの厳しい修行に明け暮れました 現在の編2日は修行道場ではありません 小高い丘の中腹に当時を思わせる広い経済 が広がっています 矢吹の本堂など歴史の重みを感じさせる 佇まいと その存在感は今なお健在です 秒間度と名付けられた古い建物がありまし た そこで良寛さんは座禅に打ち込んでいたと 伝えられています またお寺の台所の責任者である エンゾという重要な役職にもついてい そういう記録も残っているそうです 世間の矛盾や厳しさに耐えかねて出家した ひ弱な人物というわけではなく 純粋な心の中にも己を律する厳しさと 揺るがぬし近年の持ち主だった事が伺え ます 誰もが想像をする子供たちと遊ぶ穏やかな 姿とはまた違った一面を見るようです 良寛さんは33歳の時 国選王将さがより インカの下を三足あります インカのゲートはわかりやすく言うならば 悟りの証明書とでも言いましょうかつまり そういうことです この後およそ5年にわたって諸国を行脚し て回られた その間は消息不明でほとんど記録があり ません 一説には四国に渡っていたとも言われてい ます そういえば 頸椎のある場所からは瀬戸内の島々が見え ます そしてその向こうには四国の姿を望むこと ができます 良寛さんは 5今日も15に変えるのではなく 新たに何かを求めて 四国を訪ね歩いたに違いない 私は宴ツリーのある た課題から海を眺めながらそう思いました そしてその間に これまでの己に対する厳しさや強い所 これを 他人に対する思いやりや優しさに転換する 術を身につけた上ではないだろう やっていそう想像したことでした その後15に帰ってきた良寛さん 用い兄自らの代名詞にもなる 5号案で暮らすようになりました 山の中腹にある5合庵 日々者と肉があっては家々を回って 100髪を剃るという生活です そして托鉢の途中にサポの子どもたちと 無邪気に手まりをついたりして遊ぶという いわゆる私たちがイメージする良寛さんの 暮らしがここから始まるのです 5号案も自らが所有した住居ではない 他の宗派のお寺の 隠居城を借りて仮住まいをしていました その後 を明け渡すことになると あちらこちらのお寺へ 神社のいわゆる社務所のようなところに 住み替えをしながら暮らしました 修行道場で悟りの正面を受けるほどな人 です その気になれば 住職として落ち着いて生活することの できるお寺は いくらもあったことだろうと思います ところが涼感者が 寺の住職になろうとはしませんでした こんなエピソードがあります 良寛さんの徳の高いことを知った時の藩士 つまりこの様 5号案を訪ねでき あなたのために立派なお寺を建てて 差し上げましょうと申し入れます ところが秒間さん 100歩道は風が持って来るをチーバくん 和歌を詠んでことがあるのです 各歩道は風がもてくる落楽 つまり 自然に風が運んできてくれる落ち葉0 煮炊きや暖を取るには十分足りていますの で その必要はありませんよということです 所有するということが執着する心を生み 結果として自らが迷い苦しむことになると いうことを知って そこに揺るがない信念があるからこそ 最も簡単に断ることができ 私たちなら某でしょう あなたの能力や技術を生かすためお店を 作って差し上げましょうかと 誘われたなぁ だして断ることができるでしょう 禅の言葉に 無一物中無尽蔵というのがあります 無一物つまり何も所有していないと言う それは 何も持っていないようだ とらわれるものがないので反対に すべてを持っているのと同じだと言う 何かを手に入れることによって満たされる ということは確かにあります しかし同時に 終着の心が芽生えるということも知ら なければならない また 盗人に取り残されし窓の月という歌に まつわるエピソードもこれと同様のことを 伝えています おしゃかしゃまがを時になられた 少欲知足が教えそのものの実践でもあるの です ものばかりではなくちーも名誉も手にする ことのなかった 生きる姿勢は 74才で生涯を閉じるまで揺らぐことなく 貫かれていました むしろ 優しい言葉や思いやりの心 他の人に対して当たり続けた生涯だった でも良いでしょう 良寛さんの執着を離れた日々の暮らしは実 に祖母へ 身の回りの自然と一体となって流れていっ たと思われます まさしく前も境地といえるのではない でしょう 良寛さんより50年ほど後の1 橘曙覧 という形があります 製品の歌人と言われる1尾 福井県の出身です その人のた集2 独楽木というのがあります そこに収められている52種のは彼は すべて 楽しみはという言葉で始まります 楽しみはとあ 私が幸せだと感じることはというような いー 例えばこのような歌があります 楽しみは めこ睦まじくうちつ沿い 頭並べてものを食うとき 楽しみは めこ睦まじくうち集い 頭並べてものを食うときっ 私たちが幸せだなあと感じるときそれは そこに何か特別なものがあるときに幸せと 感じるように思うのです 日常のありふれたものは当然のことであっ て何か特別なことがあったときそれを幸せ と呼ぶような気がいたします この明美さんの歌にありますよ ものを食うとき 何を食べているかということはそこに描か れておりません 私たちならば何か特別なごちそうや珍しい ものを食べるときあ幸せだなと思うことが あるのかもしれますしかし 明美さんはそれが何であって たとえ 粗末なものであったとしても 妻や子どもたちがいい仲良さそうに頭を 寄せ合うようにして一緒に食べて それを幸せと4名おられます また次のような歌があります 楽しみは秋米びつに米いでき 今一つ機は良しというという 米びつがだんだんからになってきて心細く なっていただ 手習いのお礼に頂いたお米や何か 周りから頂戴したものによって米びつが だんだんといっぱいになってきた あーこれだけあれば向こう1か月は大丈夫 だ 持ったときに幸せだと言っておられます 楽しみは秋米びつに米いでき 今一つ機は良しというとき 1ヶ月の保証を得たということで幸せです よ 今で言うならば 来月を暮らすための今月軍のお給料を頂い たということでしょう 今月の給料を手にして私たちは幸せと 思えるのでしょう 働いたのだから当たり前だという風に考え てしまうのではないかと思うんです 心が明美さんは向こう1カ月の故障を 幸せだと読んでおられます 楽しみは秋米びつに米いでき 今一つ機は良しというとき 製品とは 貧しくとも 清らかであっ 潔く生きるということであります これもまた少欲知足の生き方と言っても 良いでしょ 越後良寛さんの噂はいい越前に暮らす明美 のもとにも届いていたのかもしれません 良寛さんが亡くなって 38年後に時代は明治に移ります その後 世の中は スピードを増すようにして発展してまいり ました 現在は 快適で便利な時代と見ることもできます 果たして私たちは本当の意味での幸せを 感じながら生きられているのでしょうか そして 自分の人生はより良いものになっているの でしょう 良寛様を ただの昔話の登場人物とするのではなく これからの私の より良い人生のための良き道標と捉えたい ものです 本日はどうもありがとうございました