俳優・玉木宏さんの祖父が守ったロシア兵の墓…抑留の恩讐超えた博愛の精神、演じることで伝える命のつながり
史上最多他の犠牲者を出した第二次世界 大戦が集結して間もなく80年となる。 戦争体験者が年を追うごとに減っていく中 、最も身近な存在である家族は体験者の 行きざや思いをどのように受け止め 語りつぼうとしているのか。家族に刻まれ た戦争の記憶をたどる梅の墓日本海に 浮かぶ西島根県沖諸島の共同墓地の一角に 高さ1mほどの墓が立つ日路戦争の日本海 回線1905年で流れついたロシア兵を 当民らが金を出し合って飛ぶらった俳優の た木浩さん45の祖父さん2024年に 102歳で教は晩年までこの墓を守り続け た。武夫さんは過酷なシベリア欲流の体験 者だ。帰国後に墓森になった祖父の心情を 知った木さんは語った。人としての優しさ がすごく感じられる。人間捨てたもんじゃ ない。島で生まれ育った武夫さんは太平洋 戦争が回線する直前の1941年12月1 日、20歳で旧陸分歩兵第21連帯に入っ た。42年3月から中国大陸を転線し、 満州現中国東北部の主要都市法天原神用で 終戦を迎えた。武装解除後にシベリアに 連行され、45年10月に知カル 地方で欲流生活が始まった。武夫さんが後 に島の住民らに問わず語りで漏らした話を 総合すると厳しい日々の一端が見える。 当初は四つよをしげる建物がなく天幕での 生活。空腹を野草やキノコで紛らわせ、 松や白かなどの三輪伐採に従事した。冬の 気温は-40°防寒はあっても寒さで体が しびれ、切った木や正便は一瞬で凍った。 仲間のうち約350人が最初の冬をこせず に命を落とした。約2年間の欲流を終え 47年10月故郷に戻った。島で暮らし 始めた武さんはいつの頃からか毎日朝に ロシア兵の墓に通い草りなどの手入れを するようになった。備えるための式は自身 の畑で育てた。たまさんは子供の頃暮らし ていた名古屋市から毎年夏休みに島を訪れ 1週間ほど過ごした。竹夫さんと一緒に 敷み取りに出かけロシア兵の墓に水をかけ て苦養する様子を近くで見ていた。しかし その理由を尋ねたことはなかった。本当に 日常すぎてあえて聞いてみようという感覚 もなかった。しかし、地元住民らに問わ れると武夫さんは決まって答えた。1人間 として祖国に帰りたいという思いは一緒。 ここに眠るロシア兵は帰りたくても帰れ なかった。生きて帰ってくることができた 感謝の気持ちを込め、せめて墓の世話はし てやりたい。欲流の恨みは口にしなかった 。た夫さんはたまさんら家族に欲流の体験 をほとんど語らなかった。年入所する施設 で記した短い文章からはその心情の一端が 伺える。捕虜になったら腹を切るか下を 噛んで自殺しろと教育を受けていた。捕虜 になって帰ってきたので恥ずかしく誰にも 話したことはなかった。たまさんは 読み売り新聞の取材で家族が知らずにいた さんの一面を知った。いわゆる相手国の 方々も1つの命には変わりない。彼で あろうと優しく迎えるという姿勢は 素晴らしいな。音州を超えた無償の行動は 家族の歴史にしっかりと刻まれただけで なく海を超えたロシアでも語り継がれて いる。年4月ロシアウラジオストクの子供 らが島を訪れロシア兵の墓に手を合わせた 。その姿を見た武さんの目から涙が溢れた 。ここをずっと掃除しているけども、ここ にロシア人が来たのは初めてだ。今まで 生きてきて無駄ではなかった地元の国際 交流団体明場の会代表のさ、まき子さん 89がロシアの人が来てくれてよかった ですねと声をかけると竹夫さんは口にした 。わしよりもここに眠っているロシア兵が 土下に喜んどったらどんなに喜んでいる ことか。子供らと訪れていたウラジオ ストク在住のエレーナアンドレーはさん 50は通訳を通じてた武さんの言葉を聞き その人類合に心を動かされた。エレーナ さんには日本人欲留者と不思議な縁があっ た。祖父母は極東の宴会地方で正在所の 仕事をし、欲留者とも一緒に働いていた。 ある日、幼い娘が高熱を出した時、欲留者 の意思が処置してくれ、命を取り止めたと いう。祖父母にはその意が書いたという桜 の絵が飾られていた。
異国の地で命を落としたロシア兵、その墓を守り続けた一人の日本人――玉木宏さんの祖父。
戦争が残した深い傷と憎しみを超え、敵味方を分ける境界線を消した“博愛の精神”が、時を越えていま俳優・玉木宏さんの演技によって甦る。
命と命が紡ぐ物語は、国境も歴史も越えて、私たちに“人間としての誇り”を問いかける。
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